2008年08月06日
直球勝負

自分(自我)が消えた瞬間、自分以外のものも消えてなくなります。
というより、自分と自分ではないものが一つになって「大いなる一つ」だけが顔を見せます。
それは超リアルで、とてつもなく素晴らしい存在で、そこから見ればいつもの生活が夢のように見えます。
実際に、僕らが営んでいる生活は夢のようなものです。
心の中で作り出した幻想に対して、幻想の自分が関わっているのですから、人生とは幻想の二重構造のようなものです。
ありゃりゃ、今日はいきなりぶっ飛んだ表現から入ってしまいました。
一度でも目覚めの体験をしたことがある人なら、僕が何を言っているかわかると思います。
そうでない人にとっては、ナンセンスな話にしか聞こえないかもしれません。
でも中には、そのような体験はしたことがないけれど、僕が何かを懸命に伝えようとしていると感じて、興味を持ってくれる人もいますよね。
今日もそんなあなたに話しかけています。
なぜ繰り返しこのような話をするのか。
それは、この至高体験にこそ、人生の意味が含まれているからです。
これを知らなければ、人生は単に、食べて出して、寝て起きての繰り返しにすぎません。
いつも明日に希望を持って、同じ道をぐるぐる回るだけの、無意味な旅路にすぎません。
そう・・・、いわゆる人生という我々の一生には意味はないのです。
この人生に意味があると言う人は、その人が独自に意味を見出しているだけの話です。
人生は無意味です。
でもあえて言えば、その無意味な人生を無意味だと悟り、その人生を超えていくことが唯一の意味なのです。
それが至高体験と呼ばれるものです。
人間は、この無意味さに直面するのが嫌で、それぞれに希望と意義を見つけ、未来に向かって生きようとします。
それは個人的な夢の場合もあれば、人類を救うという地球規模の夢まであります。
いずれにせよ、それも幻想の中の幻想のようなもので、自己暗示にすぎません。
そうやって、いつかいつかと言いながら年老いて死んで行くのです。
もう一度言います。
人生に意味はありません。
この生命の唯一の意味は、意味のない人生を超えていくところにあるのです。
このようなアプローチは一見、ペシミズム(悲観論)や虚無思想に見えるかもしれませんが、それは表面的な印象です。
何であれ、夢を夢だと指摘しなければ、リアリティーには行き着きません。
でも多くの人は、このような真実を見たくないのです。
むしろ自分の夢を強化してくれる人や、後押ししてくれる人に惹かれます。
したがって、こうすれば幸せになるとか、こうすれば成功できるとかいうメッセージは常に一般受けするのです。
人生は「夢」のようなものだとか、人生に意味はないだとか、そんな話は聞きたくないのです。
なぜなら、すでに多くの人は、人生にあまりにもたくさんの汗や涙や努力を投資してきたからです。
いまさらそのことに意味がなかったなどとは考えたくもありません。
さてそんな中にも、人生の無意味さを悟ってしまう敏感な魂たちもいます。
そのような人たちが選ぶ道は、いくつかに分かれます。
1つは自殺です。
この意味のない不条理な繰り返しにサヨナラしようとするのです。
自殺をする人の中には、周囲から見て理由がわからないというケースがあります。
それはとても敏感で知的な人だった可能性があります。
むしろ、何の疑問も持たずに生きながらえている人のほうが愚鈍な魂とも言えます。
今日はかなりストレートに書いているので、反感を持つ人もいるかもしれませんが、そのような人は僕を無視してください。
ついて来れる人だけ、ついてきてください。
さてもしあなたが、この人生の無意味さに気づいたとしたら、その時こそ僕を思い出してください。
僕はそんなあなたのために、ここにいます。
死ぬのは、放っておいてもいつか必ず死にますから、自分から早める必要はありません。
それに、そこまで気がついたら、大きなチャンスを得たのと同じことです。
とてつもない歓喜の世界は目の前です。
あるいは、そこまでの自覚がなくても、この人生を超えた先に何かあるはずだ、昔から多くのブッダたちが報告している「彼方なる境地」が存在するという予感を持った人も僕の所に来てください。
僕はそんなあなたの役に立つことができます。
このブログも、そんな人たちに書き続けています。
今日は、いっさいの躊躇なく一気に書き上げてしまいました。
僕の真意が伝わった人は協力して下さい。
このような情報を多くの人に届けたいと願っています。
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よろしくお願いします。

2008年08月05日
火の鳥
先日、人と比較するから幸せな気持ちになれないのか、それとも幸せな気持ちじゃないから人と比較するのかと書きましたが、自分を観察してみると、どうやら後者の傾向のほうが強いようです。
ということは、いかにして自分を幸せな気持ちにさせておくかがポイントになってきます。
何かが足りないという思いや、何かがうまくいっていないという思い、あるいは自分ばかりが苦しめられているという思いから、いかにして抜け出すか。
このようなブログに興味を持ってくれる人は、すでにいくつもの答えを持っているのではないでしょうか。
たとえば、「感謝すること」
生かされていることに、そして見えない多くの存在に支えられていることへ感謝の気持ちを持つことです。
たとえば「愛すること」
自分自身を愛し、そして周囲に愛の気持を表現することです。
たとえば「与えること」
人のために良かれという思いから、自分自身を与え奉仕していくことです。
これらはすべて真実です。
しかしこれらが真実で、皆がこの生き方で幸せになれるのであれば、自分も世の中ももっと幸せに満ちているはずです。
僕の経験では、常にこれらのことを自分に言い聞かせて、そのように生きたとしても、やはり幸せな気分の時と、そうでない時は繰り返し訪れます。
そこにはまだ何か、本質的な問題が残ったままだからです。
それは何か。
そこには、感謝しよう、愛そう、与えよう、その結果幸せになろうとする「自分」「エゴ」が残っているのです。
「エゴ」は幸せになるためなら、感謝もするし、愛しもするし、与えもします。
しかし、この「エゴ」こそが、あらゆる苦しみの種であり、幸せな気持ちにさせてくれない原因なのです。
やはり僕たちは、幸せになるためのセオリーを生きるだけではなく、いかにしてこの「自分」「エゴ」を落とすかということに取り組むしかありません。
それではこの「自分」とか「エゴ」とか呼ばれているものはいったい何でしょう。
それは、過去という記憶の全てです。
それらはガラクタの山のようなもので、重い荷物となっているのですが、僕たちはそれと自己同化して、大切に持ち運んで生きています。
それら過去の全てと決別し、新しく再生すること、それが僕たちの目指す境地です。
そこから火の鳥伝説が生まれました。
炎の中でそれまでの自分を焼き切り、炎の中で再誕するのです。
そしてさらなる永遠の命を獲得していきます。

僕たちこそが火の鳥です。
僕たちこそが永遠の命なのです。
炎に飛び込むというのは、わかりやすく言えば、それまでの自分を明け渡すこと、サレンダーすることです。
昔も今もそれは変わりません。
禅師は、坐禅修行に入る弟子に向かって「死に切ってこい」と告げます。
死に切るとは、過去との決別を意味します。
古い自分を焼き切って、「いまここ」に再誕するのです。
エゴは過去を生き、ブッダは今を生きています。
違いはただそれだけです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
このような情報を多くの人に届けたいと願っています。
賛同してくれる人は、2つのボタンを押して応援して下さい。
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よろしくお願いします。

PS
今夜も「いまここ塾」やっています。
ということは、いかにして自分を幸せな気持ちにさせておくかがポイントになってきます。
何かが足りないという思いや、何かがうまくいっていないという思い、あるいは自分ばかりが苦しめられているという思いから、いかにして抜け出すか。
このようなブログに興味を持ってくれる人は、すでにいくつもの答えを持っているのではないでしょうか。
たとえば、「感謝すること」
生かされていることに、そして見えない多くの存在に支えられていることへ感謝の気持ちを持つことです。
たとえば「愛すること」
自分自身を愛し、そして周囲に愛の気持を表現することです。
たとえば「与えること」
人のために良かれという思いから、自分自身を与え奉仕していくことです。
これらはすべて真実です。
しかしこれらが真実で、皆がこの生き方で幸せになれるのであれば、自分も世の中ももっと幸せに満ちているはずです。
僕の経験では、常にこれらのことを自分に言い聞かせて、そのように生きたとしても、やはり幸せな気分の時と、そうでない時は繰り返し訪れます。
そこにはまだ何か、本質的な問題が残ったままだからです。
それは何か。
そこには、感謝しよう、愛そう、与えよう、その結果幸せになろうとする「自分」「エゴ」が残っているのです。
「エゴ」は幸せになるためなら、感謝もするし、愛しもするし、与えもします。
しかし、この「エゴ」こそが、あらゆる苦しみの種であり、幸せな気持ちにさせてくれない原因なのです。
やはり僕たちは、幸せになるためのセオリーを生きるだけではなく、いかにしてこの「自分」「エゴ」を落とすかということに取り組むしかありません。
それではこの「自分」とか「エゴ」とか呼ばれているものはいったい何でしょう。
それは、過去という記憶の全てです。
それらはガラクタの山のようなもので、重い荷物となっているのですが、僕たちはそれと自己同化して、大切に持ち運んで生きています。
それら過去の全てと決別し、新しく再生すること、それが僕たちの目指す境地です。
そこから火の鳥伝説が生まれました。
炎の中でそれまでの自分を焼き切り、炎の中で再誕するのです。
そしてさらなる永遠の命を獲得していきます。

僕たちこそが火の鳥です。
僕たちこそが永遠の命なのです。
炎に飛び込むというのは、わかりやすく言えば、それまでの自分を明け渡すこと、サレンダーすることです。
昔も今もそれは変わりません。
禅師は、坐禅修行に入る弟子に向かって「死に切ってこい」と告げます。
死に切るとは、過去との決別を意味します。
古い自分を焼き切って、「いまここ」に再誕するのです。
エゴは過去を生き、ブッダは今を生きています。
違いはただそれだけです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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よろしくお願いします。

PS
今夜も「いまここ塾」やっています。
2008年08月04日
いちゃりばちょーでー

いま久米島から帰ってきました。
昨日お祭りがあったんです。
人口1万人弱のこの島の、ほとんどの人たちが集まったのではと思うくらいの人出でした。
どこに出かけて行っても、そこで生まれ暮らしている人たちがいて、最初はお互いに様子を見ながらお話しするのですが、少し慣れてくると、もう昔からの知り合いのような気持ちになって話に花が咲きます。
まさに僕らはみんな兄弟だって思う瞬間です。
沖縄というところは、昔から粋な言葉がたくさん伝えられていて、先人たちがいかに豊かな精神文化を営んでいたかが偲ばれるのですが、その中でも大好きな言葉が、
「いちゃりばちょーでー」です。
これは、「出会えばみんな兄弟姉妹」っていう意味です。
ね、素敵な言葉でしょ。
しかもこの言葉は見事に真実をついていると思います。
地球という巨木に生えた60数億の葉っぱ。
その1枚1枚は、生えている場所も、色も、形も、大きさも違っているけれど、同じ幹から栄養分をもらって、同じ根っこに支えられて生きている、同じ命です。
僕たちは外観に惑わされて、お互いが全く違う生き物のように思いがちですが、まさに「人類みな兄弟」
出会えば兄弟、「いちゃりばちょーでー」です。
ただし、出会うというのは、単に身体が近くに接近することではなく、心が出会うということだと思います。
心の出会いがなければ、何十年近所に住んでいても、何十年同じ仕事をしていても、あいかわらず他人のままです。
反対に、心が出会えば、その瞬間に距離が縮まります。
僕らの距離感は、時間の長さではなく、時間の質によって決まると思います。
こうしてブログ上の出会いでも、たとえ身体は離れていても、心が触れ合うというのはよくあることです。
顔も名前も知らない同士でも、なにかの言葉で心が通じて、とても親近感を覚えることがあります。
僕はみなさんのコメントを読ませていただいて、よくそんな体験をしています。
時空間を超えていても、やっぱり出会えば兄弟。
ネットでも「いちゃりばちょーでー」ですね。
僕たちが同じ一つの命からできていることを、つい忘れがちですが、何度も何度も思い出しながら生きていきたいと思います。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人と出会えますように。
今日もご協力よろしくお願いします。

PS
8月30日に能登の七尾市に呼んでもらいました。
七尾美術館アートホールで3時から講演会を行います。
お問い合わせは090-9447-3689(元氣ショップ ら・む~)
2008年08月03日
告白

いつもこの場で、わかったような顔をして生意気にのたまっていますが、ある時は宇宙大に広がったり、ある時はピンの先みたいに小さく縮こまったりしているのが僕の心です。
今朝はピンの先状態でした(笑)
昔何度かご一緒したことがある同世代の音楽グループがあって、彼らは途中から大ブレイクするんだけど、そんな彼らの人生がうらやましいな~って。
ネットで彼らの活躍を見ていたら、そんな気持ちにはまってしまったのです。
僕にはブレイク経験がないし・・・
あれ?比較は無意味だって言っていませんでした?
はい、言ってましたが、それは人に言ったのであって、僕は時たまやっています。
しかも始まると、グチグチしつこくやってしまいます。
今朝なんか早起きして2時間もやっていましたm(_ _)m
そういう時って、幸せな気持ちじゃない時ですよね。
それとも幸せな気持ちじゃないから、人と比較するんでしょうか。
そんなときに出てくるのが、「あの時、あーしとけばよかった」っていう後悔。
自分だってもっとできたんじゃないだろうかってね。
あれ?後悔は無意味だって言いませんでした?
はい、言ってましたが、それは人に言ったのであって、僕は時たまやっています。
あなたはそういう時ないですか?
自分がずいぶん成長したなって感じた次の日に、また全然違う自分が出てきて、なんだ何も変わってないじゃないかって思うこと・・・
あってほしいです(笑)
でも世の中には、そういうレベルは卒業したみたいに見える人もたくさんいて、なんだか自分だけがあいかわらずそんな自分を抱えているような気がしたりして。
いけない、また比較していた

まっ、それもこれも全部含めて自分ということで。
これからもそんな自分を道ずれに、自分なりに生きていこうと思う真夏の日曜日でした。
そんな僕ですが、今日も応援ボタンよろしくお願いします。
これを押してもらえると元気になります。

ありがとうございました(^o^)/
2008年08月02日
エデンの住人
諸物価高騰のおり、また家族が増えました
子供が犬の散歩に出たら、後をくっついて来たって言うんだけど、本当は抱き上げて連れて来たのではと思っています。
先日のブログで、動物は知識の実を食べていないから、今もエデンの園で生きているって言ったけど、この子を見ていると本当にそうだと思います。
だってこれだもん。

でもってこれ。

もひとつこれ。

大きさはこれくらい。

うるさいニャ、目が覚めちゃったじゃニャイか

ところでここはどこニャ?

まっそんなこたどうでもいいか。
また寝るニャ。

がんばって幸せになろうとしなくても、本当はいま幸せなんだと思いました。
考えずに、とりあえず押してね

子供が犬の散歩に出たら、後をくっついて来たって言うんだけど、本当は抱き上げて連れて来たのではと思っています。
先日のブログで、動物は知識の実を食べていないから、今もエデンの園で生きているって言ったけど、この子を見ていると本当にそうだと思います。
だってこれだもん。

でもってこれ。
もひとつこれ。

大きさはこれくらい。
うるさいニャ、目が覚めちゃったじゃニャイか

ところでここはどこニャ?
まっそんなこたどうでもいいか。
また寝るニャ。
がんばって幸せになろうとしなくても、本当はいま幸せなんだと思いました。
考えずに、とりあえず押してね

2008年08月01日
ワオッ(^o^)
今日も愛について書いてみましたが、そしたらコメント欄にmariさんという人が
「後悔するのも愛があるから」
「愛が難しいと考えるのもすでに愛。無関心じゃないということ」
って書いてくれました。
そうか!
自分を責めるのも愛があるから。
それは隠れていて見えないけどね。
僕らの本質は愛だってことを、こんなにわかりやすく表現してくれて感謝です。
自分を愛せない人も、その本質は愛なのだから、それがわかれば簡単なこと。
本当はみんな、愛だ!
ワオッ(^o^)
多くの人に届きますように
「後悔するのも愛があるから」
「愛が難しいと考えるのもすでに愛。無関心じゃないということ」
って書いてくれました。
そうか!
自分を責めるのも愛があるから。
それは隠れていて見えないけどね。
僕らの本質は愛だってことを、こんなにわかりやすく表現してくれて感謝です。
自分を愛せない人も、その本質は愛なのだから、それがわかれば簡単なこと。
本当はみんな、愛だ!
ワオッ(^o^)
多くの人に届きますように
2008年08月01日
愛と野心
今日も愛について書いてみます。

愛って何でしょう。
何故人は愛を忘れてしまったのでしょう。
それは僕たち現代人が、あまりにも「考える」能力を発達させすぎたからだと思います。
知力が万能だと勘違いしてしまったので、何でも考えて答えを出そうとするのです。
愛でさえ、神でさえ、考えることで獲得しようとします。
ところが皮肉なことに、まさに「考える」ということ自体が、至高体験から自分を離してしまっているのです。
愛は感じることです。
愛は味わいです。
砂糖を味わったことがない人が、砂糖についての文献を読みあさり、砂糖について生涯をかけて研究したとしても、砂糖の味を知ることはできません。
それは味わうことなのです。
実際には人は愛がなければ生きていけません。
だから愛を見失った人は、愛の代用品が必要になります。
愛の代用品、それは「野心」です。
愛を失くした人は、自分の重要性を直接感じることができないので、外側の世界で重要人物になることで、それを埋め合わせようとするのです。
ひとかどの人物に見られることで、自分の重要性を世界に証明しようとします。
地位や、影響力や、権力や、財産や、知名度や・・・これらはみな、愛の代用品です。
愛の人は、自分を証明する必要がありません。
愛の人は、それだけで十分に満たされています。
この人生で成功をおさめ、この世の全てを手に入れたとしても、愛を知らなければ、何も手にしなかったのと同じことです。
でも愛を手にすれば、この世のものが何一つなくても、全てを手にしたのと同じことです。
愛とはそういうものだと思います。
愛の人でいたいですね。
そのための第一歩は、自分を愛することではないでしょうか。
自分自身を愛すること、それは人生で最も大切なことだと思います。
どうやって愛するかですって?
ただ愛するだけです。
愛し方を忘れてしまったら、愛し方を忘れてしまったそんな自分を愛するのです。
考えないで、ただ愛するのです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように、ご協力よろしくお願いします。

愛って何でしょう。
何故人は愛を忘れてしまったのでしょう。
それは僕たち現代人が、あまりにも「考える」能力を発達させすぎたからだと思います。
知力が万能だと勘違いしてしまったので、何でも考えて答えを出そうとするのです。
愛でさえ、神でさえ、考えることで獲得しようとします。
ところが皮肉なことに、まさに「考える」ということ自体が、至高体験から自分を離してしまっているのです。
愛は感じることです。
愛は味わいです。
砂糖を味わったことがない人が、砂糖についての文献を読みあさり、砂糖について生涯をかけて研究したとしても、砂糖の味を知ることはできません。
それは味わうことなのです。
実際には人は愛がなければ生きていけません。
だから愛を見失った人は、愛の代用品が必要になります。
愛の代用品、それは「野心」です。
愛を失くした人は、自分の重要性を直接感じることができないので、外側の世界で重要人物になることで、それを埋め合わせようとするのです。
ひとかどの人物に見られることで、自分の重要性を世界に証明しようとします。
地位や、影響力や、権力や、財産や、知名度や・・・これらはみな、愛の代用品です。
愛の人は、自分を証明する必要がありません。
愛の人は、それだけで十分に満たされています。
この人生で成功をおさめ、この世の全てを手に入れたとしても、愛を知らなければ、何も手にしなかったのと同じことです。
でも愛を手にすれば、この世のものが何一つなくても、全てを手にしたのと同じことです。
愛とはそういうものだと思います。
愛の人でいたいですね。
そのための第一歩は、自分を愛することではないでしょうか。
自分自身を愛すること、それは人生で最も大切なことだと思います。
どうやって愛するかですって?
ただ愛するだけです。
愛し方を忘れてしまったら、愛し方を忘れてしまったそんな自分を愛するのです。
考えないで、ただ愛するのです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように、ご協力よろしくお願いします。
2008年07月31日
個の開花

仏教徒は釈迦のようになりたいと考え、キリスト教徒はキリストのようになりたいと考え、ヒンズー教徒はクリシュナのようになりたいと考えます。
釈迦もキリストもクリシュナも、光明を得た人たちですが、彼らは全然違うキャラを発揮しています。
釈迦は菩提樹の下で瞑想し、キリストは世界の罪を一身に引き受け愁いを帯び、クリシュナは笛を吹きながら笑い踊っています。
そんなところから宗教対立が起こります。
自分が信じる宗教こそが正しいと考える人々は、他宗の真実を理解することができません。
キリスト教徒は考えます。
この世には罪と不幸が蔓延しているのに、クリシュナはなぜ呑気に笛など吹いていられるのだ。
自分さえよければいい態度のどこが神聖なのだと。
一方でヒンズー教徒は考えます。
存在の頂点に達した人間が、なぜそんなに深刻そうな顔をしているのかと。
真理は祝祭であり喜びのはずなのに。
宗教によってなぜこんなにも違うのでしょうか。
答えは簡単です。
花開いた人(悟った人)たちは、誰ひとりとして同じではないからです。
それは個性の開花なのです。
悟ることで行きつく境地は同じです。
釈迦もキリストもクリシュナも、同じ真実に行き着いています。
でもその真実が、どのように発揮されるかは、個性によって全然違います。
あなたという人の開花は、宇宙が始まって以来初めての花なのです。
それは他の誰と比べる必要もありません。
いつだって開花は独自の開花なのです。
社会は烏合の衆を作り出します。
同じような服装、同じような態度、同じような習慣、そして同じような儀式儀礼を行います。
結婚式、葬式、正月、盆、クリスマス、人と同じようにやることで、安心を得たりもします。
神や仏の前では、同じように手を合わせ、頭を垂れますが、それは単なる慣習であって、そこに目覚めはありません。
ただ多くの人がやっているから、自分もそのように教えられたからという理由です。
そのような条件付けが、各所にわたって浸透しているのが社会です。
社会の一員になればなるほど、ますます個ではなくなっていきます。
宗教組織も同じです。
ルールがあり、やるべきことがあり、正しい拝み方があり、儀式があります。
そのような形式に従うことで、ますます自分ではないものになっていきます。
組織に疑問を感じても、疑問を持つ自分が不信心だと思いこまされて、やがては自分を失い、正しい信徒になっていくのです。
悟りは開花です。
あらゆる慣習、あらゆる理想、あらゆるモデルから自由になって、個として花開くことなのです。
釈迦は一人で十分です。
キリストもクリシュナも一人で十分です。
いくら真似ても、せいぜい偽物のブッダになるのが落ちです。
ところが僕たちは、本物の自分になれるのです。
それこそが花開くと言うことなのです。
実は、僕たちは今あるがままの自分で、すでに悟っています。
すでに光明を得ています。
必要なのは、それを認め、宣言し、自分を生きることだけです。
あるがままの自分。
こんなに単純なことが難しくなってしまうくらい、僕たちは本当の自分を見失ってしまいました。
何かになろうとしないことです。
「なろう」を完全に落として「あろう」とすることです。
自分がどれくらい、自分ではないものになろうとしていたかを知ってください。
そこには、深いところでの自己否定があります。
それこそが、あなたの開花を妨げている元凶です。
あなたはあなたのままでパーフェクトなんです。
このあたりまえな自分が?
そう、そのあたりまえさを受け入れることが早道です。
特別な存在になろうとしないことです。
それらはみな、トリックなのですから。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
このような情報を多くの人に届けたいと願っています。
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よろしくお願いします。
2008年07月30日
愛と情欲
今日も愛について書いてみます。
あまり人がテーマに選ばないことをテーマにしてみます。
それはズバリ、セックスについてです。

昨日、愛は特定の対象へのものではないと言いました。
それは真実です。
愛とは行為ではなく、存在だからです。
もし愛が行為だとしたら、対象(相手)が必要になります。
でも愛が存在そのものだとしたら、それは普遍的なものとなります。
ちょうど太陽が、対象を定めずにあらゆるものを照らすのと同じです。
それが本当の愛の姿です。
でも僕たちは、いきなりその境地に達することはできません。
まずは肉体的な次元、セックス、情欲というものが入口になります。
そこに溺れることなく、それを瞑想的に通り抜けた時、高いレベルでの愛の一瞥が起こります。
そこでは、自分が消え、相手が消え、ただひとつなる永遠の境地に達するのです。
僕たちはセックスを通して、情欲を通して悟ることができるのです。
タントラという伝統は、そんな考え方に基づいています。
しかし世界中の多くの宗教はセックスに敵対し、セックスを否定してきました。
たとえばキリスト教です。
キリストは処女から生まれたことにされてしまいました。
マリアという女性は、類まれな純粋な精神の持ち主だったと思います。
しかし、彼女が自然の摂理を無視して、子供を宿すなどということはありません。
そこには、そのような話を考案した者たちの性に対する恐れと誤解があったように思います。
この世の森羅万象を見てみると、あらゆる生命が性的な仕組みでできていることがわかります。
ということはそこに神の意志があるということです。
この世の仕組みの全てが神聖であることを認めることが、真実の道を歩む第一歩です。
情欲を否定してはいけません。
そのような衝動が湧いた時、自分の精神性が低いからだなどと思わないことです。
それはちょうど、ハスの花が泥水から生まれ育つのと同じです。
情欲は泥水で、愛はハスの花です。
でも泥水なくしては、ハスも育つことはできないのです。
悟るためと言いながら、性の衝動を抑圧していれば、それは無意識の中に重荷として持ち運ぶことになります。
自然と闘っても勝ち目はありません。
性を抑圧し続けた人が、最後に見るのはセックスの夢だそうです。
それは断食で死ぬ間際に見る夢が、食べ物の夢だということと同じです。
その抑圧された衝動は、次の生にも影響することでしょう。
その抑圧を解消する、一番適した命に転生するかもしれません。
今日の最後に小噺をひとつ
阿部さんと梅田さんは、とても真面目な仏教の修行僧で、2人とも僧院の戒律をよく守り、性的な衝動は完全に抑圧していました。
2人は親友同士だったので、もしどちらかが先に死んだら、死んだ先の世界を残った者に報告しようという約束をしていました。
2人は死後の極楽浄土を信じていたのです。
1年後に阿部さんが先に死にました。
それから何年も過ぎたある日の夜明け前のこと。
梅田さんの耳元に阿部さんの声がしました。
「梅ちゃん、梅ちゃん」
「あっ、もしかして阿部さん?」
「そうだよ、約束通り報告に戻ってきたよ」
「ずっと待ってましたよ。今阿部さんはどんな所にいるんですか?」
「僕の生活はね、朝食をとってすぐにセックスするんだ。そして昼食をとってまたすぐにセックスするんだ。そして夕食をとってまたすぐにセックスするんだよ。しかも相手は毎回違うときている」
「へえ、それが極楽浄土なんですか。いいなあ」
「極楽浄土?僕はね、いま北海道に住んでいるんだ。僕はいま種馬だよ」
性の衝動を抑圧しすぎてはいけません。
それも神が与えた贈り物だからです。
不自然な強制をすることなく、情欲の中に入っていけばいいのです。
ただし溺れないこと。
瞑想的な注意力を持って、情欲を愛に変容させるのです。
セックスは、本当の愛に至る大いなる道なのですから。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように、ご協力よろしくお願いします。
あまり人がテーマに選ばないことをテーマにしてみます。
それはズバリ、セックスについてです。

昨日、愛は特定の対象へのものではないと言いました。
それは真実です。
愛とは行為ではなく、存在だからです。
もし愛が行為だとしたら、対象(相手)が必要になります。
でも愛が存在そのものだとしたら、それは普遍的なものとなります。
ちょうど太陽が、対象を定めずにあらゆるものを照らすのと同じです。
それが本当の愛の姿です。
でも僕たちは、いきなりその境地に達することはできません。
まずは肉体的な次元、セックス、情欲というものが入口になります。
そこに溺れることなく、それを瞑想的に通り抜けた時、高いレベルでの愛の一瞥が起こります。
そこでは、自分が消え、相手が消え、ただひとつなる永遠の境地に達するのです。
僕たちはセックスを通して、情欲を通して悟ることができるのです。
タントラという伝統は、そんな考え方に基づいています。
しかし世界中の多くの宗教はセックスに敵対し、セックスを否定してきました。
たとえばキリスト教です。
キリストは処女から生まれたことにされてしまいました。
マリアという女性は、類まれな純粋な精神の持ち主だったと思います。
しかし、彼女が自然の摂理を無視して、子供を宿すなどということはありません。
そこには、そのような話を考案した者たちの性に対する恐れと誤解があったように思います。
この世の森羅万象を見てみると、あらゆる生命が性的な仕組みでできていることがわかります。
ということはそこに神の意志があるということです。
この世の仕組みの全てが神聖であることを認めることが、真実の道を歩む第一歩です。
情欲を否定してはいけません。
そのような衝動が湧いた時、自分の精神性が低いからだなどと思わないことです。
それはちょうど、ハスの花が泥水から生まれ育つのと同じです。
情欲は泥水で、愛はハスの花です。
でも泥水なくしては、ハスも育つことはできないのです。
悟るためと言いながら、性の衝動を抑圧していれば、それは無意識の中に重荷として持ち運ぶことになります。
自然と闘っても勝ち目はありません。
性を抑圧し続けた人が、最後に見るのはセックスの夢だそうです。
それは断食で死ぬ間際に見る夢が、食べ物の夢だということと同じです。
その抑圧された衝動は、次の生にも影響することでしょう。
その抑圧を解消する、一番適した命に転生するかもしれません。
今日の最後に小噺をひとつ

阿部さんと梅田さんは、とても真面目な仏教の修行僧で、2人とも僧院の戒律をよく守り、性的な衝動は完全に抑圧していました。
2人は親友同士だったので、もしどちらかが先に死んだら、死んだ先の世界を残った者に報告しようという約束をしていました。
2人は死後の極楽浄土を信じていたのです。
1年後に阿部さんが先に死にました。
それから何年も過ぎたある日の夜明け前のこと。
梅田さんの耳元に阿部さんの声がしました。
「梅ちゃん、梅ちゃん」
「あっ、もしかして阿部さん?」
「そうだよ、約束通り報告に戻ってきたよ」
「ずっと待ってましたよ。今阿部さんはどんな所にいるんですか?」
「僕の生活はね、朝食をとってすぐにセックスするんだ。そして昼食をとってまたすぐにセックスするんだ。そして夕食をとってまたすぐにセックスするんだよ。しかも相手は毎回違うときている」
「へえ、それが極楽浄土なんですか。いいなあ」
「極楽浄土?僕はね、いま北海道に住んでいるんだ。僕はいま種馬だよ」
性の衝動を抑圧しすぎてはいけません。
それも神が与えた贈り物だからです。
不自然な強制をすることなく、情欲の中に入っていけばいいのです。
ただし溺れないこと。
瞑想的な注意力を持って、情欲を愛に変容させるのです。
セックスは、本当の愛に至る大いなる道なのですから。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように、ご協力よろしくお願いします。
2008年07月29日
神は愛なり

今日は「愛」について書いてみたいと思います。
でもうまく書けないかもしれません。
愛は論理ではなく、感じることだからです。
僕たちはあまりにも論理に慣れ親しんでいます。
教育によって、知性は訓練され磨かれてきましたが、ハートは等閑(なおざり)のままです。
そのハートの能力が開発されて初めて、愛の何たるかを知ることができるのです。
人は計算なら上手にできます。
でも愛は計算ではありません。
人はなんでも論理で証明しようとします。
でも愛は論理ではありません。
むしろ愛は非論理的であり、常識を超えた、狂気に近い、自由にあふれ出る喜びのエネルギーです。
だから昔から、悟った人は狂ったように笑ったり、踊ったり、常識はずれの行動をとるのです。
その時の彼は、まさに愛の中にいます。
まさに神の中にいるのです。
ここで話している「愛」とは、恋人や子供やその他特定の対象に向けての愛ではありません。
存在としての愛です。
他の言葉で言えば、「見性」、「真理」、「神」、という言葉が同義語です。
またちょっと違う角度から見てみましょう。
この世の価値観は、「すること」を大切にしています。
いかに効率よく、物事を正確にやってのけるか、それが人間の優秀性だと思っています。
でも、愛とは「すること」ではなく、「在ること」なのです。
そしてもうひとつ、社会の価値観は「所有すること」を大切にします。
いかに得るか。
そして多くを得た人が社会で尊敬され憧れの対象となります。
しかし、お金や物なら所有できますが、愛は所有できません。
そして「愛」がないかぎり、人は人生に意味を感じないのです。
いくらお金があっても、多くのものに囲まれていても、そこに意味を見いだすことができません。
そこで、もっと多くを得ようとするのですが、どこまで行っても同じことです。
愛は所有することによっては得られないのです。
愛は所有されることによって得ることができます。
と言っても誰かに所有されることではありません。
存在に、神に、全体に所有されることです。
それを「サレンダー」「帰依」「明け渡し」と言います。
それは大いなるエネルギーに乗っ取られることです。
その時、自分の中で何かが爆発します。
自分の中にこれほどダイナミックな、そして歓喜にあふれたエネルギーが眠っていたのかと驚きます。
その時、それまで自分だと思っていたものが消滅します。
そしてまったく違うレベルの、とてつもないエネルギーに満たされます。
それが「愛」です。
またの名を「神」と言います。
「神は愛なり」
これもキリスト教の言葉ですが、真実をついた言葉は、あまりにもシンプルですね。
うまく伝わってくれましたか?
「愛」は最も大切なものなので、自分なりにもっと工夫して、これからも様々な表現を試みてみようと思います。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
このような情報を多くの人に届けたいと願っています。
賛同してくれる人は、2つのボタンを押して応援して下さい。
それによってこのブログが目立つ所に配置され、結果多くの人の目に触れやすくなります。
よろしくお願いします。
2008年07月28日
エデンへの帰還
先日、母の米寿記念のコンサートに、ニューヨークから従姉がお祝いに来てくれました。
彼女はクリスチャンなのですが、敬愛する牧師さんの言葉で、ひとつだけ違和感を持っていた言葉があったそうです。
それは「神は人類を救うためにこの世に現れた」という言葉です。
何に違和感を持ったかというと、何故人類だけを救いに来たのか、何故他の生き物、動物たちは救わないのか、それはおかしいと思ったそうです。

それが、ふとあることに気づいたと言っていました。
もしかしたら、他の生き物は全部神と共にあって、人間だけが神から離れてしまったのではないか。
人間は大脳皮質の発達で「考える」力を持ち、知識を蓄え、物事を判断し、本来そうであるところのあるがままの存在から離れてしまったのではないか。
そのことが、知識の実を食べてエデンの園から追放されたという寓話になっているのではないか。
人間以外の生き物は、まだ知識の実を食べていないので、いまだにエデンの園にいて、したがって迷っていないから救う必要がないのではないか。
そう思ったとき、ふと腑に落ちたそうです。
僕もそれを聞いて、なるほどと思いました。
「考える」という行為が、あらゆる精神的苦しみのもとになっています。
今が幸せだとしても、この幸せを将来にわたって保証しようとするところから、ありもしない不安を作り出すのが人間です。
絶え間ない比較や判断、終わってしまったことの後悔や、未来への不安。
これらはみな「考える」ことから生まれます。
そうして作られた苦しみを、「考える」ことで解決しようとし、さらに苦しみを複雑にします。
なぜなら「考える」こと自体が、苦しみのもとだからです。
本当は「いまここ」にすべてが揃っていて、一切の過去未来を持ち込まなければいいだけの話です。
エデンの園から追放され、苦しみの世界で迷った人間は、せめてこの苦しみの意味を知りたいと願います。
何故生きているのか、こうして苦しむ理由は何なのか。
そんな我々を救うのは真理しかありません。
その真理をキリストは伝えにきたというわけです。
「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイ11章28節)
牧師さんが言いました
「神は人類を救うためにこの世に現れた」
この言葉は真実です。
もっと言えば、神は人類を救うために現れたのではなく、もともと救われていることを教えるために、この世に現れたのです。
あらゆる動物と同じように、いやそれ以上に僕たちは救われているのです。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたが心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」
(マタイ6章25~27節)
僕たちが神の懐(ふところ)から離れてしまったのは、再び神を見出して、その歓喜を自覚するためです。
もともと歓喜の中にいるのですが、それを認識するには、そうでない状態が必要なのです。
だから僕たちは知識の実を食べて、エデンの園からいったん追放された形をとったのです。
それが苦しみの意味です。
想像を超えた歓喜、愛、感謝、開放感、自由、安心、・・・これらが僕たちの宿命です。
誰一人例外なく、必ず帰りつきます。
このゲームに失敗はあり得ません。
「大丈夫」
もしまた迷ったら、この言葉を思い出してくださいね。
命をかけて、この言葉が真実だと宣言します。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように。

PS
明日は予定どおり、中城で「いまここ塾」があります。
彼女はクリスチャンなのですが、敬愛する牧師さんの言葉で、ひとつだけ違和感を持っていた言葉があったそうです。
それは「神は人類を救うためにこの世に現れた」という言葉です。
何に違和感を持ったかというと、何故人類だけを救いに来たのか、何故他の生き物、動物たちは救わないのか、それはおかしいと思ったそうです。

それが、ふとあることに気づいたと言っていました。
もしかしたら、他の生き物は全部神と共にあって、人間だけが神から離れてしまったのではないか。
人間は大脳皮質の発達で「考える」力を持ち、知識を蓄え、物事を判断し、本来そうであるところのあるがままの存在から離れてしまったのではないか。
そのことが、知識の実を食べてエデンの園から追放されたという寓話になっているのではないか。
人間以外の生き物は、まだ知識の実を食べていないので、いまだにエデンの園にいて、したがって迷っていないから救う必要がないのではないか。
そう思ったとき、ふと腑に落ちたそうです。
僕もそれを聞いて、なるほどと思いました。
「考える」という行為が、あらゆる精神的苦しみのもとになっています。
今が幸せだとしても、この幸せを将来にわたって保証しようとするところから、ありもしない不安を作り出すのが人間です。
絶え間ない比較や判断、終わってしまったことの後悔や、未来への不安。
これらはみな「考える」ことから生まれます。
そうして作られた苦しみを、「考える」ことで解決しようとし、さらに苦しみを複雑にします。
なぜなら「考える」こと自体が、苦しみのもとだからです。
本当は「いまここ」にすべてが揃っていて、一切の過去未来を持ち込まなければいいだけの話です。
エデンの園から追放され、苦しみの世界で迷った人間は、せめてこの苦しみの意味を知りたいと願います。
何故生きているのか、こうして苦しむ理由は何なのか。
そんな我々を救うのは真理しかありません。
その真理をキリストは伝えにきたというわけです。
「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
(マタイ11章28節)
牧師さんが言いました
「神は人類を救うためにこの世に現れた」
この言葉は真実です。
もっと言えば、神は人類を救うために現れたのではなく、もともと救われていることを教えるために、この世に現れたのです。
あらゆる動物と同じように、いやそれ以上に僕たちは救われているのです。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたが心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」
(マタイ6章25~27節)
僕たちが神の懐(ふところ)から離れてしまったのは、再び神を見出して、その歓喜を自覚するためです。
もともと歓喜の中にいるのですが、それを認識するには、そうでない状態が必要なのです。
だから僕たちは知識の実を食べて、エデンの園からいったん追放された形をとったのです。
それが苦しみの意味です。
想像を超えた歓喜、愛、感謝、開放感、自由、安心、・・・これらが僕たちの宿命です。
誰一人例外なく、必ず帰りつきます。
このゲームに失敗はあり得ません。
「大丈夫」
もしまた迷ったら、この言葉を思い出してくださいね。
命をかけて、この言葉が真実だと宣言します。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように。

PS
明日は予定どおり、中城で「いまここ塾」があります。
2008年07月27日
風
先日、天河に行ってきました。
ちょっとその感想を書きます。

天河については、<かんながらの物語>の舞台にもさせてもらっていて、僕の心のふる里です。
今回は何年ぶりかの訪問でした。
60年に一度御開帳するという秘仏を見るのが目的でした。
多くの人たちで賑わっていました。
勇気を持って本当のことを書きますが、実は今回は何も感じるものがありませんでした。
ただ人ごみの中で、様々な波動が交錯し、まるで万博の月の石を並んで見たような感覚でした。
神前で対応する神主の尊大な態度や、列に割り込む人と並んでいる人の口論や、単に社会の縮図を見に山奥まで行ってきたような経験でした。
秘仏は想像を超えたお姿でしたが、僕自身が感じたのは、こういうものが神ではないということです。
歴史的な価値はありますが、それ以上のものではありません。
こういうものをありがたがっているうちはダメだというのが、僕の感想でした。
生意気言ってスミマセン。
僕たちは自分の外側に、シンボリックな何かを求めますが、やはり自分自身の中に全ての神秘があると思います。
いつもなら、ありがたい想いが先行して、自分の体験を美化したと思いますが、今回このような感想を持ったことで、自分自身がこの数年間でずいぶんと変化したことがわかりました。
だからと言って、神に生かされているという感覚がなくなったのではありません。
平成元年7月に、誰もいない天河の神殿に額ずき、「この命を自由に使ってください」と祈願した気持ちに、何一つ変わりはありません。
これからも<かんながら>の風に乗って生きていくことでしょう。
たった数時間いただけでしたが、多くの人から声をかけられました。
「阿部さんですよね。実はあなたのブログを読んでここに来ました」
本当に多くの人から、しかも日本全国から来たという人たちから声をかけられびっくりしました。
僕の経験はその程度のものでしたが、遠路はるばる参拝された方たちにとってはどのようなものだったでしょうか。
それぞれに何らかの意味があったものと思います。
皆さんとお会いできたのは、何よりの事でした。
そうそう、最近嬉しいことがありました。
能登の七尾市の方からメールをいただき、僕を講演に呼ぶにはどうしたらいいかという問い合わせでした。
実際、条件など何もないし、人が集まってくれるならどこにでも行く旨を伝えたら、すぐに事が成立しました。
8月30日に行ってきます。
詳細はまた改めてご紹介します。
起きることはこのようにして、何の障害もなく、想像を超えたスピード感で起きていきます。
実は沖縄に暮らすことになった経緯も似たようなものでした。
お任せすれば、ことは自然に展開していくというのが、僕の人生観です。
これが「風」だと思っています。
これからも風が吹くままに生きていきます。
今日もここに来てくれてありがとうござました。
多くの人に届きますように

ちょっとその感想を書きます。

天河については、<かんながらの物語>の舞台にもさせてもらっていて、僕の心のふる里です。
今回は何年ぶりかの訪問でした。
60年に一度御開帳するという秘仏を見るのが目的でした。
多くの人たちで賑わっていました。
勇気を持って本当のことを書きますが、実は今回は何も感じるものがありませんでした。
ただ人ごみの中で、様々な波動が交錯し、まるで万博の月の石を並んで見たような感覚でした。
神前で対応する神主の尊大な態度や、列に割り込む人と並んでいる人の口論や、単に社会の縮図を見に山奥まで行ってきたような経験でした。
秘仏は想像を超えたお姿でしたが、僕自身が感じたのは、こういうものが神ではないということです。
歴史的な価値はありますが、それ以上のものではありません。
こういうものをありがたがっているうちはダメだというのが、僕の感想でした。
生意気言ってスミマセン。
僕たちは自分の外側に、シンボリックな何かを求めますが、やはり自分自身の中に全ての神秘があると思います。
いつもなら、ありがたい想いが先行して、自分の体験を美化したと思いますが、今回このような感想を持ったことで、自分自身がこの数年間でずいぶんと変化したことがわかりました。
だからと言って、神に生かされているという感覚がなくなったのではありません。
平成元年7月に、誰もいない天河の神殿に額ずき、「この命を自由に使ってください」と祈願した気持ちに、何一つ変わりはありません。
これからも<かんながら>の風に乗って生きていくことでしょう。
たった数時間いただけでしたが、多くの人から声をかけられました。
「阿部さんですよね。実はあなたのブログを読んでここに来ました」
本当に多くの人から、しかも日本全国から来たという人たちから声をかけられびっくりしました。
僕の経験はその程度のものでしたが、遠路はるばる参拝された方たちにとってはどのようなものだったでしょうか。
それぞれに何らかの意味があったものと思います。
皆さんとお会いできたのは、何よりの事でした。
そうそう、最近嬉しいことがありました。
能登の七尾市の方からメールをいただき、僕を講演に呼ぶにはどうしたらいいかという問い合わせでした。
実際、条件など何もないし、人が集まってくれるならどこにでも行く旨を伝えたら、すぐに事が成立しました。
8月30日に行ってきます。
詳細はまた改めてご紹介します。
起きることはこのようにして、何の障害もなく、想像を超えたスピード感で起きていきます。
実は沖縄に暮らすことになった経緯も似たようなものでした。
お任せすれば、ことは自然に展開していくというのが、僕の人生観です。
これが「風」だと思っています。
これからも風が吹くままに生きていきます。
今日もここに来てくれてありがとうござました。
多くの人に届きますように

2008年07月26日
一番伝えたいこと
時々聞かれます。
「死ぬ時は何が起きるんですか?」
すると僕は答えます。
「なにも起きませんよ。だって死なないんだから」

時空を超えた境地を一瞬でもかいま見れば、二度と同じ人ではいられません。
人生観が根底から変わってしまいます。
その結果、何か得るのではなく、むしろ多くを失います。
失うものの代表は
不安、心配、劣等感、罪悪感、虚栄心などです。
人生はどこにも行きつかないし、今までだってどこにも行っていないし、いつも「いまここ」で神の懐の中で守られながら、絶え間ない夢を見ていただけだと知ります。
目に見える世界は変化し続けて、身体もやがては朽ちて死んでいくけれど、それは古くなった服を脱ぎ捨てるだけで、自分自身は何一つ変わることなく、「いまここ」にあり続けることを知ります。
これらのことから、心配と不安が消えてなくなります。
さらには、自分自身だと思っていたものは万物の中に住んでいて、あらゆる人は自分と同じ成分でできていて、この世には自分より優れた人も劣った人もいないのだと知るので、劣等感が消え失せます。
さらには、この世で起きたことは、ただ単にそのように起きたのであって、深い次元ではそれを行った人は存在せず、「本当の自分」は何一つやっていなかったことを知るので、罪悪感が消えてなくなります。
さらには、無知の中で生きていた時は、人の目に映る自分を演じていただけで、その演技を一番興味深くチェックしていたのも自分自身だとわかり、一人相撲の馬鹿馬鹿しさを知るところから、虚栄心が消えてなくなります。
こうして多くのものが消え去りますが、その中でも一番大きなものは「死の恐怖」がなくなることかもしれません。
自分が一度も生まれたこともなく、一度も死んだこともなく、ただ永遠の今の中に存在し続ける「光」なのだと知ることは、大いなる救いです。
あとはその時その時、自分の心のままに生きていれば、そして結果の全てを天にお任せしていれば、それでいいのです。
その後もあいかわらず夢は続いていきますが、先行きどうなってしまうのかという不安がないのは、とても気楽です。
そのような境地にいたる道は二つあります。
ひとつは、自分自身が至高体験をすること。
もう一つは、昔から多くの覚者達が繰り返し伝えてきた至高体験を、鵜呑みにして信じ込むことです。
それが信仰心と呼ばれるものです。
「信じるものは救われる」のです。
人類規模で夢から覚める時が近づいていると言われています。
僕もそんな予感を持っています。
このようなブログに惹きつけられるあなたも、目覚めが近いということです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように、ボタンを押して協力してください。

「死ぬ時は何が起きるんですか?」
すると僕は答えます。
「なにも起きませんよ。だって死なないんだから」

時空を超えた境地を一瞬でもかいま見れば、二度と同じ人ではいられません。
人生観が根底から変わってしまいます。
その結果、何か得るのではなく、むしろ多くを失います。
失うものの代表は
不安、心配、劣等感、罪悪感、虚栄心などです。
人生はどこにも行きつかないし、今までだってどこにも行っていないし、いつも「いまここ」で神の懐の中で守られながら、絶え間ない夢を見ていただけだと知ります。
目に見える世界は変化し続けて、身体もやがては朽ちて死んでいくけれど、それは古くなった服を脱ぎ捨てるだけで、自分自身は何一つ変わることなく、「いまここ」にあり続けることを知ります。
これらのことから、心配と不安が消えてなくなります。
さらには、自分自身だと思っていたものは万物の中に住んでいて、あらゆる人は自分と同じ成分でできていて、この世には自分より優れた人も劣った人もいないのだと知るので、劣等感が消え失せます。
さらには、この世で起きたことは、ただ単にそのように起きたのであって、深い次元ではそれを行った人は存在せず、「本当の自分」は何一つやっていなかったことを知るので、罪悪感が消えてなくなります。
さらには、無知の中で生きていた時は、人の目に映る自分を演じていただけで、その演技を一番興味深くチェックしていたのも自分自身だとわかり、一人相撲の馬鹿馬鹿しさを知るところから、虚栄心が消えてなくなります。
こうして多くのものが消え去りますが、その中でも一番大きなものは「死の恐怖」がなくなることかもしれません。
自分が一度も生まれたこともなく、一度も死んだこともなく、ただ永遠の今の中に存在し続ける「光」なのだと知ることは、大いなる救いです。
あとはその時その時、自分の心のままに生きていれば、そして結果の全てを天にお任せしていれば、それでいいのです。
その後もあいかわらず夢は続いていきますが、先行きどうなってしまうのかという不安がないのは、とても気楽です。
そのような境地にいたる道は二つあります。
ひとつは、自分自身が至高体験をすること。
もう一つは、昔から多くの覚者達が繰り返し伝えてきた至高体験を、鵜呑みにして信じ込むことです。
それが信仰心と呼ばれるものです。
「信じるものは救われる」のです。
人類規模で夢から覚める時が近づいていると言われています。
僕もそんな予感を持っています。
このようなブログに惹きつけられるあなたも、目覚めが近いということです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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2008年07月25日
非難と称賛
人から自分を非難されるのは辛いものですよね。
僕たちはそうならないようにと、他者の目をうかがいながら、なるべく安全で無難な行動をとろうとします。
少しでもいい人を演じ、自分の内なる声を無視して、周囲に合わせた生き方を始めてしまうのです。
結婚や、離婚や、職業の選択や、小さな意見でさえ、自分の本当の声ではなく、人の評価を基準に決められたりもします。
しかし、人の非難や称賛とはいったい何でしょうか。
非難したその人は、あなたの何を知っているというのでしょう。
あなた自身でさえ自分のことがわからないのに、他者にわかるわけがありません。
他者が知っているのは、その人の中にある自分の価値観です。
あなたのその瞬間の行動が、相手の価値観に合っていれば褒められ、外れていれば非難されます。
したがって他者の自分に対する評価は、自分自身のことではなく、その相手の心の中の反応にすぎないのです。
それを徹底的に理解できれば、人の評価に一喜一憂することがなくなり、真に自分自身を生きることができます。
この世の出来事は表面的なことばかりであり、自分の最奥にある本当の自己は不動のまま「いまここ」にあり続けます。
それが瞑想によって達成できる不動心です。
僕はまだその域に達していませんが、その香りだけはわかるようになりました。

今日は、とある禅僧にまつわる話を紹介しましょう。
不動なるものを達成した人がどのようであるのか、象徴的なエピソードです。
その彼は村で評判の聖者でした。
しかも見た目にも美しく、多くの人の礼拝の対象になり、彼のためにお堂が築かれ、毎日のように供え物が届けられました。
そんなある日、村の長者の娘が身ごもってしまいました。
いくら尋ねても決して相手の名を明かしません。
怒った娘の父親は、娘を座敷牢に閉じ込め、ろくな食事も与えずに、毎日のように責め立てました。
そのあまりの辛さに、ついに娘は相手の名を告げました。
それはなんと、あの美しい禅僧だったのです。
その噂はあっという間に村中に広がりました。
村人たちは騙されたと言って、お堂を取り壊してしまいました。
もちろん供え物も途絶えました。
口々に詐欺師呼ばわりされたその禅僧は何一つ言い訳をしませんでした。
やがて子供が生まれると、長者はその赤ん坊を娘から引き離し、路上で暮らしていた禅僧に押し付けて言いました。
「お前の子なんだから、お前が育てろ」
禅僧はただ一言「わかりました」と言うと、赤ん坊を抱いて村の家々を回りながら、ミルクの施しを求めました。
「私のことはかまいません。この子に何か飲ませてあげてください」
しかし村人はみんな無視をして、誰ひとり助けてはくれません。
それどころか、窓越しに口汚く罵るばかりです。
どの家でも同じような扱いを受けた彼は、空腹で泣き叫ぶ赤ん坊を抱いて長者の家の前に立ちました。
赤ん坊の泣き声が娘の耳に届きました。
すると娘は泣き崩れながら本当のことを告白しました。
「父親はあの人ではありません。隣村の○○さんです」
それは長者とは商売敵の息子で、絶対に会ってはならないと決められた相手でした。
それを隠すために、僧の名を語ったのです。
その話も瞬く間に村中に知れ渡り、またしても僧に対する評価が一変しました。
村人たちは彼の足もとにひれ伏して許しを請いました。
長者も赤ん坊を引き取ると、無礼の数々を深く詫びました。
すると聖者は一言こう言いました。
「わかりました」
外側で何が起きていても、彼は何一つ変わることなく、ただ最善を尽くそうとしたのです。
人の評価は外側の現象に対するものです。
ある時はあなたを称賛し、ある時はあなたを非難しますが、どちらも本当のあなたに対して言っているのではありません。
時間と共に過ぎ去る束の間の現象が、人々の評価の対象です。
本当のあなたは、その向こう側に、時間を超えた不変なるものとして存在しているのです。
自分もそんな人でありたいと思います。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
何かを感じてくれたら押してください。

僕たちはそうならないようにと、他者の目をうかがいながら、なるべく安全で無難な行動をとろうとします。
少しでもいい人を演じ、自分の内なる声を無視して、周囲に合わせた生き方を始めてしまうのです。
結婚や、離婚や、職業の選択や、小さな意見でさえ、自分の本当の声ではなく、人の評価を基準に決められたりもします。
しかし、人の非難や称賛とはいったい何でしょうか。
非難したその人は、あなたの何を知っているというのでしょう。
あなた自身でさえ自分のことがわからないのに、他者にわかるわけがありません。
他者が知っているのは、その人の中にある自分の価値観です。
あなたのその瞬間の行動が、相手の価値観に合っていれば褒められ、外れていれば非難されます。
したがって他者の自分に対する評価は、自分自身のことではなく、その相手の心の中の反応にすぎないのです。
それを徹底的に理解できれば、人の評価に一喜一憂することがなくなり、真に自分自身を生きることができます。
この世の出来事は表面的なことばかりであり、自分の最奥にある本当の自己は不動のまま「いまここ」にあり続けます。
それが瞑想によって達成できる不動心です。
僕はまだその域に達していませんが、その香りだけはわかるようになりました。

今日は、とある禅僧にまつわる話を紹介しましょう。
不動なるものを達成した人がどのようであるのか、象徴的なエピソードです。
その彼は村で評判の聖者でした。
しかも見た目にも美しく、多くの人の礼拝の対象になり、彼のためにお堂が築かれ、毎日のように供え物が届けられました。
そんなある日、村の長者の娘が身ごもってしまいました。
いくら尋ねても決して相手の名を明かしません。
怒った娘の父親は、娘を座敷牢に閉じ込め、ろくな食事も与えずに、毎日のように責め立てました。
そのあまりの辛さに、ついに娘は相手の名を告げました。
それはなんと、あの美しい禅僧だったのです。
その噂はあっという間に村中に広がりました。
村人たちは騙されたと言って、お堂を取り壊してしまいました。
もちろん供え物も途絶えました。
口々に詐欺師呼ばわりされたその禅僧は何一つ言い訳をしませんでした。
やがて子供が生まれると、長者はその赤ん坊を娘から引き離し、路上で暮らしていた禅僧に押し付けて言いました。
「お前の子なんだから、お前が育てろ」
禅僧はただ一言「わかりました」と言うと、赤ん坊を抱いて村の家々を回りながら、ミルクの施しを求めました。
「私のことはかまいません。この子に何か飲ませてあげてください」
しかし村人はみんな無視をして、誰ひとり助けてはくれません。
それどころか、窓越しに口汚く罵るばかりです。
どの家でも同じような扱いを受けた彼は、空腹で泣き叫ぶ赤ん坊を抱いて長者の家の前に立ちました。
赤ん坊の泣き声が娘の耳に届きました。
すると娘は泣き崩れながら本当のことを告白しました。
「父親はあの人ではありません。隣村の○○さんです」
それは長者とは商売敵の息子で、絶対に会ってはならないと決められた相手でした。
それを隠すために、僧の名を語ったのです。
その話も瞬く間に村中に知れ渡り、またしても僧に対する評価が一変しました。
村人たちは彼の足もとにひれ伏して許しを請いました。
長者も赤ん坊を引き取ると、無礼の数々を深く詫びました。
すると聖者は一言こう言いました。
「わかりました」
外側で何が起きていても、彼は何一つ変わることなく、ただ最善を尽くそうとしたのです。
人の評価は外側の現象に対するものです。
ある時はあなたを称賛し、ある時はあなたを非難しますが、どちらも本当のあなたに対して言っているのではありません。
時間と共に過ぎ去る束の間の現象が、人々の評価の対象です。
本当のあなたは、その向こう側に、時間を超えた不変なるものとして存在しているのです。
自分もそんな人でありたいと思います。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
何かを感じてくれたら押してください。

2008年07月24日
変化するもの しないもの
先日ラジオで誰かが、「最近は高校野球を見ても選手たちが凄く若く見えてきた」と言っていました。
ふふふ・・・甘いぜ。
僕なんか最近は、監督さんが若く見えてきたよ。
それくらい、時と共に自分が変化しているってことでしょう。

先日のコンサートで子供のころの写真を紹介しましたが、今の自分と何一つ同じではなく、それはまったく違う生き物でした。
この世に存在するものはすべて動きの中にあって、身体の細胞は常に入れ替わっているし、今だって目に見えないだけで、身体はほんの少しずつ現在進行形で変化しています。
川が流れるように、身体も流れているのです。
川を流れる水は、一瞬前とは違う水です。
同じように僕たちも、厳密に言えば一瞬前と違う身体です。
固定されているように見える肉体は、実際には動きの中にあるのです。
それでは心はどうでしょう。
もし心の中を写すカメラがあったとしたら、子供のころとは全然違う何かが写るんでしょうね。
それどころか、朝起きた時と今とでは、すでに違う心のように思います。
心は身体よりもっと早く変化します。
さっきまで優しい気持ちに満たされていたと思ったら、次の瞬間いやな思い出がよみがえり、怒りの中に入り込んでいたりもします。
心はさらに激しく変化し続けている。
この事実を受け入れたら、ずいぶんと楽になると思います。
たとえば恋愛です。
あんなに愛してくれた人が、今は冷たくなってしまった。
私の何がいけなかったのだろう。
それとも選んだ相手が悪かったのだろうか。
裏切られた・・・
このような失望は多くの人が経験済みだと思います。
この失望を与えたのは相手ではありません。
変わらないでいてほしいという不可能な期待がもたらしているのです。
自分に対しても同様です。
あまりにも心が変化するので、自分のことがわからないと感じたりします。
あんなに優しかったのに、急に残酷なことを考えたりすると、自分の本性は醜いんじゃないかって思って、自分を嫌いになったり、認められなくなったりもします。
でも大丈夫、また優しい気持ちが戻ってきますし、そうやって変化し続けるのが心だからです。
身体も心も変化し続けています。
でもその中にあって、唯一変化しないものがあります。
それは・・・
子供のころの自分を意識していた存在。
今の自分を意識している存在。
優しい心を意識している存在。
残酷な心を意識している存在。
その存在だけは不変なるものとして、常に「いまここ」に存在しています。
それをインドでは「アートマン」と呼び、自己の本質としています。
それこそが、真実の僕たちです。
ところが僕たちは、そのアートマンをすっかり忘れて見失ってしまいます。
なぜ忘れてしまうのでしょう。
それはずっと同じままだからです。
僕たちは同じままのものを認識することは難しいのです。
たとえば今窓の外で蝉が鳴いていますが、この蝉の声が僕が生まれた時からずっと同じように鳴っていたとしたら、僕はその音に気づかないでしょう。
時折、その声が変化したりやんだりした時に、初めてその存在を認識することができます。
僕たちは身体や心なら認識することができます。
それは変化し続けているからです。
アートマン(真我)は、不変なるがゆえに気づかないのです。
その不変なるものを見つける旅が人生なのです。
人生の目的は、ただそれだけです。
これからも一緒に旅を続けましょう。
これからも僕は言い続けます。
あなたの探しものは「いまここ」にあるよって。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人の目に触れますように、ボタンを押して協力して下さい。

ふふふ・・・甘いぜ。
僕なんか最近は、監督さんが若く見えてきたよ。
それくらい、時と共に自分が変化しているってことでしょう。
先日のコンサートで子供のころの写真を紹介しましたが、今の自分と何一つ同じではなく、それはまったく違う生き物でした。
この世に存在するものはすべて動きの中にあって、身体の細胞は常に入れ替わっているし、今だって目に見えないだけで、身体はほんの少しずつ現在進行形で変化しています。
川が流れるように、身体も流れているのです。
川を流れる水は、一瞬前とは違う水です。
同じように僕たちも、厳密に言えば一瞬前と違う身体です。
固定されているように見える肉体は、実際には動きの中にあるのです。
それでは心はどうでしょう。
もし心の中を写すカメラがあったとしたら、子供のころとは全然違う何かが写るんでしょうね。
それどころか、朝起きた時と今とでは、すでに違う心のように思います。
心は身体よりもっと早く変化します。
さっきまで優しい気持ちに満たされていたと思ったら、次の瞬間いやな思い出がよみがえり、怒りの中に入り込んでいたりもします。
心はさらに激しく変化し続けている。
この事実を受け入れたら、ずいぶんと楽になると思います。
たとえば恋愛です。
あんなに愛してくれた人が、今は冷たくなってしまった。
私の何がいけなかったのだろう。
それとも選んだ相手が悪かったのだろうか。
裏切られた・・・
このような失望は多くの人が経験済みだと思います。
この失望を与えたのは相手ではありません。
変わらないでいてほしいという不可能な期待がもたらしているのです。
自分に対しても同様です。
あまりにも心が変化するので、自分のことがわからないと感じたりします。
あんなに優しかったのに、急に残酷なことを考えたりすると、自分の本性は醜いんじゃないかって思って、自分を嫌いになったり、認められなくなったりもします。
でも大丈夫、また優しい気持ちが戻ってきますし、そうやって変化し続けるのが心だからです。
身体も心も変化し続けています。
でもその中にあって、唯一変化しないものがあります。
それは・・・
子供のころの自分を意識していた存在。
今の自分を意識している存在。
優しい心を意識している存在。
残酷な心を意識している存在。
その存在だけは不変なるものとして、常に「いまここ」に存在しています。
それをインドでは「アートマン」と呼び、自己の本質としています。
それこそが、真実の僕たちです。
ところが僕たちは、そのアートマンをすっかり忘れて見失ってしまいます。
なぜ忘れてしまうのでしょう。
それはずっと同じままだからです。
僕たちは同じままのものを認識することは難しいのです。
たとえば今窓の外で蝉が鳴いていますが、この蝉の声が僕が生まれた時からずっと同じように鳴っていたとしたら、僕はその音に気づかないでしょう。
時折、その声が変化したりやんだりした時に、初めてその存在を認識することができます。
僕たちは身体や心なら認識することができます。
それは変化し続けているからです。
アートマン(真我)は、不変なるがゆえに気づかないのです。
その不変なるものを見つける旅が人生なのです。
人生の目的は、ただそれだけです。
これからも一緒に旅を続けましょう。
これからも僕は言い続けます。
あなたの探しものは「いまここ」にあるよって。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人の目に触れますように、ボタンを押して協力して下さい。

2008年07月23日
真実と矛盾

こうして毎日ブログを書いていますが、その日によってまったく違う自分がいて、伝えたいことも正反対になったりします。
何事も「こうだ!」と言いきれないと思うわけです。
たとえば、時間なんか存在しないのだから未来の幸せを求めるのではなく「いまここ」を生きるんだって伝えたい日もあれば、人間は希望を持つことが大切で、自分の理想を描いてそこに向かう勇気を持てと言いたくなる日もあります。
いま困難を抱えて、悩み苦しんでいる人に向かって「今を楽しめ」なんて言っても、それは単なるスローガンであって、実際には意味をなさないと思うのです。
僕自身も気分爽快で全てを受け入れている日もあれば、なんとなく暗いムードで何もかもが面倒な日もあります。
人がみな愛しく思える日もあれば、誰とも会いたくない日もあります。
それが人間なのではないでしょうか。
毎日何かのメッセージを伝える立場の人も、実際にはいろんな日があるはずです。
青が好きな日もあれば、赤が好きな日もあります。
それなのに、自分が一貫していないと信用されないような気がして、赤が好きな日も、昨日青が好きと言ったばかりだから、今日も青が好きだと言わなければと思ってしまうのです。
それこそが自我のゲームです。
他者の目に映る自分を演じているわけです。
そもそも存在していない「自分という固定された人格」を演じ続けていると、時には自分を欺くことになり、それが続くと本当の自分がわからなくなり、生き生きとした感覚を見失ってしまいます。
僕はなるべくここに、その時その時の正直な自分を書きたいと思っていますが、それでも無意識にメッセンジャーを演じている自分を発見してハッとすることがあります。
だいたいにおいて僕らは、矛盾なく一貫したメッセージを伝える人間を信用できると思いがちですが、実は一貫しているということは、そこにその人の意図が入っているわけで、むしろ怪しいと思わなければいけません。
全ては動いているのであって、何一つ固定されていないのです。
今までに僕のメッセージが心に深く届いたと言う人も、それはその時のタイミングで起きたことで、だからと言って僕の言葉の全てを鵜呑みにしてはいけません。
その言葉はあなたにではなく、他の誰かに向けられた言葉かもしれないのです。
人は自分に確信が持てないと、確信を持った人にすがりたくなります。
その気持ちはよくわかるので、僕でよければどうぞ思う存分近くにいてください。
同時に、いつか独り立ちできる日が来ることを忘れないでください。
あなた以外にあなたの人生を生きられる人はいません。
あなた以上にあなたのやるべきことがわかる人はいないのです。
その時々の自分の感性を信じて、人からのアドバイスをうまく使って生きていきましょう。
あなたにはあなたの人生を歩むために必要な、全ての力が備わっているのですから。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように、2つのボタンをお願いします。

2008年07月22日
今が一番幸せ

沖縄に住み始めて新鮮だったのは、沖縄の人たちが心からお年寄りを尊敬し大切にしていることでした。
流行の多くは若者たちが作り出すし、若い方が華やかだし、人生のもっとも輝いている時期は青春から働き盛りのころのように思いがちです。
ファッションは若い世代のもので、携帯電話の新機種や流行語などを知っているほうが優れているみたいに見えて、何となく歳をとることは恥ずかしいことみたいなムードもあります。
でも自分自身を振り返ってみると、若いころは外側を追いかけるだけの薄っぺらな生き方だったし、競争したり比較したりして、劣等感にさいなまれながら、なんとか体裁をつけて生きていたように思います。
今のほうがはるかにカッコいいし、人間的にも魅力があります。(自分で言ってる)
何よりも、長い年月をかけて培ってきた知恵があります。
若い人から教えられることもありますが、彼らに教えてあげたいことは山ほどあります。
実際、一人のお年寄りの中には無数の知恵や知識があって、お年寄りが一人亡くなると、図書館が一つ消えたのと同じだという話を聞いたことがあります。
未開と呼ばれた文明(西洋文明が勝手にそう呼んでいるだけですが)では、ほとんどが長老を中心にして物事が決められていたし、お年寄りは尊敬の対象だったのです。
それが現代はと言うと・・・ずいぶん変わってしまいましたね。
ところがここ沖縄には、お年寄りを尊敬するという当り前な習慣が生きているのです。
先日米寿を迎えた母。
彼女のお祝いを沖縄でやってあげたいと思ったのは、そんな理由からです。
20日の国立劇場には多くの観衆がつめかけてくれました。
そして思ったとおり、何とも言えない温かい雰囲気が会場内にあふれていました。
その日の夜は身内だけで打ち上げをしたのですが、あんなに幸せそうな母の顔を見たのは久しぶりです。
何よりの親孝行ができました。
来て下さったみなさん、そしてコンサートを陰から支えてくれた多くの仲間たち、本当にありがとうございました。
「今が一番幸せ」
これが母の口癖です。
さて、これから僕は中高年の一人として生きていきます。
肩の力を抜いて、その時々の現実に自分らしく対応していこうと思っています。
もうずいぶん前のアメリカでの話ですが、90歳以上長生きをした人たちを対象に、あるアンケートが行われました。
Q. あなたにとって、一番幸せだったのは何十代のころですか?
その答えは意外なものでした。
青春時代や子供のころと答えた人は数えるほどでした。
3位は40代
2位は50代
そして1位はなんと60代だったのです。
このアンケートをとってから、さらに平均寿命が延びて、身体が元気でいられる年齢もアップしました。
母を見てもわかるとおり、母の場合1位は80代なのです。
これから世の中が大きく変わっていきますが、その中には時代の先端を、若者と共に中高年が作り出していくというのも含まれています。
特に団塊世代以降の人たちは、自分の力で文化を作り出すことを知っているので、この先は有史以来初めてのニューカルチャーが出現することでしょう。
知識と知恵と経済力と健康を併せ持った新人類の文化です。
そんな時代を僕たちが作り出していくんですね。
歳をとることに希望と誇りを持って、一期一会の毎日を共に生きていきましょう。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように、ご協力よろしくお願いします。

2008年07月21日
ある日の「いまここ塾」6

坐禅することで何かの能力を得るんじゃ無いんです。
坐禅は絶え間ない自分の思考の動きを鎮めて、そして判断している判断機構をいったん横に置いて、そしてただあるがままにくつろぐ。
その時、一切判断が止んだ時、起きている事と自分というものの境が無くなって、空気、水、大地、それと自分が一つのものであるというそういう境地に行き着くんです。
それを涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)って言います。
これは仏教の三つの基本的な教えの一つです。
仏教には三つの基本的な教えがあります。
一つは涅槃寂静。
もう一つは諸法無我(しょほうむが)。
この諸法無我もとても大切なんです。
諸法ってのは、森羅万象全てのことですね。
無我は我が無いってこと。
これは何かって言ったら、この世にあるものは、例えば宮城さんというあなた、恵子さんというあなた、恵子とか宮城とか阿部とかそういう個々のものが生きてるんじゃなくて、常にその事を起こしめている関係性というものがあって、その関係全体が生きてるんだってこと。
今の僕だって聞いてくれている人がいなかったら喋っていても馬鹿みたいです。
あなただって僕がいるからそこにいるんでしょ。
この関係性があるから今この現実が成り立ってる。
で、あなたいま空気吸ってます。
忘れていたと思うけど、空気吸ってるんですよ。
忘れても吸っているでしょ。
ということは、違う言い方をすれば、空気を吸ってるのはあなたじゃないってことです。
「あなたを生かしてるもの」が吸ってるんです。
それは大自然の力です。
もっと端的に言えば神がやってるんです。
神があなたの中で呼吸をしている。
神があなたの中であなたを生かしている。
その証拠の一つが呼吸であり心臓や臓器の働きです。
空気との関係の中で生かされてる。
水が無きゃ死ぬ。
大地がなかったら立ってられない。
常に存在は他との関係の中で存在してるんです。
それはちょうど細胞によく似ていますね。
だって、細胞一個だけ取り出しても存在できないでしょ。
細胞は隣の細胞や全体との関係の中で存在しています。
でも一つ一つは単独です。
それぞれに生きています。
でもその一個だけで細胞は存在できません。
それとよく似てるんですよ。
僕らも他との関係の中で、全体との関係の中で初めて存在できます。
単独では存在できない。
だから「私」なんていう単独のものは存在してないと。
それが諸法無我です。
僕達と、空気、大地、自然。
これを含めた全ての関係性が刻一刻と現実を作り出しているんです。
常に現象は関係性の中で生まれてます。
毎瞬、奇跡的な超バランスの中で刻々と現象は展開しています。
諸法無我。
ずばり言えば存在するのは「全体」だけで、すべてはひとつであり、「個としての私」はいないってことです。
皮肉なことに、自分がいないってことに気づいた時に、あらゆる苦悩、悩み、不安が消えるんですよ。
悩みや苦悩、不安は、自分という囚われの中から生まれるから。
自分を守ろうとするところから生まれるんです。
その自分自体が幻想だったっていうことを見抜いたときに、あらゆる苦悩や不安から僕らは解放されるんです。
キリストは、「私のそばに来なさい、あなたの重荷を降ろしてあげましょう」って言いましたね。
それはあなたに、そういう理解をあげましょうってことです。
あなたが「自分」という重荷を作り出してることを教えてあげますよって。
多くの人に届きますように

お知らせ
明日の「いまここ塾」は会館が休館日のためお休みです。
ご注意ください。
2008年07月20日
ある日の「いまここ塾」5
さあ、今日は最高の言葉をあなたに届けます。
この言葉があなたに届けばゴール。
その言葉とは
「あなたはすでに救われています!!」
以上!(笑)
あなたは既に救われている。
もうすでにゴールに着いてる。
もうOK!
何の心配も要りません。

今あなたの現実に何が起きていようと、もっと正確に言うと、「何が起きていると感じていようと」
いいですか、今あなたが、今自分はこういうことに遭ってるというのは、実際に起きているそのものじゃなくて、起きている事を解釈している自分の主観的な印象を言ってるんですよ。
ありのままに起きてる事をあなたは見てるんじゃなくて、起きてることに対して、あなたが主観的に捉えたその印象を「私に今こういう事が起きてる」って言ってるんですよ。
起きてる現実そのものにはストーリーは無いんですよ。
ただ、淡々と起きる事が起きている。
人はそれを自分本位に捉え、自分本位に感情というものを注入して、そしてそこにストーリーを作るんです。
こういう事が起きているって説明をするんです。
その説明が、あなたが僕に話してくれる身の上話です。
それは、事実が作り出したという面もあるけども、その多くはあなたの見方なんです。
従って我々の人生、あなたの人生ってのは、思い込みの束みたいなものです。
そしてその思い込みの束が自分を苦しめるんです。
本当は最初から救われてるんです。
そこにしがみついてるのはあなたなんです。
最初から僕らは救われてるんですよ。
最初から100%護られてますから。
あなたがこんな自分のことなんか神様がずっと見てくれてるわけないじゃないか、こんな私のことなんか覚えてるわけないじゃないかって思っていたかもしれないけど、そうじゃない。
神様にしてみればあなたは自分のことだから、あなたのことを忘れないんですよ。
あなたが自分だから、とてつもなく愛しいんですよ。
あなたが自分を愛してるよりも、数万倍あなたを愛してます。
それを今あなたは、僕を通して直接聞いちゃいましたね。
今日あなたはそれを聞きにここに来てくれたんです。
その事をいつもいつも思い出しましょう。
あとは今をどんな自分で生きるかだけです。
いつも今ですからね。
将来のことに心を奪われるのではなく、今どんな自分が生きているのか。
いまここを生きるというのは、「今、今、今」「あっ今だ、今だ、今だ」って、この瞬間的な今を追いかけて行くことじゃないですよ。
がむしゃらに今を生きるっていうことでもない。
そうじゃない。
もっともっと静かなものなんですよ。
もっともっと静かに、全ての出来事を一切の評価、判断を捨て、あるがままにただ受け容れ、見つめている状態です。
僕等はあらゆる出来事を評価判断して決めちゃうんですよ。
あっ今、良い事が起きた、悪い事が起きた。
じゃあその良い悪いを決めた基準はどこから来てますか?
それはその人の過去の経験です。
それはその人の過去の知識です。
それはその人の過去が決めているんです。
そうやって我々は全ての新しい今を、過去の判断基準によってどんどん決めつけていっちゃうんです。
新しいことを新しいものとして味わうことが出来てない。
そういう裁判官みたいな、絶え間なく裁いているチェック機構をはずして、安心してあるがままの今を超客観的に味わっている状態、それが「いまここ」なんです。
判断評価が思考を創っています。
従って、あるがままを受け容れている時は、無思考です。
それを禅では無心って言うんです。
一切心で捉えてない、一切頭で捉えてない。
ただ受け容れている。
そういう状況は、特殊な能力がなくても超能力がなくても出来るんです。
本来その能力は僕ら全員に具わってる。
ただ、僕らは人生があまりに忙しくて、しかも怖れていて、あまりにも自分を守ることに懸命だったがゆえに、常に判断するという悲しい連鎖に巻き込まれてしまったんです。
それの作用を緩やかにする。
それを治める。
それを静かにさせる。
そして、いまここにくつろいでいく。
その代表的な手法が坐禅です。
多くの人に届きますように

この言葉があなたに届けばゴール。
その言葉とは
「あなたはすでに救われています!!」
以上!(笑)
あなたは既に救われている。
もうすでにゴールに着いてる。
もうOK!
何の心配も要りません。

今あなたの現実に何が起きていようと、もっと正確に言うと、「何が起きていると感じていようと」
いいですか、今あなたが、今自分はこういうことに遭ってるというのは、実際に起きているそのものじゃなくて、起きている事を解釈している自分の主観的な印象を言ってるんですよ。
ありのままに起きてる事をあなたは見てるんじゃなくて、起きてることに対して、あなたが主観的に捉えたその印象を「私に今こういう事が起きてる」って言ってるんですよ。
起きてる現実そのものにはストーリーは無いんですよ。
ただ、淡々と起きる事が起きている。
人はそれを自分本位に捉え、自分本位に感情というものを注入して、そしてそこにストーリーを作るんです。
こういう事が起きているって説明をするんです。
その説明が、あなたが僕に話してくれる身の上話です。
それは、事実が作り出したという面もあるけども、その多くはあなたの見方なんです。
従って我々の人生、あなたの人生ってのは、思い込みの束みたいなものです。
そしてその思い込みの束が自分を苦しめるんです。
本当は最初から救われてるんです。
そこにしがみついてるのはあなたなんです。
最初から僕らは救われてるんですよ。
最初から100%護られてますから。
あなたがこんな自分のことなんか神様がずっと見てくれてるわけないじゃないか、こんな私のことなんか覚えてるわけないじゃないかって思っていたかもしれないけど、そうじゃない。
神様にしてみればあなたは自分のことだから、あなたのことを忘れないんですよ。
あなたが自分だから、とてつもなく愛しいんですよ。
あなたが自分を愛してるよりも、数万倍あなたを愛してます。
それを今あなたは、僕を通して直接聞いちゃいましたね。
今日あなたはそれを聞きにここに来てくれたんです。
その事をいつもいつも思い出しましょう。
あとは今をどんな自分で生きるかだけです。
いつも今ですからね。
将来のことに心を奪われるのではなく、今どんな自分が生きているのか。
いまここを生きるというのは、「今、今、今」「あっ今だ、今だ、今だ」って、この瞬間的な今を追いかけて行くことじゃないですよ。
がむしゃらに今を生きるっていうことでもない。
そうじゃない。
もっともっと静かなものなんですよ。
もっともっと静かに、全ての出来事を一切の評価、判断を捨て、あるがままにただ受け容れ、見つめている状態です。
僕等はあらゆる出来事を評価判断して決めちゃうんですよ。
あっ今、良い事が起きた、悪い事が起きた。
じゃあその良い悪いを決めた基準はどこから来てますか?
それはその人の過去の経験です。
それはその人の過去の知識です。
それはその人の過去が決めているんです。
そうやって我々は全ての新しい今を、過去の判断基準によってどんどん決めつけていっちゃうんです。
新しいことを新しいものとして味わうことが出来てない。
そういう裁判官みたいな、絶え間なく裁いているチェック機構をはずして、安心してあるがままの今を超客観的に味わっている状態、それが「いまここ」なんです。
判断評価が思考を創っています。
従って、あるがままを受け容れている時は、無思考です。
それを禅では無心って言うんです。
一切心で捉えてない、一切頭で捉えてない。
ただ受け容れている。
そういう状況は、特殊な能力がなくても超能力がなくても出来るんです。
本来その能力は僕ら全員に具わってる。
ただ、僕らは人生があまりに忙しくて、しかも怖れていて、あまりにも自分を守ることに懸命だったがゆえに、常に判断するという悲しい連鎖に巻き込まれてしまったんです。
それの作用を緩やかにする。
それを治める。
それを静かにさせる。
そして、いまここにくつろいでいく。
その代表的な手法が坐禅です。
多くの人に届きますように

2008年07月19日
ある日の「いまここ塾」4

ずいぶんと波乱にとんだ人生でしたけど、結局そんな僕の生き方の最初のきっかけになったのが30歳の時のあの体験。
何度も言いますが、パッと一瞬見たんですね。
それは見ちゃったんだからどうしようもない。
だからと言って、「どうだすごいだろ」ってことは何もない。
だって見ようと見まいと、それに取り囲まれていることはみんな同じだから。
神を見ようと見まいと、神に護られているのは同じだし、それを顕在意識でそうだと認識しようとしまいと、心の奥底で悟ってることは同じなんです。
だから言うんです、なにひとつ自慢できるようなものじゃないって。
例えばみんなが自分の親指があることを知らないでいたとしましょう。
ところが自分は親指を持っていたこと思い出した。
でも本当はみんなに親指付いてるんですよ。
その時あなたは「ついに私は親指を手に入れた、達成したぞ」なんて、言わないでしょ。
それと同じです。
みんなが持ってるわけだから、えばることじゃないんです。
みんなはすっかり忘れこけているだけで、最初から悟っているわけだし、本当は最初からみんながブッダだっていうこと知っているから。
だから教祖になったり、自分が特別な魂だなんて言って崇められている人達は、みんなおかしな人達だと思います。
だって僕達は元々、ひとつの同じものなんですから。
そういうエゴトリップ、魔境に入らないようにしながら、それでもみんなに親指がついていることを、真実を伝えていくのは、先に知った人の義務だと思うんです。
人にどう思われようとね。
この世界観を伝えていくのは非常にデリケートな事なんですよ。
デリケートな事だから、反感を買うかもしれないし、誤解されるかもしれないし、中断させられるかもしれないし、いろんなことを引き受けなきゃならないんです。
今でもラジオなんかで、いわゆる宗教がかったこと言うのは、おそらく他のパーソナリティは躊躇しますよ。
どういう反応があるかってこと大体想像できるし、そんなことは自分の得になりませんから。
イメージが付いちゃうし、なんだあいつそういうとこにはまってるよねって思われたらアウトですから。
でも、もうそれ平気になっちゃったんですね。
究極的な話を、真昼間のラジオで言ってきましたけど、これは初めて聞いた人は結構ビックリするみたいですね。
昨日僕のところにメールが届いたんですよ。
「僕は東京のリスナーです」えっ?東京の?
「実は今年の夏、沖縄に観光旅行に行った時に、レンタカーの中であなたのラジオを聴きました。
お釈迦さんの話や仏教の話をさんざんした後で、コンサートの宣伝してましたね。あなたは一体何者なんですか」
そういうメールが届いた。
まだ返事書いてないですけどね。どういうふうに書こうかと思って(笑)
そのくらいに違和感あるんでしょうね、ラジオでは。
そんな僕を起用してくれた柳さんて人のおかげで僕自由に話してるんですけど、彼の勇気ある選択ですよね。
彼は直観的に思ったそうです。
これからはこういう言葉が、必ず視聴者の心に届くって。
彼は禅のこと何も知らない。
ただ僕が昔歌ってた頃のことはよく知ってくれていた。
それで僕のライブを見て、こうやって喋っている内容を聞いて、そのことをラジオで話してくれって。
しかもお昼のワイド番組。
「いいんですか、宗教がかったこと喋りますよ」。
そしたら「いいです」って。
昔は友人さえも話を聞いてくれなかったのが、いまこうして公共の電波で自由に話をさせてもらえて、多くの人に聞いてもらっているのですから、僕は本当に幸せ者です。
つづく
多くの人に届きますように