2016年12月30日

言葉の意味が変わる時

今日の沖縄は汗ばむくらいの陽気です。

例年だと年末年始はお天気が崩れることが多いのですが、このぶんだと今年は初日の出が拝めるかもしれません。


さて、何度も聞いた言葉なのに、あるとき突然その言葉が持つ意味が心に深く浸透することってありますよね。

ここでお伝えしてきた、「いまここ」という言葉もその一つだと思います。


この言葉に出会ったのは何十年も前で、最初はOSHOの書籍から、そしてしばらくして当時のニューエイジのバイブルだった「BE HERE NOW」がそれに続きました。


地球が自転していて、太陽の周りをまわっていて、しかも時計の秒針も動いているから、まるで時間という確かなものがあるような気がしますが、実際にはいつも「いま」があるだけです。

もし地上から人類が消えて、動物だけが生き残ったとき、その世界に暮らす動物たち、たとえばウサギに


「いま、何時?」


と聞いたとしたら


「えっ?何時かって?そりゃあなた、いまでしょ」


って答えることでしょう。

もちろんウサギが喋ればですが。


彼らには時間がありません。

過去や未来を想起するマインドがないからです。

いつだっていまがあるだけ。


人間が消えれば時間も消える。

これは動かしようのない真実です。


「ここ」というのも、自分の存在している場のことで、自分がどこに動こうといつもここにいます。

ちょうどTVゲームの主人公が冒険の旅にでたとしても、動いているのは周囲であって、主人公の私はいつも画面の中央にいるのと同じ。

我々の存在はいつだって「いまここ」にあるのです。


ここまでのことは最初の一瞥で理解していました。



ところがその数年後、もっと決定的な洞察が訪れると、「いまここ」という言葉の意味がさらに変わりました。

これは言葉で表せないのですが、宇宙の本質が姿を現した様な感じです。


それまでも、「いまここ」という言葉を理解していたつもりだったけれど、これは言葉なんかじゃなく、宗教の真髄とも言うべきシンボルだったと思いました。

もし図形で表すとしたらキリスト教の十字架が一番近いけれど、それでもまだ十分じゃない。

蓮華国、涅槃寂静、どんな言葉でも言い表せない異次元の臨在。


じつはそれまでは、アドバイタ(非二元論)のメッセンジャーたちが言う、「いまここを標榜している教師は、まだその先を知らない」という言葉を聞いていたので、いったいそれは何だろうと思っていたのですが、この経験から、そのようなことを言う彼らは、「いまここ」という言葉を以前の僕のレベルでしか理解していなかったのだと思いました。

なぜなら、まだ彼らは比較していたから。


それ以降、言葉とはその人の理解に応じて意味が変わってくるということを知ったので、人と議論することがなくなりました。



言葉の意味が変わる時



さて、話は急に日常的になりますが、日常の中でも、あるとき急にその言葉の意味が心を貫くことがあります。


東京でタクシーに乗ったときのこと。

その運転手さんはよく喋る人で、僕にあれこれ人生を説き始めました。

いくつか話し終わった後


「お客さんねェ、こうやってお客さんを目的地まで運んでいくのは私の仕事で、こうやって働いているですよ。

それによってお客さんは楽に品川まで行けるし、頂いたお金で家族は楽になる。

働くってことは、傍(はた)を楽にするってことなんですよね。


働くとは、傍を楽にすること。

すでに何度も聞いたことがある言葉だったけれど、僕は礼儀上、

「ああ、そうだったんですね」

と応えました。



そこから新幹線に乗って、車内で寛いでいるとき


「この車両も、この技術も、いろんな人が働いて作ってくれたのか。

それで僕はこんなに楽になっている。

傍を楽にする・・・か・・・・」



そしたら、


「この世の全ては、お互いがお互いを楽にしあいながら成り立っているんだなァ

お蔭さまなんだなァ

生きられるってことは、なんて有難いことなんだ」


って、心の底から感謝が湧きだしてきて


「傍を楽にする。

そうか僕はこれから、傍を楽にするために大阪に向かっているんだ

僕は『楽』の配達人だ」


って、それまではなんとなく仕事で向かっていたのが、急に何もかもが変わってしまいました。


うまく書けませんが、いまさらながらに、当たり前と思っていたことに感謝出来た瞬間でした。



言葉というのは、何かのタイミングで急にその意味が深まることがあります。

何事も分かったつもりにならずに、謙虚な気持ちで生きていきたいものですね。


人間は死ぬまで学習だと思う、今日この頃です。






あたりまえの記事ですが、何かを感じてくれたらクリックしてください。

言葉の意味が変わる時



Posted by Toshiro Abe at 10:32│Comments(39)
この記事へのコメント
過去 いま  未来


左  ここ  過去



いまは時間的中心を指す言葉


ここは空間的中心を指す言葉



いまここは時間的空間的中心を指す言葉


ハートは胸の中心という人体的中心を指す言葉


いまハートという人体的中心に集中するほど

いまハートという人体的中心から至福の光が広がっていき

心が平安になり満たされていきます


内側に永遠の静寂・至福が現れてきます


いまここは時間的空間的中心を指す言葉であると同時に

宇宙全体に広がっている永遠の無限の存在を指す言葉でもあります


中心点は無限に広がっていき

無限の広がりは中心点に集中していきます
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2016年12月30日 11:06
 やっとですね!
Posted by 賢人テラワーダー at 2016年12月30日 11:13
阿部様

おはようございます。

よくわかります。

阿部さんのブログをず~~と読んでいて
その度に うんうん。と思って読んでいたとしても

ある時
ふと、何かの加減で以前のブログにヒットし
戻って読んでみたとき

その時に 感じた受け取り方とは
違った重さで
違った形で
違った響きで

自分の中に入ってくる。

2009/9/29の記事

>最初の最初から100%救われていて
本当の自分は何一つ傷つくことがない。

当時 この言葉を受け取った時には
わかったように感じていましたが
わかってなかった・・

昨日のゲームのプレーヤーが傷つかない記事と同じ

今も わかったようでわかってないのだろうけれど・・・
2009年よりは 確実に言葉の受け取り方が違う・・・

意味が変わる・・・という訳ではないけれど

絶えず
絶えず
発信し続けてくださってありがとうございます。
Posted by じゅんちゃん at 2016年12月30日 11:30
物事って見る角度によって様々な面を見せてくれる。

ある出来事を「当たり前」と思うのか「有り難い」と感じるのか、

阿部さんに出会えたことに「ありがとう」と言いたいです☆
Posted by 「ありがとう(有り難い)」の反対語は「当たり前」 at 2016年12月30日 11:37
初めてここに来た時
すごく楽になった事を思い出した。
ありがとう
Posted by katsuyo at 2016年12月30日 11:55
年末の忘年会で遅く起きましたが、いい話だなぁ目が覚めました。ありがとうございます(^_^)
Posted by しん at 2016年12月30日 11:55
阿部さん、いつもありがとうございます^ ^
Posted by ゆりん at 2016年12月30日 12:02
死ぬまで学習、
と言うより
死ぬまで体験、
かな

そのために
ONEから分離して肉体持ったんだよね。
分離することで体感して、知りたくて...!
Posted by I at 2016年12月30日 12:25
いまこことは 全体のことだと 感じる今日この頃。

当たり前の話が一番 肝心要であったりしますね!

人生は一生学びの連続だと 同じく感じています

気づきが尽きることはないだろうと思う。

ましてや、人生の先輩でさえ そうおっしゃるのだから、たぶんこの感覚は続くのでしょうね

沖縄の年始年末 晴れるといいですね!!
Posted by 薄茶色 at 2016年12月30日 12:35
いつも更新ありがとうございます。
ストップ瞑想しているとき、全てのものは人を喜ばせる為存在しているのだ。愛の為に開発されたんだ。なんて思っちゃいました。
Posted by 尚 at 2016年12月30日 12:38
上も下も、右も左も、自分が認識したものだけを認識し、認識しないものは、存在しない。宇宙にいったら何
を基準にそれを決めるんだろう!
この現実の今ここって、まだ、つかめへん(T^T)
Posted by ふこちゃん at 2016年12月30日 15:08
今日もまた素敵な記事をありがとうございます!
阿部さんにブログを読み始めてもう何年になるだろう?
阿部さんは徐々に柔らかい人になってるように感じる。柔らかくというか?丸くなったというか?心の余裕が出てトゲトゲしさが無くなってるような?そういう印象を受けます。重い荷物を背負っている事に自分が気付き下ろしていくと阿部さんみたいになるのかな?
Posted by Candle at 2016年12月30日 15:35
なんていうか、今日の画像は良い感じですね~。
Posted by nanashi at 2016年12月30日 15:46
久しぶりにかさぶたができた。

取ったらいかん~

いかん~

いかん~

でも取っちゃった。

なつかしかった

それを楽しんでいる何かがいた。
Posted by つきよ at 2016年12月30日 15:55
今日は時間の経つのが遅いですねえ。

集合意識ものんびりしてるんでしょうね。(^_^;)

‥と、今日の記事と関係ない話、失礼しました。
Posted by とん at 2016年12月30日 15:56
働く

端を楽にする か

確かに、それに対して報酬が出ているわけですね。
Posted by ひよどり at 2016年12月30日 16:17
左  ここ  過去


と書きましたが


左  ここ  右


に訂正します。
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2016年12月30日 16:42
私、ここ数年、社会通念上でもはたらいてないんですよねぇ・・・
傍を楽にしてないと思うと、つらいです・・・
Posted by はぬまぬ at 2016年12月30日 17:30
今の時代は
自分が存在しているということが当たり前の時代ですから

悟りというのは…自分が真実を体得する

ニルバーナ…サマディ…
といった何らかの境地を自分が達成する

と思うものなのでありましょう

しかし

リベットの実験で、自由意志があるのか、と議論されている
ということが世間一般に広がり
自分が存在していることって幻かも知れない
と人々が気づきはじめると

自分が悟りを開いた!ということは
自我の自分が悟りを開いたと勘違いしている状態であり

まことの悟りとは
幻である自我の自分が消滅することである

と見抜くのでありましょう

続く
Posted by 甲賀忍者 at 2016年12月30日 17:55
まさにです。
縁…という言葉は何回も読んだり聞いたりしていました。
その都度、成る程と思ってもいました。
しかしほんの数日前、良いことだけでなく、病気も事故も死も、起きることは全て縁なのだなと心の奥から実感が湧きました。
そのことでしょうか?
その時はとても感動して嬉しかったです。
Posted by モルゲン at 2016年12月30日 18:12
そういえば、うさぎには いつも いましかないように見えます!(笑)

どうでもいい コメントとなりますが、
動物はその中(いま) に、いるなあって、 いつも感じさせられます。。

いつも コレしかないみたいで、ほんとにピュア。

そのことを思うと 愛おしくなりますね。

誰も彼も、何もかもが、実際ピュアな存在である、ってのがオチなので、なにもかもが、誰も彼もが 存在レベルでは 愛おしいというのが 宇宙のオチでした。

ありがたいという言葉にも 深みを感じています ( ˘ω˘ )
ありがたいには、特定の対象がない (笑)
Posted by 薄茶色 at 2016年12月30日 18:14
阿部さん。こんばんは。お疲れ様です。

>何事も分かったつもりにならずに、謙虚な気持ちで生きていきたいものですね。
人間は死ぬまで学習だと思う、今日この頃です。

う~ん、正直、この言葉を聞くと、しんどい気持ちにもなりますが、しょうがないですけど、真実ですねー。以前、勤めていた会社の社長も同じ事を、おっしゃっていました。安心してジタバタしよう。。。
Posted by 永井新吾 at 2016年12月30日 19:03
今日は、日頃から、のんびりするために行っている海岸へ行って来ました。

いつも、どこにいても、人がいて、こちらの出方に次第では、敵にも、見方にも、瞬時になる人間ばかりなので、

とにかくその人たちに、身体や、頭が、勝手に反応してしまうので、

そのような人の喧騒の環境から逃れるために、行って来ました。

年末極まっていますので、ほとんど人は居なくて、たまに通る人も、こちらにはまったく干渉しませんので、本当に頭や、身体が、のんびり出来ました。

正面にドカーンと、頭から雪を半分かぶった富士山が見事に鎮座しており、

そこで、ゴロッと横になりながら、たくさん特徴の違うトビたちや、カモメの集団や、カラスの家族たち、ハトの一集団たちと、戯れ、また、遊んでもらい、

気がつけば、つがいのセキレイや、イソヒヨドリ、ツルに似た、容姿の大きなアオサギまで寄ってきていて、

スズメや、メジロなども、通り過ぎたりしますので、とても、幸せな時間を過ごせました。

おっと、「時間」はありませんでしたね。(^_^;)

こんなにたくさん野鳥がいたので、いつもしていますが、改めて、彼らをの意識を、よ~く、観察してみました。

そしたら・・当たり前でしょうが、

彼らは、「今」から“逃れられない”のですね。(想いや幻想にしても・・)

過去や、未来に思いを馳せるとか、自分の意識の動きや、働きに気がつき、自己想起するとか、たぶん出来ないから、

目の前の事に反応するままに意識が振り回されて、翻弄され、

良・好いことばかりなら、いいけど・・そうじゃないからなあ・・・

現実逃避に自己逃避、ストレス発散・紛らわし、気分転換など・・

悩みやしないだろう?けど、飢えや、苦しみもあるし、ライバルや、外敵・天敵に対して勝手に起こる不安や、恐怖、警戒心などを、

はたして?意識しないで居られるときなんて、なかなか?ないだろう。

だって、「今」から逃れられないから・・・。

こういう考察や、発想は?どうでしょうか?(^_^)
Posted by y-be+ at 2016年12月30日 20:18
突然、申し訳ありません。 はぬまぬ さんの気持ち良く解ります。なんか救われます。こういう事が、なんか、
>お蔭さまなんだなァ
って事になるのでしょうか?ふとそう思ったりしました。変ですかね?
Posted by 永井新吾 at 2016年12月30日 20:34
(自分が存在しているということも含めて)
存在している全てのものは現れては消えて行く幻
存在でないものだけは…無だけは…不生不滅

無とは無のことであって、それ以外のものはありません

意識もなく気づきもない
ニルバーナもサマディもない

なので

自我の自分が完全に消滅した釈迦の境地と
自我の自分が完全に消滅した我々の熟睡は同じ

自我の自分が経験している時に
自分の崇高な境地と熟睡なんぞは違うんだよ

という比較が入るのですよね

もちろん、それは勘違いしている人と言えましょう


今年は、熟睡と解放は同じ!と見抜いた一年でした

(-_-)zzz


ブッダ☆ブッダ☆


おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2016年12月30日 20:45
★、抜けてました。すいません。

>>現実逃避に・自己逃避、ストレス発散・紛らわし、気分転換など・・

+ 「良い意味合いでの、彼ら(鳥たち)には、出来ないからなあ・・」
Posted by y-be+ at 2016年12月30日 21:58
そう言えば、働くは、傍を楽にすること、
というのが、昨年他界した働き者の母の口癖でしたっけ。

その"働く"で思い出しましたが、
先日見たEテレの番組で、面白いことを言っていました。

蟻の研究をしている科学者が、
"蟻は、働き者だと言われていますが、よく観察していると、その内の2割ぐらいの蟻は、働いていない"
ということがわかったそうなのです。

そして、更にそれだけでなく、その働かない蟻を巣から取り出すと、
いままで働いていた蟻の内、やはり、2割くらいが働かなくなるそうで、
巣には、常に、2割くらいの働かない蟻が存在することがわかったそうなのです。

ダーウィンの生物の進化論の中心的な理論は、弱肉強食と環境適応ですから、
この働かない蟻の存在は、ダーウィンの進化論には当てはまらないことになるそうで、
これまで地球上に発生した99%の生物が、何らかの理由で死滅し、
いま地球上に生息している生物は、残りの1%だそうで、
その1%の生物すべてが、ダーウィンの進化論によって説明できるとは言えない、とも言っていました。

そこで、更に、興味深いことに、
"生物の進化の根底には、永続性があると考えられる"と言っていました。

つまり、働かない蟻の存在は、巣というコロニーにとっては、
生き残るためのひとつの方法として、現れているのではないか、ということでした。

例えば、働く蟻が、何らかの理由で死滅してしまった場合、
その時に、働かない蟻は、働く蟻に変化するそうで、
蟻一匹というより、蟻という種の保存、ひいては、もっと大きく、生物の種の保存に関わっていると考えられる、とも言っていました。

私たちは、自分ひとりの問題として、
働くことを考えたり、個人の生存を考えたりしますが、
ホモ・サピエンスという種の保存、ひいては、生物の永続性のために、
働いたり、働かなかったり、また、子孫を残したり、残さなかったり、
ということが起きているのかもしれませんね。

働く蟻と働かない蟻の存在は、蟻という全体のなかで起きていることで、
蟻一匹には、何故それが自分に起きているのか?は、きっと、わからないでしょう。
(蟻なので、理解する知性がないので、当たり前ですが)

人間にも、このような自分たちにはわからないけれど、
種の保存のために、生物としての永続性のために、
起きていることがあるのかもしれない、と感慨を新たにしたのでした。

働かない人間がいても、それもOK。
人間という大きなくくりの中では、人間に起きることは、すべて必要だから起きている。

そう考えると、すべては自然。
すべては、大きな流れの中で起きていることで、
地球に生物が発生してから38億年間、
一度も絶えることなく脈々と続いてきた生命の流れとしての永続性に、
生命の神秘と、生命として存在することから生じる力強いエネルギーを、改めて感じ、
いま、その永続性につながる流れの中にひとりの人間として在ることに対して、
不思議な敬虔な気持ちと、感謝と歓びが湧いてきますね。
Posted by 生命の永続性* at 2016年12月31日 01:04
>さて、話は急に日常的になりますが、日常の中でも、あるとき急にその言葉の意味が心を貫くことがあります。

>言葉というのは、何かのタイミングで急にその意味が深まることがあります。

このタイミングとかって、意味わかんないですよね?

>すでに何度も聞いたことがある言葉だったけれど、僕は礼儀上、
>「ああ、そうだったんですね」
>と応えました。

これで終わったままでも、何の不思議も、ないですもんね?

ノコノコ1upは、クリエイターの『意図的』だそうです。
ストリートファイターⅡのキャンセル技は、実は元々『バグ』だったそうです。

『キャラクター』は、元々『意図』だったのか、『バグ』だったのかなんて知らず、
どっちにしても、なんか知らないけど『気付いて』理解を深めたり、活用している、て事ですよね?

『気付く』ためには、

>何事も分かったつもりにならずに、謙虚な気持ちで生きていきたいものですね。

これが大切である事だけは、間違いなさそうですね。
Posted by ただの「自分」 at 2016年12月31日 01:07
いろんな方向から物事をみるのなかなか難しく、思い込み強いと更に難しい。
 今の世の中、ストレスが非常に多く心が病んでしまう。どうしたらストレスが▪なんて考えてたけど、
今を一生懸命生きてなかったのかも。
私は今、傍を楽にいています。夜勤です。
Posted by 理穂 at 2016年12月31日 01:49
『キャラクター』が『気付く』のではなく、
『気付いた結果』が『キャラクターとして現れる』

と浮かんできた事だけコメントさせて頂きます。
『スクリーン』に『映されているだけ』、と同じですね。

この認識が進んでいけば、『プレイヤーなんて居ない』ともなるんですかね?
Posted by ただの「自分」 at 2016年12月31日 01:52
阿部さん今年もお疲れ様でした
こんなに長い間、たくさんの観点から気づきを分けるのは本当に凄いことです
たまに過去記事なんか、読んでみると、当時は気づいてなかったことが指摘してあったりして、なるほどなあと感心します
いまここは、まあ、耳タコになりましたがw
いまここに生まれるという言葉はいいですねえ
いろんな気づきが今年もありました
来年もお元気で活躍されることをお祈りいたします
ありがとうございました!
Posted by ダメマ at 2016年12月31日 04:56
精神解放

あらためて精神統一することはできない





この意味についてのべる

あらためて精神統一することができないというのは

自我が(つまり自我にとって)あらためて精神統一することができない

という意味ではない

自我(というもの自体)が精神統一できないのである

くり返すが

自我が(つまり自我にとって)あらためて精神統一することができない

のではないのだ

自我は身体やあるいは何かの考えを支え(すなわち主体)にしようとするが

それはたよりにならない

考え(心)を支えにするのは身体を支えにするよりもたよりにならない(ブッダはそういった)

身体を支えにするほうがまだましという

しかし身体を支えにするのもどうせたよりにはならない

そのようなものは主体を演ずるにすぎない

私は身体だ

ではスピリチュアルな人は満足できない

だから

「私は意識である」

とか

「私はスピリットである」

とか

スピリチュアルな人は

観念を支え(無意識のうちに主体)として生きる

しかし

ここにおける

「意識」とか
「スピリット」は主体に
ならないのは明らかである。

ではいったい何がたよりになるのか

私だ

この私が癖もので

私を

「私」

とみていない

※私は精神統一されていると思いこんでいるのである

私は精神統一されていない
不完全である

そのとき

精神解放の気づきがおこる

閉塞感はきえさるのである
Posted by なう at 2016年12月31日 08:11
今朝

夢をみた

それは恐れをともなった夢であった

ある人間がわたしを鋭利な刃物でわたしをなんども

切りつけてくる

なんどもなんども

わたしはなんどもなんどもカワシ

あたかも不死身だった

(あたかも夢のなかの身体がカワシているように感じた)

そして

ついに狂気な敵の身体を切り
とどめの一撃を胸につきさし

たたかいはおわった

次に(このときほぼ朝の意識に移行してたが、)

セナ(アイルトンセナ:亡きF1レーサー)が

事故で担がれている写真を思いだした



である

そして朝の意識がはっきりした


さて
私はこの夢を嫌な夢だとしばらくは思っていた

意識の在るがままに寝たはずなのになんでこんな夢をみるのかと
思っていた

しかし

夢は敵ではなかった

夢はアドバイスだったのである

真我からの


そして私が戦っていたのは
真我だったのだ

真我は私をなんども黙々と切りつけてきた

私は夢のなかでは身体でよけてるつもりだったが

じつは私がよけていたのである

【私】がよけていたのである

この気づきが目覚めたあとおとずれたとき

精神解放の気づきがおきた

安心したのである

夢はおそろしい夢ではなかったのである

助けだったのである

【私】がそれをおそろしがっていただけである

おそろしがっていた【私】は夢のなかでは
敵を切り滅ぼし、胸(ハート)にとどめを刺したつもりだったが

以上 今朝の夢でした

今朝は体外離脱からもどるプロセスの夢ではなく、このような夢でありました。いずれにしろありがたいお知らせです。

つまり

「私は、在るがままの意識だ」

という思考

そして
【私】を打ち破る ために夢があらわれてくれていたのです

それは真我からの夢だったのです
Posted by なう at 2016年12月31日 08:56
傍を楽にするって、阿部さんの感じたことを書いてくれているところで、感覚的に伝わりました。
なんだか感謝の範囲が広がりました。

阿部さんのおかげで、私も楽を貰いました。
特別な体験がなくても、阿部さんの言葉をひとつひとつ確かめて、あるとき感覚に落ちて、それを繰り返したら、
コントロールしている人がいないこと、わかりました。
なので、起きていることが、小さなことでも新鮮です。
だから、悟りが起きたら、もっと感動なんだろうな。
でも、前はもっと悟りにたどり着こうとしていたけど、
今は、それが起きれば起きるって、おまかせして、リラックスできます。

いつもメッセージの発信、ありがとうございます!
Posted by とらねこ at 2016年12月31日 09:18
ほんと、お陰様に生かされてる。
タントラのタペストリーですね。

阿部さん、新年おめでとうございます。
Posted by hirokOM at 2017年01月01日 20:17
偶然クリックした場所がこの記事だった(笑)だけ。
勉強になりました。
Posted by ふ at 2017年03月23日 11:15
あれ?
ここのコメント欄に去年の自分がいる。
その自分のコメント見て、なんか、理解が深まりそう(笑)

かも?(笑)
Posted by ふ at 2017年03月25日 09:07
阿部さんのこの記事で感じた事。
以下文

【この車両も、この技術も、いろんな人が働いて作ってくれたのか。

それで僕はこんなに楽になっている。

傍を楽にする・・・か・・・・」



そしたら、


「この世の全ては、お互いがお互いを楽にしあいながら成り立っているんだなァ

お蔭さまなんだなァ

生きられるってことは、なんて有難いことなんだ」


って、心の底から感謝が湧きだしてきて】



ずーーと昔、姉の影響でマクロビに興味を持った。
環境に対して敏感になり、洗剤とかこだわって、
食べ物もこだわった時がある。
確かに、意識はクリアになるし、身体も軽くなる。

でも、パートナーの家族はなんのこだわりもなく、
普通の洗剤を使い、普通の調味料を使い、環境とか、
意識が高い低いとか、全くない人達だった。
私は、その人達を上から目線で、見下してた。
だから、パートナーの家族とは相容れないものがあった。

今だから言えるけど、彼らの方が遙かに愛情深かった。

こだわりの強い私のほうが冷たい人間だった。

それに、気づいてから、普通の洗剤、調味料、白砂糖

をこだわりなく使用出来るようになった。

だって、これを作る為に働いて生きてる人も存在してるから。

ジャンクフードもカップラーメンも、元々は人を幸せにしたい、楽しませたい思いで作ってる人がいるはずと私は
考える。

なので、今はこだわりなく何でも頂いてます。

色んな人に繋がってるのがわかるから。

身体良くなさそうなものも、作ってる人が存在してるし。

それを駄目と思ったら、作ってくれる人を拒否してる事に
なりはしないかと。

多分、この考えは間違ってるのは知ってる。

阿部さんが肉食しないのも理解する。

私の地域は養豚が盛んです。

それで、地域が活性化してます。

でも、それが正しいのか正しくないかは分からない。
豚さんがとさつされる瞬間の悲しみも恐怖も感じる、
感じるからこそ、私は頂いてます。
申し訳ないゴメンねって・・・。
でも、いつの日にか、フルタリアンにはなりたいと思う(笑)
Posted by ふ at 2017年04月16日 08:50
>もし図形で表すとしたらキリスト教の十字架が一番近いけれど、それでもまだ十分じゃない。

水からの伝言の、、文字を水に転写させると結晶が変化するってやつで、たしか、
ごめんなさい
許して下さい。
ありがとう
愛してます
って四つの言葉を水に読ませると
結晶と言うより、
十字架の細長い番がずーーーと連なってく感じの結晶になったの。

もし水に、目覚め、悟り、一瞥、見性、いまここ、かんながら、天河神社って読ませたら
水の結晶はどんな風に変化するんだろう。
結晶が出来るときって、人間の意識も反映されてるのかな?
それを転写させようとしてるひとの意識や思想とか?
って何気に思った。
阿部さんは奥に奥に深いね。
おんなじ普通の当たり前を生きてる私と同じを生きてる当たり前の人だけど、
洞察が深い。
わたしが、勝手にこしらえたストーリー読んでくれてありがとう。
Posted by ガス燈 at 2018年08月12日 02:36
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