2017年04月29日

足りないよ~

昨夜の禅サンガは初めて特別講師の登場となりました。

講師は円融寺住職の阿純章(おかじゅんしょう)さん。


阿さんは東洋思想史の学者さんでもあり、どんな質問にも瞬時に答えてくれ、それがすべて的を射ています。

向禅師と対談するように、痛快なやり取りが展開しました。


その中で見性(目覚め体験)についての話になったのですが、阿さんにはいわゆる一瞥体験はないそうです。

僧侶としての修業生活の中で、じわじわと行きついた境地があったようで、それを一言で言うと何かと尋ねたら


「私はいない」

だって(笑)


急激な大転換がなくても、じわじわと真理になっていくことはありうるわけです。


悟りがいつかどこかにあるという誤解をあっさり捨てて、いまこの時を生き始めたらそれが悟りです。



誰もが悟りの海の中に生まれ、生涯その海の中にいるのに、気がつかないでどこか遠くに求めています。

いかにその事実を知るかが仏教の真髄だそうで、まさに我が意を得たりの対談でした。



衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり

白隠禅師



たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり

まさにこれが、我々が置かれている状況です。


すべてが与えられているのに、「何かが足りないよ~」と泣き叫んでいる。

足りない何かは、その時その時で違っていますが、とにかくいつも何かが足りません。


その足りない思いが活動の原動力となるので、一概に悪いわけではありませんが、少なくとも何かが足りないという感覚は、真実を知らない限り、たとえ数兆円稼いでも続いていきます。

内側の欠乏は、外側のものでは埋まらないのです


足りないよ~

渇望している内側の満足や安心は、真理だけがもたらしてくれます。

完全にいまに在ることができれば苦悩はありません。

何があっても、ただ目の前のことに淡々と対応していくだけの話だから。


その生活態度が修業となります。

僧堂に入らなくても、生活の中で十分に実践できます。


むしろ僧堂よりもシャバのほうが難易度が高いかもしれません。

僧堂の生活はシンプルですが、実際のシャバの生活は混沌としていて、困難が次々とやって来るからです。


その中にあって、いま目の前に心を込めて生きる。

理屈ではなく、実際にそのように生きる。


そうすればいつのまにか、阿(おか)さんのような心境になっていることでしょう。



阿さんは言います。


「釈迦の出現以来、現代ほどその教えを真剣に求める人が多い時代はありませんでした。

しかも表面的な教えではなく、仏教の真髄を求める人達が僧俗の垣根を超えて増えています」


阿さんは、このブログも10年間以上読み続けてくれたとのこと。

僧も俗もない。


もしかしたらこれが、教えの本来の姿なのかもしれません。



いずれにせよ僕たちは、実に稀有な時代を生きているということです。


あらゆる苦しみを肥やしにして、真実の実現に向け、いまを生きていきましょう。





今日も来てくれてありがとう。

いまここパワーをあなたに。

足りないよ~  





Posted by Toshiro Abe at 10:51│Comments(45)
この記事へのコメント
わたしの人生に二大転機がありました。


まず「両肩を大きく後ろに引き続けること」を日常生活で心がけていたら

頭蓋骨が背骨の真上に乗るようになり、中心軸ができ

心身が一気に解放され、非常に楽になりました。


次は「頭からハート・胸の中心に意識を向け続けること」を日常生活で心がけていたら

頭の想念に巻き込まれなくなり、ハートが力強く輝きながら大きく開いていき

心身が一気に解放され、非常に楽になりました。


体と心の姿勢が中心から外れるほど

体と心が乱れて、苦しみが生じるという真実と
(苦しみの真実 苦しみの生起の真実)

体と心の姿勢が中心にあるほど

体と心が整い、苦しみが滅するという真実を実体験することになりました。
(苦しみの滅尽の真実 苦しみの滅尽に至る道の真実)


仏陀が実践し説いた中道という真実を実体験することになりました。


「体を真っ直ぐに立て、心もそのようにして
 
 立っても、坐しても、臥しても、常に心を集中して整えている修行者は

 過去についても未来についても勝れた境地を得るであろう。

~ 仏陀の言葉 原始仏典より ~ 」


「頭は無明である。

 心臓は光の場所である。


『これは苦しみである』と心を集中し続けなさい。

『これは苦しみの生起である』と心を集中し続けなさい。

『これは苦しみの滅尽である』と心を集中し続けなさい。

『これは苦しみの滅尽に至る道である』と心を集中し続けなさい。


~ 仏陀の言葉 原始仏典より ~ 」
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2017年04月29日 11:06
いまここパワー!
めっちゃ素敵です!受け取りましたー!

昨日の対談素晴らしかったー涙

教授との対談より100倍面白かったー!
すっすみません。本音が(>人<;)

僕も毎日、何かを求めてます。
最初から満たされていた。
という事実に触れたのに、まだ足りない〜の中に
います。。。

今後もシャバで修行致します!
Posted by あらかちです。 at 2017年04月29日 11:14
今日もありがとうございます。良い休日を。
Posted by 林ゆみ子 at 2017年04月29日 11:31
阿部さん、いつもありがとうございますね〜
Posted by ゆりん at 2017年04月29日 11:37
いつもありがとうございます。
素敵な1日になりますように。
Posted by ほったん at 2017年04月29日 11:43
> 理屈ではなく、実際に...

実際、ここのコメント欄は理屈が多いよぉ
Posted by rakuni... at 2017年04月29日 11:52
阿部さん、こんにちは。良く言いたいことが、浮かばないのですが、僕も真実を知りたいです。いやもしかして、もう知っているのかな。

結構、面倒くさいシャバの生活。これからも、何事も足りている(ここに気がつくのが、大事)淡々と生きて行ければと思います。そう足りているんですよねー。でも、なかなかそう思えない自分がいます。正直、苦しい時もあります。しかし苦しい時の方が、得るものも大きいかもしれません。

>いずれにせよ僕たちは、実に稀有な時代を生きているということです。

なんかとてもうれしいです。今日も更新ありがとうございました。
Posted by 永井新吾 at 2017年04月29日 12:03
円融資の(おかんじょうさん)…









_φ(・_☆ン⁉︎
Posted by leiC at 2017年04月29日 12:13
私たちはいろんなすべてを自ずと分けてるエネルギー体。


だから、どちらかに偏ることが好きなのかな♡


でも苦しむことが出てくるのは

その偏りが本当は自然じゃないことを

まわりが教えてくれてるのかも♡


でもどんなに偏ってるように見えても

本当はバランスがきれいにとれていて


不思議‥\(^o^)/
Posted by えんじぇる at 2017年04月29日 12:14
大空さん
姿勢のお話、勉強になりました。悩みの時、頭が前に出て、背中が湾曲しますね。気を付けたいと思います。
Posted by モルゲン at 2017年04月29日 12:21
人が悟りへとたどる道は、その人がどのような人生(私)を送ってきたかで違ってくるような気がします
私は「誰からも愛されていない」という感覚が人一倍強く、そのために自分の欲求や要求を押し殺して人に合わせて生きなければ存在価値を見出すことが出来ませんでした
ですから本質を垣間見た瞬間には、「すべては赦されている」という確信が内側から起こってきたのだと思います
本質は私にとって、無条件であり、愛そのものでした
私が探し求めていたものは、私という存在への「赦し」だったのだと思います
私は私のままで、最初から赦されていた
これが私の悟りのストーリーです
Posted by かみゆ at 2017年04月29日 13:04
今までは…
悟りよりもお金儲けが大事!という方が多かった
と思います

普通の禅師が喝を入れても、聞く耳を持たない

しかし、最近の朝鮮半島情勢でようやく
お金儲けよりも悟りが大事!ということに目覚めた方も
多いことでありましょう



今ここにあるものと共に
この瞬間に存在していることを分かち合う

これがワンネス…これが悟り…

死ということがこの生に神聖さを与えるわけですから

まずは

いつの日にか、自分は死ぬのだ
と腹をくくって散歩に行けば普段の日常の景色が
、どのように見えるのか?


すでに愛の中にある…


散歩☆散歩☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2017年04月29日 13:04
大空さんへ という訳でなく、コメントを読んでの感想です。単なる記憶と反応(呼応・連鎖)の思考です。・・・とは言え、何か示唆があれば お願いします。

>仏陀が実践し説いた中道という真実を実体験

・・・ということは、ブッダが何故中道を説いていたかが解ったということですね。

さすがですね。私 仏教には疎いので、中道とか八正道とかは聞きかじりのイメージしか持ってないです。だから何で、過去(と現在)への反省があって、何故 左右両極端にぶれない「中道」を説いていたかが、未だに解りません。経験する「自我」に規範(八正道の規範・基準)などないように思うのです。それでも尚、人間的な努力や規範を説いたのは、そこから逃れる術もないし、その必要もないので「私はいない」ことを説くよりも いる私への扱い方を説いていたのかなぁ・・・と 想像しています。
Posted by 李 信。中道と反省への疑問。 at 2017年04月29日 13:13
今日のブログは、深く静かに私の中に響きました。

真実、言葉ではなくて本当の意味での真実を生きたいと思います。

阿部さん、いつも素敵なブログをありがとうございます。^ - ^
Posted by ヨッチェル at 2017年04月29日 13:49
関係ないかもですけど
さっき庭のツツジの剪定をしていて、まだ花の咲いている枝が、隣家に侵入していたために、やむなく枝ごと切り落としたのですが、無駄だと知りつつも(笑)花壇の土に枝ごと挿しておいたのですが、先ほど確認したらやはり花がしおれてしまっていました
その時ふと、「分離した感覚って、こうやって切り落とされた枝の花のように、しおれてしまうのかもしれないなぁ、、、」と思いました
根付いた木(大元)と繋がっているときは、生き生きとしているけど、そこから離れて(と錯覚して)しまうと、水を求めて心が彷徨ってしまうのかもしれませんね
Posted by かみゆ at 2017年04月29日 13:56
昨夜は幸運にもライブでサンガに参加できました。
4期からの入会で、これまで忙しくてもっぱら録画に甘んじてましたが生は臨場感が違いました。

阿さんと阿部さんの対談は何年間も仏教を学んだような充実感があって珠玉の時間でした。阿さんはオーラが透き通っていて阿部さんが抜擢されるだけの器を感じました。
ここに書いていいものかわかりませんが感謝の気持ちをお伝えしたくて。

次回も楽しみにしています。
Posted by ルート246 at 2017年04月29日 14:39
かみゆさん!

すみません。横から失礼いたします!!!

つつじの分離感のお話し。染みわたりました~(^^)
ありがとうございます。

今月から座禅していますが、
座禅の最中は凄く心地よく、日常に戻ると
わ~~~~っと沢山の思考が湧いている事に気づけました。

常に大元は傍にいて
しかも目の前のあらゆることが大元そのものでありながらも
やはり一喜一憂してしまいます。

座禅を続けていく事で、この後の心境の変化がとても楽しみです。

またコメントお聞かせください。

失礼いたします。
Posted by あらかきです。 at 2017年04月29日 15:09
あらかきです。さん

あらかきさん?あらかちさんじゃありませんでしたっけ アレ??"「( ・ω・;) ポリポリ

まぁいっか 笑

ツツジの話、なんかふと書いてみたくなったんですよね
でもお心に響いて頂けたみたいで良かったです
ちなみに、どんなに思考が湧きまくっても、どんなに一喜一憂しててもいいんですよ
大元は それ を赦しているんですから♪(。-ܫ-)
Posted by かみゆ at 2017年04月29日 15:55
阿部さん、対談講義拝見いたしました(^_^)


阿部さんのご著書「神様のせいにすればいい!」を読んで
阿羅漢と菩薩について関心がありましたので、そのあたりのお話しを特に興味深く聞かせていただきました。


慈悲の行いも、煩悩の行いも、なんでも、修行になり得ると捉えました。


「ぼっち仏教」

ひとりぼっちのぼっちからついた名前だそうですが、まさにそうだなあと思いました。


みんなが、修行僧。それぞれに与えられた道なき道を歩んでいる同志のようなもの。
そんな感じに思いました(^_^)
Posted by ようこ at 2017年04月29日 17:15
世の中の悩み苦しみの99%はお金不足ですね。 ^^
Posted by ふふふ at 2017年04月29日 17:47
足りないと思うときは
”足りない”という想いが湧いている

シンプルか〜 ☺︎
Posted by 薄茶色 at 2017年04月29日 18:09
二元の世界のトップは安倍さんで、非二元のトップは阿部さんやね、私は懲役帰りで生活しんどいですが、このブログに癒やされてます。
Posted by 吉田 at 2017年04月29日 19:08
阿さん素敵です!
Posted by KF at 2017年04月29日 21:00
水の中で渇を叫ぶ、よい言葉ですね。
これを心に留め過剰な欲望や思い上がりが出てきたら思い出すようにします。

シャバのほうが大変、ということを自分も考えたことがあります。
たとえば東大現役合格を目指して勉強するとき、勉強の事しか考えられない塾の合宿のような環境と、遊びに誘う友人や面倒を見なくてはならない兄弟がいるような環境では後者の方が工夫を要するなぁ、と。
決して出家して修行に専念することのほうが楽とは思っておりませんが、シャバにはシャバなりの修行があるというのはとてもよく解ります。
そう考えると、僧の方々も、そうでない一般の層も、皆ひとつところに生きているのだなぁと感じます。
ソウという韻を踏んでオヤジギャグみたいになっちゃったな…というくだらない雑念と格闘する我でありました。
ありがとうございます。
Posted by まよいみち at 2017年04月29日 21:59
いつもありがとうございます。

「ない。ない。」という欠乏感を解消するには、与えることでしか満たされない。パラドックス。
与えないから得られない・・・
与えるもの、金、愛情etc
Posted by まっす~ at 2017年04月29日 22:00
阿部さん、いつもありがとうございます。

阿さん、輝いています。
おでこも輝いていましたが、ほんと、輝いているなあと思いました。
もしかしたら、空海さんもこんなだったんじゃないかと、ふと思いました。
一度お会いしたいです。

中道の話がコメントに出ていたので、最近思ったことを。

私は外仕事なのですが、ちょっと寒ければ震え上がり、ちょっと暑ければ参ります。暑すぎず寒すぎず、真ん中あたりがちょうどいい。

空から見た海岸線。
海と陸地の高さはほとんど変わらないように見える。
ほんの少し水位が上がれば津波になり、ほんの少し水位が下がれば魚もいなくなる。真ん中あたりがちょうどいい。

お釈迦様はさすがにすごいことに気づかれたな、なんて。
仏教でいう中道とは関係ないかもしれませんが。

阿部さんから、べー、をとると阿さんですね(笑)。
Posted by ふろいで at 2017年04月29日 22:59
阿さんとの対談、今視聴させて頂きました。
本当はリアルタイムで視聴したいのですがなんかタイミングが合わず、
でもリアルタイムだときっと色々質問したくなって余計なちょっかいになってしまうだろうから
これでいいのかと思うことにしてます(笑)

常々、「全てはつながっている」という直感を元に、「これはどうつながってるんだろう?」と
思いながら生活している自分としては、阿さんのお話はとてもおもしろかったです。
直感だけではなく、その、様々な関係性を綿密に検証し、その上で、やはり確かな事だとの
確認を積み重ねておられる方だと思いました。
『頭』=『指』だけつなげ合わせてるのではなく、その『指し示す先』を見て、
「全てはつながっている」と理解されている方なんだろうと思いました。
またの対談も楽しみにしています。

対談を聞いてて、なんか「徹子の部屋」に似てるなぁと感じました(笑)


>たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり

実際、『空気の中』に居るのに、『息苦しい』とか叫んだりしますもんねぇ・・・
自分の経験では、息を『吐けていない』から『吸えず』に、『流れ』が滞る事で
息苦しくなっていました。
精神的にも全く同じ事と感じて、思考、感情、感覚を『掴まず』に『流し続ける』事を
模索しているところです。
だいぶできてきて、そう感じるごとに楽になっていってる実感もありますが、
社会で生活するには『掴む』必要がある事も多く、大変だと感じます。
ですから、本当の、本気で、『社会生活』が一番の修行の場だろうと感じています。
社会人であるという、それだけで、素晴らしい修行者だと思います。
Posted by ただの「自分」 at 2017年04月30日 04:52
阿部しやぁーん、おはよう(//∇//)
今朝、宇宙から?阿部さんからパワー貰ったのかな?
言いにくいのですが、キュンキュンしてます。
全ての女性が宇宙エネルギーと繋がったら、愛にあふれちゃいますね。
なんちゃってレイキ(うろ覚え)してる最中
来たんです。キュンキュンパワーが。
これさえあれば、阿部さんと会わなくても
やって行けるじゃんと思っちゃった(爆)

そうそう、立ち読みした阿部さんの本の中に
手からもパワーが出ていて、フェザータッチで
すればいいみたいな事を思い出して、やってみたら、
即、キュンが来たんです。

ありがとうございました
イヤーこれ、楽ちんですね。
宇宙パワー最高です。
ん?それとも阿部さんパワー?
まっいっか、私には、考えてもわからんし。
今本当に気持ちが良いです。
女性の皆さんにこれ、味わって貰いたいです。
自然に笑顔になれるし、自然に優しくなれる。
満たされると、自然にそうなるようになってるん
ですね。
性エネルギーを陰に捉えてましたが、全ては
男性性と女性性の結合?で、成り立ってるなら、
性エネルギーって悪じゃなく、愛のみなもとのパワーなんですね。
それが、分かって良かったです。
阿部さんに今日も感謝する事あって嬉しいです。
私も阿部さんにパワー送られるよう、今ここパワーで
いますね。
みんなが、愛であふれますように♡
今朝は、愛足りてるよ~♡
Posted by ふ at 2017年04月30日 05:32
人間の自我の芽生えは 2歳頃と言われている。
そして、14歳頃に自我は完成すると言われている。
すなわち 私達は少なくとも2歳になるまでは 自我と無縁に生きてきた。

自我とは 何なのか?
2歳以前に 私達は言葉を覚えていない。
眼は見えているので 目の前にあるものを「その通り」見ている訳だ。
言葉を覚えてから 私達は 目の前にあるものを「その通り」見れなくなる。
例えば 私の目の前には「パソコン」があって これを打っている。
2歳以前の私は これを「パソコン」と思考しないで「ありのまま」の姿を見る。
この状況にあるのが「イデア(アイディア)」である。
言葉を覚えた後の私達(自我)は パソコンをパソコンの利用目的に使う事を思考する。
もしも「利用目的」が無ければ このパソコンは無価値でゴミである。
そもそも「利用目的」があったから このパソコンを買ったのである。
なので このパソコンは 「そういう目的の為」に 使われる。

では 2歳以前の私の前にある「パソコン」は 何か?
「目の前にありのままに存在するもの」である。
メールを打つ「必要」もないし、ネットサーフィンをする「必要」もないし、何かをググる「必要」もない。その代りに「何にでもできる」のだ。

例えば2歳児は ノーパソを お盆に出来るが 私達は パソコンが水に濡れると大変なので お盆には しない。
2歳児は アイデア(思考)が無限であるのに対して 私達のアイデア(思考
は 行き詰りがある。
私達は「パソコンがパソコンでしかない」と洗脳された結果「アイデア」を縮小させられている訳だ。
そして「私がこの身体でしかない」と洗脳され、思考(アイデア)を縮小された状態を「自我」という。

坐禅で「思考を止める」と 私達が2歳前に持っていた「叡智」が溢れる。
目の前にある「その通り」を言葉にして解釈して断定した「現実」がその通りの事実と変更される訳だ。

自我には 難問を乗り越える力が無い。
だから 妥協を繰り返す。
その妥協が 理想とはかけ離れているから「足りない」のだ。
「最善の答え」は この「無限の叡智」の中にあり、自我の思考の領域には存在しない のである。

だから「まるまる」は 瞑想に入り この「無限の可能性(叡智)」を頂いて帰ってくる。
「目の前に全てが在る」時は 瞑想中だけなのである。
「パソコンがパソコンでしかない」世界を脱却すると「パソコンが全てである」世界があるのだ。
「私が身体でしかない世界」を脱却すると「無我(身体に固定されていない私)が全ての世界」が現れる。

自我は いつも困っていて、そのままにしておくと 妥協してしまうから、まるまるは 瞑想の習慣(叡智を貰ってくる習慣)があります。

これは まるまるが禅の実践において 習った一つのことです。
まるまるは「無知」ですが、まるまるは「智慧のありか」を習ったのです。
Posted by まるまる at 2017年04月30日 06:26
>衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

>たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり

・・・かっこいいですよね、この表現自体が。

この続きを想像してみました(笑)・・・私も ヒマだな~w

遠く 求むるはかなさは この身を持つ者にして

人のスガタを 映し出す。

たとえば人の中にいて 愛を叫ぶがごとくなり
Posted by 李 信。詩人になる(笑) at 2017年04月30日 08:52
今ふと浮かんできて、「あ~~~~・・・・・そっかぁ~~~~・・・・・」と思った事。

『自我』って、『指』なんですね。

「足りない」と指し示す先に『何か』がある事は、『自我自身』が知ってるんです。
それを知ってるから、「足りない」と言えるんです。

でも、ついうっかり、その『指し示す先』が『自我』や、『自我の創造物』と『勘違い』してしまうんです・・・・・

・・・・・なるほど・・・・・。
Posted by ただの「自分」 at 2017年04月30日 08:55
阿部さんパワーと言うより、宇宙エネルギーが、阿部さんを
通して発せられてるんだね。
全てのみんながそんな力を秘めてるのかな、きっとね(^∇^)
Posted by ふ at 2017年04月30日 10:54
どうせ、私のお利口さんコメントはいつも、没(笑)
よっしゃ、やるとするか。( ̄。 ̄;)あれを。
Posted by ふ at 2017年04月30日 10:59
人気ブログランキング6位くらいの「愛してるよ、大好きだよ」を見ていました。

この方は、俗に言う霊能力と、他次元の視聴感覚を強く持たれて、それを日常的五感の感覚と同居させている方だと思います。

いつも、読んでるわけでは、ないのですが、今回は「UFO」との常識的な(この方にとっては)体験と、その認識を語られていましたので、

それが私の幼少時の経験と似ていましたので、思わず前日の記事まで目を通してしまいましたが、「山」が神聖なものとして、

時代を通して人々に崇められたりする理由・事実など、ついでに察する事ができたりしましたが、

こちらに‘戻って’来て、

>>「衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ」

「たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり」<<

ああ、正しく、私・ここも、人間たちも、それを現実とした日常も、そうだと思いました。

最近、己・(無/空)に寛いでいますので、五感や、それがもたらす現実感への意識の配分、認識が乏しいので、

別の意味で、物忘れや、“肉眼”の前の事に気づけない事がしょっちゅうありますので、「灯台下暗し」となっていました。(これからも、成り続けるでしょう・・。)

私のように、真実を求めながら(求めることが起きながら)、現象/世界の、人間・動物的な感性・認識の「心的世界観・一切唯心造」や、

霊的な界隈の事情のこと・多次元の仕組みや世事や、その相互の関連・繋がり・影響力、

また、分からないもの、知覚・認識できないのの存在やその繋がり・影響力などなど・・を扱うことに《関心》を残す人は、稀なようで、

その“知ろうとすること”をそのままにすると、切りがなく、“やって行く”ようですが、

この、白隠禅師の、

>>「衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

たとえば水の中にいて 渇を叫ぶがごとくなり」<<

は、すべての《“動”物》、《意識の“働き”》・・現象に言えることではないか?と、思えました。。( ・_・;)

また、阿部さんの記事にも、とても感銘を受けました。

この先も、この自動的な衝動が起こる限り、“網羅”と、理解をするということが起こるのでしょうけど、

現象に、どのような現象であろうとも、神や、仏や、天使や、悪魔や、霊や、知らないことにも、完全には、巻き込まれない事が起きるのだろう?と

予測しています。

♡基調な、とても、基調な阿部さんのブログに、ありがとうごさいます。
Posted by y-be at 2017年04月30日 11:42
あべさん

ほんとうに いつも やさしい メッセージ
ありがとうございます。

**
Posted by めい at 2017年04月30日 18:33
突然ですが失礼いたします。(苦汗)
人類はまったく違った意味で目覚める必要が有りそうです。(苦笑)

バシャールはさとうみつろう氏との対談で、「アヌンナキ」という存在が我々人間を作ったと言ってましたが、僕がその後に調べて分かったのは、これには自分達の食料としての意味が有るようで、彼らの別名はレプティリアンだと云われいます。
闇の支配者と云われてる諸々の秘密結社も、全てはそこへ行き着くようです。

https://ameblo.jp/atom-green-0201/entry-11479257789.html

http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8254.html


これは米国のある公聴会で実際に起きた出来事で、ジョン・マケイン上院議員が質問中、対面して質問に答えていた軍人が突如シェイプシフトし始めたようです。
マケイン議員もびっくりしたようですが、下の動画にはその一瞬が納められています。

https://www.youtube.com/watch?v=71OFuD539ms (6:33~)

https://www.youtube.com/watch?v=glLeJxHRJ6w (10:00~)
まさかコンタクトレンズでしょうか、しかしそんなの有りましたかね!?


おそロシアのプーチン大帝でさえ、エリザベス二世には近付か無かったようです。
しかしこれがもし事実なら今後この世はどうなるんでしょう!?
北朝鮮の問題とはまったく次元が違うような・・・(*^m^;)ゞ
Posted by It's a SONY ♪♪ at 2017年04月30日 22:44
まるまるさんのコメントを読んで、コメントしたいという“自我”が顕れました。

それは、とても良い気づきですよね。わかってしまうと、当たり前のことなんですが、

いかに、既存の知識(過去)や思考や、決め事(過去)に縛られた人間たちはもとより、

私の場合、想像をさらに広げますと、宇宙の無限な意識の顕れたちが、

色々な自らの、或いは影響されて、そのつくり事によって、動き、働いているのだろうとも、想像してしまいます。

しかし、これに気づいて、馴染んでしまうと、それはそれで、

世の中の人たちに、ホント、気づいて欲しいという、また“自我”が顕れては、見え隠れを繰り返してますね。
Posted by y-be at 2017年04月30日 23:31
李 信さん、この前はありがとうごさいました。

ご縁がありましたので・・もうお解りになったかも知れませんが、

機根という仏教用語があります。

衆生(しゅうじょう/我々)の機根について、ちょっと調べてみてはどうでしょうか。

お知りになりたいこと???が解るかも知れません。

それに、阿部さんが以前、ブログで申されていたと思うんですが、

「さて、ひたすら求めて、熱中していたことは、分かった。(な~んだ!そうだったのか!とか、)」


が、、どうするかということが、その後、人間お釈迦さまの行く先々で、また、会う人々との間で、起こっていたのではないかと、私は想像してしまいます。

過去の経験や得た知識は使っても、何でもそれに当てはめてしまったのなら、もうそれは、(思考的にはですが・・)今に生きてないとも思えます。
Posted by y-be at 2017年04月30日 23:35
あいらぶいまここ
Posted by まさとん at 2017年05月01日 07:05
y-be さん 返信ありがとう。
こないだ 話が途中になっちゃって気になりながらも返信できなかったんだ。
「空っぽに足跡」を付けるというのは 自燈明って言われるような事で、空っぽは真っ暗な大海。ここの何処にライトを照らすかは「自由」だけど どこを照らすかは「自分が決めましょうね」ってような事です。
私達が一番困っているのは「次 どうするか?」であって「なんでもいい」から迷っているのであって、自由でなければ「迷いようがない」。
「自我」という誤解は「過去の認識にある時をいまと感じてしまう」という誤認識の欠陥があるので「次という未来」を想定した時、それが「<いま>」なので「すでに決まっている未来(いま)」しか経験出来ない。
(ややこしい書き方だけど「自我」にとっての「いま」は「過去」で、未来だと思っている時間帯が「いま」であるという いっこずれが起きているという事を語りたいのです)
この「いっこずれ」の時間を超えて「いまに立ち返る」事で「次」を「決める」という技が出来る。
禅では これを「なりきる」って言うけど、これが可能になると「改善」が起きる様になり「善く生きる」という方針(道)が見えるようになるって感じ。
この「改善」はあくまで「自らの法」によるものだけど、これを「灯台」に例えて「照らす方向」の話をしている訳です。
朝から ややこしい事を書きました。

確かy-be さんって宗教(学会?)経験がある方では無かったですか?
テキストの感じから 仏法学んでるってイメージがあるので、私は話が読みやすいんですよね。私の記憶違いだったら 本当にごめんなさいなんだけど。

で、今朝の返信は。
まるまるが「いつかの私」に置いておきたい言葉は「禅って面白いよ」って縁。
「仏教に触れたら 孤独が解消されたよ」とか「困ったことが困らなくなったよ」とか そういう「甘い」声掛け。です。
Posted by まるまる at 2017年05月01日 08:59
まるまるさん、ありがとうごさいます。

>>「自我」という誤解は「過去の認識にある時をいまと感じてしまう」という誤認識の欠陥があるので「次という未来」を想定した時、それが「<いま>」なので「すでに決まっている未来(いま)」しか経験出来ない。
(ややこしい書き方だけど「自我」にとっての「いま」は「過去」で、未来だと思っている時間帯が「いま」であるという いっこずれが起きているという事を語りたいのです)
この「いっこずれ」の時間を超えて「いまに立ち返る」事で「次」を「決める」という技が出来る。
禅では これを「なりきる」って言うけど、これが可能になると「改善」が起きる様になり「善く生きる」という方針(道)が見えるようになるって感じ。
この「改善」はあくまで「自らの法」によるものだけど、これを「灯台」に例えて「照らす方向」の話をしている訳です。
朝から ややこしい事を書きました。<<

★多分、一般?的には、ややこしいのでしょうけど、誰でも、その時に、起こる、思い付きで、そう描くしかないですよね。

私には、最初がややこしかったですけど、途中から、「そうかぁ!」となりましたよ。

起きてることの仕組みをシェアして下さり、ありがとうごさいます。

他の方の役にも立つといいですね。

次いでに、早朝や、朝は、気づき(意識)の焦点が、五感にあまりないみたいですので、結構許容量があるみたいですから、ややこしい、難しいという感覚や、その印象もあまり起こらないようです。


>>で、今朝の返信は。
まるまるが「いつかの私」に置いておきたい言葉は「禅って面白いよ」って縁。
「仏教に触れたら 孤独が解消されたよ」とか「困ったことが困らなくなったよ」とか そういう「甘い」声掛け。です。

★“私の傾向”は、大概において、孤独が好きになってしまっているようですので、寂しいという気持ちはほとんど起こりませんね。

(でも、Web環境で、配信されている映画、洋・邦・アジアなどのドラマを見たりして、人間・間の思い込みや、決め付けが紡ぎ出すストーリーを楽しんだりもしているんですね。)

あと、私は、かなり前ですが、創価学会員でした。というか、日蓮聖人を尊い方と仰いでいました。

どちらかというと、創価学会の第二会長の(私が若くして入信した時は、既に亡くなられていた)戸田城聖さんの、戦前、戦時中、戦後の生き様や、その人柄に物凄く惹かれていました。(当時誰もが慕っていた?池田名誉会長にはなぜだか、あまり、ピンと来ませんでしたね。)

宗教関係には、後にも、先にも、これ一度きりの参加でした。

若くしての私の目的は、自殺した恩人の安否をまずは知ること、そして、出来うるならば、私の命に代えも、その人を幸せにすること、望む事をさせて上げることでしたので、

現世・人間社会を仏国土として、幸せを追究して行く彼らとは、求めてものがそもそも違いました。

しかし、私の真理の探求の礎となったことは間違いなく、この性格付けにしても、未だに、感謝もしております。

長文、繰り返し、失礼致しました。 <(_ _)>
Posted by y-be at 2017年05月01日 11:54
y-be さん 気にかけてくれてありがとうございます。

「中道」「反省」「八正道という規範」・・・これを 教えとして何故説いたのか?

何故「私はいない」「色即是空」の根本で終わってないのか?

一瞥の後、中道も反省も人を生きるには必要かもですが人を悟るには必要がないと思いました。たぶん同意見の方もいられるでしょう。

私が思うのは、「私はいない」・・・で、終わらなかったのでは?です。

多くの人が「非二元」「私なんていないよ」って 簡単に終わらせています。

私は 終わらせていないです。。。自我で生きていますので。
Posted by 李 信。私はいる(笑) at 2017年05月01日 12:22
はい、私という感覚、質感が、いつでもあるので、そういうものだと思いますよ。
Posted by y-be at 2017年05月01日 21:13
私は「感覚、質感」でしかなかったとわかったなら、それにわざわざ私と名付ける必要もなくなりますね。
「あなた」と名付けてもよいわけで。ただの言葉ですから、なんでもよいわけです。
「また質感がやってきた」ぐらいで、過ぎ去っていきますね。
そして過ぎ去った直後は、だぁれもいません。
こういったことから、私=観念で、実体はない、つまり「私はいない」。
私はいるとかいないではなく、実体がないということを言ってるのだと思います。
Posted by sugi at 2017年05月01日 23:02
「いま目の前に心を込めて生きる」

いままで、この言葉に随分と力をもらってきました。

「・・いまこの時を生きてきた・・」かは、自信がないのですが。

その上、ひょっとして(失礼)

それは「悟り」に近づいていってる?!

今日は、なんていい日なんだろう~(5月7日)

一瞥は無くても、ジワジワでいきます!
Posted by May at 2017年05月07日 16:33
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