2018年10月31日

解放のドア

最近、すごく気が合うオジサンがいます。

僕がオジサンと言うのだから、すごくオジサンです。


その名も紘ちゃん。

何度か紹介した横山紘一さんで、禅サンガの講師もしてくれています。


紘ちゃんは唯識学の専門家で、唯識は仏教の根幹です。

根幹なのに理解している人はいつの時代も少なかったそうです。


だって

「自分という個人は存在していない」

なんて言われて、

「あー、そうですか」

となるわけがない。


人は勉強したり、修行したりして、いまよりもっといい自分になりたいわけで、その自分がいないなんて話は聞きたくないし、何のことなのかわからないのです。


それでも唯識が面白いのは、自分の意志(思考)さえも源から湧いてくるものであり、ことはただ起きていて、誰かがやっているのではないと説いていることです。


そしていつも、あるがままが在ります。

どんな困難が訪れていようと、それは時間の中の物語としてあるだけで、真実はいつも「いまここ」

あるがままが在るだけです。


解放のドア



それを知ったとき、初めて人は楽になります。


深刻なことは何もありません。

ただマインドが常に何かを裁き、正しさを主張し、物事を気難しくしているだけの話。



それも含めて、人生は冗談中の冗談。

宇宙的なジョークです。


こんな表現は深刻なマインドから見れば捨て置けないでしょうが、それも含めて事はただ起きているのであり、いいも悪いもありません。


この先も「自分」が物事をコントロールしながら失敗せずに生きていこうなんて考えていたら、それこそ心に重荷を抱えてしまいます。

だって何が起きるかなんて誰にもわからないのだから。


そういう荷物を全部降ろして、全体を起こしている源に任せてみましょう。



任せたとしても何もしないわけではありません。

いままでと同じように、必要だと思ったことはしていくでしょう。

でもそれさえも、起きるときに起きていくことを知っています。


自分が考えてそうしたのではなく、

そのような考えが湧いて、そのようにしていたということです。

いままでも、これからもね。



なんとなく分かりましたか?


分かったとしても、分からないとしても、そのように起きているわけで、そこに良いも悪いもありません。





心配や不安から解放されるドアが、こんなに近くにあるなんて。


解放されても、起きることが起きていくことに変わりないけれど、その底辺に安心と気楽さが流れています。




やっぱり気楽がいい。


気楽にいこう。












Posted by Toshiro Abe at 10:13│Comments(30)
この記事へのコメント
写真を見て一言




ポップにライトにチュンチュンチュン!!
Posted by かまぴー at 2018年10月31日 10:53
小さなここで感じることを言葉にするのすら難しい。
一つをいえぱこちらも大切で、こちらをいえばあちらからも(笑)
内包しているすべてを一つの言葉にすると自己満足のようで足りないきもする(笑)
阿部さん、、すごいなぁ。
Posted by AYAKO at 2018年10月31日 11:09
阿部さんの記事を読んで、同感することが多いので、ひょっとしたら、阿部さんと気が合うかもしれませんね。

天河神社には行ったことはありませんが(笑)

いろいろなことがわかるようになって、少しづつ荷物が軽くなり、楽に生きられるようになったことは、本当に有り難いことだと感謝しています。

心の在り方が人生を決めている。

その心の在り方が変化すれば、人生も変わる。

しかし、その変化も自分がしているようで、自分がしている訳ではない。。
 
そんな自分はいないから。

個人に起こるすべてはカルマ(運命)であり、カルマはダルマ(法則)であるということ。

カルマは個人のモノですが、この世には個はなく、ただひとつが在るだけなのですから、ダルマしかないということ。

すべてはダルマの通りに流れていくただひとつの流れが在るだけ。

その流れを傍観するこの宇宙で唯一の目撃者を「神」と呼ぶことがあります。

神が観る永遠に続く夢の世界の登場人物として、いろいろな役を演じている"わたし"。

演じている間だけ、登場人物に"わたし"という個があるかのような錯覚が生じています。

個という分離感もリアルな夢の体験も、錯覚に支えられているのです。

やがて、出番が終われば、生じていた錯覚も消滅し、個は消えて行きます。

個にとっては、人生は束の間の夢ですが、この宇宙で唯一の存在にとっては、この世は、初めも終わりもない永遠の夢。

人間は永遠の夢全体を観ることはできませんが、夢の世界に登場している間だけ、夢の世界を楽しむことができます。

人生とは、神と一緒に、神の夢を楽しむことができる特別な時間と言えるかもしれませんね。
Posted by 永遠の夢 at 2018年10月31日 11:46
いつもありがとうございます。
気楽が一番ですね。
善き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2018年10月31日 12:12
いつもありがとうございます。

ちょっとお久しぶりになりました。
普通、唯識も、禅も、神道も、それだけしか目に入らない方にかかると閉鎖的になりやすいのですが、阿部さんはどこにも属さず、どこからも取り入れて見事に融合、習合させ矛盾なく展開させられているのでとても素直にお話を伺い、取り込めます。
まぁ、真理は結局は一つなのですが。
何か一つに心を拘らせる、閉じこもるのではなく、囚われなく日々を過ごす。
努力してできるものでもないのですが、そうできたらいいなぁと思いながら生きたいです。

ではこれからも書きたいことをお書きください。
Posted by TSY at 2018年10月31日 12:30
いいね!
Posted by 優しい気持ち at 2018年10月31日 12:50
一昨日から
書いては消して書いては消してを
繰り返していました(笑)

背中に重くのしかかっている痛み
ガシッと掴まれるような痛みが
私をストーリーへと引きずりこんでいました。

今、ここへ来て
やっとスッキリできた。

やはりあべさん♪さまさま(^人^)

この起きている痛みを楽しんでみます。
起きてくることに委ね、湧いてくることをし、
お気楽にお気楽にね♪♪♪

なーむー(^人^)
Posted by D at 2018年10月31日 13:34
考えに同化したり、感覚に同化したり、色々あるけれど、ほんとの、わたしやあなたは、なんらかの評価では推し量れないところにある、深遠、神性なもので、そこには色が全くない。何色でもない。

どんな考えを持つか、どんな感覚を持つか、どんなことをしているか、などが全く関係ないとわかると、それらで何かを推し量ろうとしていること自体、茶番劇に見えてくるわけですね。
Posted by 薄茶色 at 2018年10月31日 15:31
愚か者なので僕はこう思った。

阿部さんはいいよな。お金も地位も名誉も人からの愛も自分の愛する力も全て持ってる。芸能生活、印税、そして悟り。そりゃ気楽になるよ。

僕だって気楽がいいよ。でもなれない。
何故って?お金がないから。病気が治らないから運も才能もないから。やりたいこと何にも出来ない人生だったから。
社会がー 過去にー 希望がー 周りがー

思ったこと終わり。

ほんとに言い訳の天才。気楽になるのになんでそんなのがいるんだよってね。「お前が悪いんだよお前が。自業自得だよ。死ぬまで苦しめ」

分かったところで、気楽になったところで もう人生積んでるんだけど
それでも積むまでは気楽にいられるからね。

ありがとうございますです。

明るく終活!
Posted by 匿名 at 2018年10月31日 19:47
『気楽にいこう』



そうですね。今日、仕事の書き物をしていたのですが、その作業って肩が凝るんです(笑)

で思ったのが、力が入ると固まっちゃうということ。

私たちが生活で行っていることって、けっこー固まっちゃうようなことだと思う。

昨日の阿部さんのコメント欄の話じゃないけど、決めつけというのも固くなっちゃう感じだから、

昔々流行ったファジーって言葉(笑)たしか曖昧とかいう意味だったような。。

そんな雰囲気がいいのかなあ。なんて考えていました。


優柔不断なんて言葉もあるから、バランスが必要かもですが(^_^)
Posted by ぶどう at 2018年10月31日 20:46
阿部さんの言うこともなんとなく分かるし、信じたい。けれど匿名さんの言うことも自分の事みたいで分かる。阿部さんの言うことが正論だとしても、そうは言っても…そうは言っても…という気持ち…。
でも前に言ってたじゃない。誰にでチャンスはあるし、悟らなくたってそのまま凡夫のままでいい。我々凡夫が居なければ阿弥陀様も仏になれず困ってしまう。凡人バンザイ!
Posted by おばあさん at 2018年10月31日 20:58
お久しぶりです。ありがとうございます。 俺はまだまだやな。思ったことが 思考炸裂ですわ。沢田研二 時の過ぎ行くままに、流れていくのも これも思考だす。まだまだやな。俺はこの世の歯車かな? おやすみなさい。☆
Posted by シシリー☆ at 2018年10月31日 21:27
『人生とは、神と一緒に、神の夢を楽しむことができる特別な時間と言えるかもしれませんね。』


そうですね。。


永遠の夢さんの一文をお借りして。m(__)m


お話してくださりありがとうございます(^_^)
Posted by ぶどう at 2018年10月31日 21:35
大した運も何の才能もお金もないのに、障害と病気は持っているし、地位や名誉や人気とは、全く縁のない人生だけど、この人生に満足しているし、ノーテンキなほど気楽に生きている。

心に縛られていないからかな?

ネガティブな心は、誰よりも自分を傷つけてしまう。

そんな自分の心からの解放が、自由へとつながって行く。

肉体を離れる時には、持っているすべてをこの世に置いていかなくちゃならない。

仏教では、108もある煩悩の滅却を目指す修行もあるようだから、いろいろなモノを持っていればいるほど、それら全部を手放すのは大変だろうな、と思う。

でも、持っているものがないなら、愛着のあるモノを手放す苦しみを味わうこともなく、何事にも執着なく、心安らかに逝かれるんじゃないかな?と思って、却って、何もないことを神に感謝している。

執着は、苦しみを生む。

自分の心が、自分の人生を決めている。

自分の幸せも不幸も、自分の心が決めている。

だから、何も持っていない自分は、超ラッキー♪だと思っている(笑)
Posted by ものは考えよう at 2018年10月31日 21:56
いまここ

とゆうより

これ

としかいーよがない

ゆーてるひともいるね
Posted by うずむしまつり at 2018年10月31日 22:55
うん!そうしよう!
お気楽、お気楽っと
Posted by みんぐ at 2018年10月31日 23:11
思考、感情、感覚との『対話』を覚えてから、
それらの根っこの『エネルギー』を感じ、重ければ解放するだけでいいと気付いたのですが、
思い通りに解放できないことが多いと感じてました。

そうしているうちに、『自分が』解放しようとするのではなくて、
その時々のエネルギーを感じている時の、自然な呼吸を意識し続けるだけで、
自然と解放されていくことに気付いて・・・
例えば頭の右側が重いと感じる時、そこを感じながら呼吸を意識すると、
吐く息も重く詰まっているのですが、その時の呼吸はそれが自然なので、
その呼吸をどうこうしようとせず『お任せ』していると・・・
ある時は、それだけで重いエネルギーがちょっとづつほぐれて流れ始めるように感じて、
頭と、呼吸の詰まりも解消されますが、かと思うと、何故か今重いと感じている
頭の右側ではなく、スムーズに流れていると感じる頭の左側に意識が行って、
その『意識の流れ』にお任せして、頭の左側を感じながら呼吸を意識し続けると、
その結果、何故か頭の右側の重さが一気に解消されたり、
かと思うと、頭の右側だと思ったら左の肩でした、とか、
胸や腹の底からため息が出たら頭が解放されましたとか、
まるでパターンが一定していないんです。
そりゃあ、『思い通りに解放』なんて、できるはずが無い、と思いました。

自分の体のエネルギー解放すら、『思い通りに』なんてならないんですから、

>それでも唯識が面白いのは、自分の意志(思考)さえも源から湧いてくるものであり、ことはただ起きていて、誰かがやっているのではないと説いていることです。

も、「そうですよねぇ~」と思う他ないですね~。

>「自分という個人は存在していない」

>なんて言われて、

>「あー、そうですか」

という感覚にはなってないですが、

「自分という個人は、何も『思い通りに』なんてできちゃいない」
とは、思うようになりました。
『思い通り』にしようとしていることに気付いた時、ただ『お任せ』すると、
むしろ『思い通り』になる気がしています(笑)
Posted by ただの「自分」 at 2018年11月01日 04:39
リラックス☆リラックス☆

おはようございます
Posted by 甲賀忍者 at 2018年11月01日 05:07
昨日の高校生への「てがみ」の前文は共感した。
でも今日のはかみ合わない。
匿名さんやおばあさんさんと同じ。
チャンスは何処にもないことになる、気楽はだれでものぞむでしょう。
文もおかしいなあと思いました。
多分重い荷物を下ろすのは自分を指し、気楽になるのも自分でしょうが、結局、ミナモトがやってるってことでしょう?
自分じゃなく。
なんか阿部さんも昨日今日書いてること分かってるのかと湧いてきた。
高校生も昨日は納得して今日はまたわからないでしょうね。
それじゃ、自分はいないじゃなくてこの自分は何処?。
寒い朝を感じる自分、天河に行った自分は何処?。
書いた阿部さんはやらせられてる阿部さんとなるのかな?。
Posted by もうひとりの匿名 at 2018年11月01日 10:04
やっぱ、内側って本当にかわらないんだーと思いました。

それとも、本質はそれぞれでかわらないのでしょうか
Posted by どっち? at 2018年11月01日 11:32
個人性があると思っている間は、自分が自由意志を持っていて、自分が意図し、自分が行動し、自分がその行為の結果を受けていると考えるのが普通でしょう。

しかし、個人性の不在を知ってしまった場合は、自分だと思っていた存在は幻想だということが明らかになってしまうので、阿部さんの今回のような記事内容に違和感を感じることはないと思われます。

生まれてくる人間で、自分が本当は何者なのか?を知って、生まれてくる人はいません。

自分は〇〇☓☓という個人である、と思っていることは、無明、無知とも呼ばれ、仏教では、この無知が取り払われた状態を明智、智慧、悟りと呼ばれ、修行で目指す境地となっていることは、よく知られています。

生きていると、自分は駄目な人間だ、とか、自分は悟っていない、とか、その他あらゆる思考、想念が湧いてきます。

その思考、想念は、ただ湧いているだけなのです。

そう考えている"わたし"が、実体として在るわけではありません。

脳にそのような考えが浮かんでいるだけなのですが、人は"わたし"が考えていると考えます。

こう考えて行くと、どこまでも思考のループにハマってしまい、そこから抜け出すことはできません。

瞑想中や深い眠りの状態では、思考は湧いてこないため、思考のループは起こりません。

その時、自分は〇〇☓☓だという想念は消滅しており、ただあるがままの状態が在るだけです。

このただあるがままの状態の"わたし"が"本来のわたし"あるいは"本当のわたし"であり、自分は〇〇☓☓だと思っている"わたし"を"偽わりのわたし"としてみると、思考の整理がつき、わかりやすくなると思います。

私たち人間は、生まれながらに、この"偽りのわたし"(偽我=自我)を、"本当のわたし"(真我)だと思い込んでおり、それが苦しみの原因となっていることが多いのです。

「わたしは、"本当のわたし"(真我)を知らない」と"偽りのわたし"(偽我=自我)は、考えるかもしれませんが、その考えも"偽りのわたし"(偽我=自我)に起きただけであり、"偽りのわたし"(偽我=自我)が何をどう考えようと、そういう考えが湧いただけで、"本当のわたし"(真我)は、常に"本当のわたし"(真我)として、在り続けています。

このことを阿部さんは、活動を通して伝え続けて下さっているのだと思います。

"偽りのわたし"(偽我=自我)が何を考えようが、真実は永遠普遍であり、変わることはありません。

"偽りのわたし"(偽我=自我)を自分だと思う見誤り、誤った自己同一視が起こっているだけで、私たちは、一人残らず、真我そのものです。

時に、見誤り、誤った自己同一視が正される場合がありますが、たとえ、それが正されなくても、誰でも真我そのものであることに変わりありません。

それ故、常に阿部さんは、大丈夫だと言い続けて下さっているのでしょうね。
Posted by 永遠の実在であるわたし at 2018年11月01日 12:55
>最近、すごく気が合うオジサンがいます。

ふつーにあべさんが羨ましいです。 いいな、いいなぁ~
変わっているから、共感も、解放もできなくて悲しいかも。
子供にさえ、訳の分からないことを言うと怒られる始末だし・・・
悲しいけど、解ってもらえない事は言わないほうがいいんだろうな~
とか思ってます。 気の合う人がいるって羨ましいな(←シツコクテスミマセン)。
Posted by シマエナガ at 2018年11月01日 20:07
私は、瞑想で浄化されるものって、負のカルマとか邪気とか、呼び名はなんであれ、滞りのネガティブなエネルギーだと思っていて、そのネガティブエネルギーを浄化することが、心身の健康、すなわち幸せに生きることに繋がっていると思っています。


唯識で説いていることも、ざっくり言うとそういうことではないかと。


神道も禊、祓いを重視しているようですし、やはり浄化、鎮魂?言い方はなんであれ、ネガティブエネルギーを祓うことを目的にしていると思っています。


それが、スピリチュアルで言う、ハートの声を生きること。

他の言い方だと、神を生きると言ってもいいでしょうし、本当の自分を生きるとか、本質を生きるとか、存在を生きるとか。


もうすでにその存在なんだけれども、忘れてしまっているから、思い出せるように、禊、祓い、浄化をする。それが、あらゆる修行の根幹なのかな。

だからといって、修行して思い出す(悟る)保障はなく、修行しなくても思い出すこともあるわけで、自分ではどうしようもないことなのでしょう。


それでは一体なにを頼りに生きたらいいのかと途方に暮れてしまいそうですが、いまの私が思うのは、私の思うように生きようということ。


私、自分というのは、誰にとっても神の創造物。

だから、私、自分の思うように生きるとは、そのままですでに神を生きることだと思うのです。


思うのでした~!(笑)


神々のみなさま、よろしくね☆
Posted by ぶどう at 2018年11月01日 22:35
人によって、理解度はさまざま。

この類の話は、大抵は理解されないで、誤解を招くことが多いのが普通なので、
お互い話が通じる人間に出会えたことは、阿部さんにとっても、嬉しい出来事なのでしょう。

一般的には、誰にでも容易に理解できる内容ではないことを百も承知の上で、それでも、宗教的には、最奥の奥義である神秘について、時を経ても変わりなく、平易な表現で、誰にでも分かり易く伝え続けて下さる阿部さんの熱意と姿勢には、頭が下がります。

いつも、ありがとうございます。

どうぞ、これからも、伝え続けて下さいね。

一人でも多くの人が思い出せるように。
Posted by いまここ塾生 at 2018年11月01日 23:00
辛口コメです。
趣味嗜好があえば気の合うと言えるでしょう。
ゴルフが好きだからとか釣りが好きだとか、はたまたコスプレが好きだから合うってこともあるでしょう。場合においては合いません。
見えてくるのはこういう話で発信してる方とまったく同じである。だからの、強調に思えます。
>深刻なことは何もありません。
気楽になる言葉ではあります。
>人生は冗談中の冗談。宇宙的なジョークです
気にいる方もいるでしょうが、私には飲み込めない。
人生は冗談というないがしろの表現はいただけないですね。
みんなこの人生を深刻に捉えてるから苦悩するのだ。勿論そう理解しての表現で有ろうかとは察しは出来るのですが。いや、阿部さんはもしかすると幻想という言葉通り軽んじてる感じも実のところ思う節もあります。
そこがどうも噛み合わない理由かもしれません。
ぶどうさんの書かれた、「自分とは神の創造物」つまりそこに、自分とは神聖なものであるわけで一番大事なわけで、冗談、ジョークとは言えないんですね。
また、この世で生を全うして、無に帰って、さて自分という記憶ってあるのでしょうか。
ですから、
今のこの世で、自分が生きるが大事なわけでそこに冗談ではないです。
生活上では冗談は他人以上にはよく言うタイプですも書いときます。
>ただ起きてて誰かがやってることではない。
これは却下してます。神の、本来の自分が創造したわけですから
結局自分です。
他でもない自分です。唯識であっても自分です。
まあいずれにせよ両方証明しようがないですけど。
Posted by もうひとりの匿名 at 2018年11月02日 00:34
写真を見て一言




すーいすーいすーだらったった、すらすらすいすいす~い
Posted by かまぴー at 2018年11月02日 00:59
もうひとりの匿名さんに思うこと。
阿部さんに会ってみれば納得されると思いました。自分という言葉の意味するものが違っているし。
一つ二つの文章だけで辛口コメントするのはいかにもネット社会。でも実物もご健在で本名で活動されているので、会ってからでも遅くないかと。会って話すと内容だけでなくその人の波動が伝わってきます。
私は阿部さんから愛を感じる一人です。
おかげでかけがえのないものに気づきました。
Posted by 意見って at 2018年11月02日 08:27
八方塞がりで苦しかった時、死にたいほど辛かった時、自暴自棄になってた時。。
そういう時に阿部さんのメッセージに出会っていたら、どう感じただろう?何を考えただろう?

自分に起こることはすべて必然、必要だから起きている、と信じている。

何故なら、神さまがそうされたから、そうなったのだから。

人生は、その時は、そうは思えないことでも、あとから考えると、自分には必要だったと思えることばかり。

そこから、何かを学び、生まれてきた目的を果たせるように、人生は設計されている、と思っている。

そのために、必要で最善のことが起きている。

その時には、そうは思えなくても。

神さまは、一人一人の能力や気質、性格をよくご存知で、その人にピッタリ合った運命を与えて下さっている。

いろいろな人がいて、世の中は成り立っている。

私は私を生きているだけだし、阿部さんも阿部さんを生きているだけ。

それは、誰も同じ。

苦しいことが多い人生であっても、考え方次第で、人生は変わる。

心がすべてを決めている。

見方が変われば、ピンチもチャンスになる。

地獄だったところが、極楽に変わる。

お釈迦様の教えの通り、苦しみはあるけれど、苦しみを滅する方法もあるということ。

その方法に気づくまで、苦しみはやって来る。

阿部さんは、私たちがその方法に気づけるように、易しい言葉で、わかりやすいメッセージにして送ってくれている。

その方法がわかった時、阿部さんが伝えてくれたことを受け入れられるようになると思う。

それまでは、反発も起こるし、腹も立つだろうが、その自分に起こる反応も、やがて変化するかもしれない。

または、阿部さんではない人のメッセージに共感するかもしれない。

それは、今は、阿部さんよりもその人のメッセージが自分には必要だということなのだろう。

すべては神さまの計画通り。

どんな人生も神の創造のストーリー。

その時に、その人に必要なことが起きている。

そこに、良いも悪いもない。

与えられた人生を、神に感謝して、生きるだけ。
Posted by 人生いろいろ at 2018年11月02日 10:16
>この先も「自分」が物事をコントロールしながら失敗せずに生きていこうなんて考えていたら、それこそ心に重荷を抱えてしまいます。

>だって何が起きるかなんて誰にもわからないのだから。

先日の夜に、突然アキレス腱が痛くなり、まともに歩けなくなりました。
瞑想や坐禅の助けを借り痛みが少しでも引けばなあとわらにもすがる思いで半跏趺坐になろうとしたら激痛があり、半跏趺坐が出来ませんでした。
なので足を伸ばしたまま背もたれにもたれながら、瞑想にはいりそのまま朝まで眠ってしまいました。

残念な事に次の日の朝もまだ痛みがあり、まともに歩けません。
それでも仕事にいかなくてはならず、取り敢えず向かうだけ向かおうとスクッと立ち起ち上がりました。
床に置いてあった荷物を抱えようとしたその瞬間、急に気分が軽くなりました。
さっきまであった心のモヤモヤ感の雲がさっと引き、気分爽快な感覚に身が包まれました。
そして何より驚いたのは足の痛みそのものも忽然と消えていました。
その瞬間『私はいない』の感覚が湧いてきました。
正体不明な何かがボタンひとつで全てをコントロールしてると。
心の気分もボタンを押して楽しんでる存在がいるのかなと。

『私がいない』
とはこう言う意味なのか。

全ての起こりは何かに操作されているのか。

痛くなったら、あ~!痛みのボタン押された(笑)
悲しくなったら、あ~!涙のボタン押された(笑)
気分が良くなったら、あ~!気分の良いボタン押された(笑)
そんなイメージが浮かんできました。

何が起きるかなんて本当わからない。
それがちょっとだけ感じられた不思議な体験でした。

だから、安心して委ねようと思いました。

何もかも全てがここにある。
全てを与えてくれている存在に感謝が湧きました。
Posted by アマリリス at 2018年11月03日 01:31
人は勉強したり、修行したりして、いまよりもっといい自分になりたいわけで、その自分がいないなんて話は聞きたくないし、何のことなのかわからないのです。


それでも唯識が面白いのは、自分の意志(思考)さえも源から湧いてくるものであり、ことはただ起きていて、誰かがやっているのではないと説いていることです。

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昨日の事ですが
職場で初めて天河神社に御参りに行った事がある人と話しました。
その人は私が苦手とするタイプの人。
仕事中なのに普通に平気で駄弁ります。
人のあれこれ噂ばなしも満載です。
そんな人なのに人気者です。
多分脱力してゆるんでる人だからと思います。
因みに先日コメントした悪口を大声で周りに聞こえる様に私に振ってきた人と仲が超悪いです。
それはさておき、、
天河神社、あそこは神秘的な所だと申しておりました。
天河周辺の夜空には常に流れ星が流れていて感動したと申しておりました。
後、京都大原三千院から歩いてすぐの場所もオススメしてくれました。
苦手(ある意味嫌い)とするタイプから天河神社のお話しと京都大原三千院のお話しが出てくるって、なんか変な気分になりました。

本当はいい人悪い人っていないのですね。

あの人から天河神社のお話し出るくらいなら全ての人は悟ってると言っても過言じゃないと思うしかない日であった。

いいも悪いもない、ただあるがままにある。

判断のない世界って、まるで生きて死んでるみたい。
確かに楽ちんではある。
Posted by ぐでたま号 at 2018年11月03日 10:36
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