2016年12月06日

愛の中にいる

今日もよろしくお願いします。

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なかなか言葉にしにくいけれど、このことも大切ことなので書いておきます。


あなたは「神」と聞くと、どんな存在を想像しますか。

神については、宇宙的な愛とか、無尽蔵なエネルギーとか言うように、特定の人格神を描くよりは、サムシンググレイトというような、普遍的な知性のようなものを想像する人が多いと思います。


僕も基本的には同じような感覚で神を想いますが、その一方で人格神というか、独立した意志を持った具体的な存在という感じがするときもあります。



そしてその神は、同時にありとあらゆることを見通していて、いまあなたの髪の毛が何本かということまで知っている。

世界の片隅にひっそりと暮らす者に対しても、誰に対しても一切の差別なく、エコヒイキもなく、同じように愛し見守っています。


神はあなたを、あなたが想像するよりはるかに深い愛で、いまもあなたを愛しています。


いまも。



神とは何かは知りませんが、そんなふうにあなたを愛している存在があり、その愛に比べたら、人間が語る愛は塵のようなもの。

そのことがわかれば、この世には誰ひとり落ちこぼれもいないし、無駄な人もいないことがわかります。


愛の中にいる


こうして生きて在ることが、即ち祝福だということをみんなで気づけば、この世は一気に変わることでしょう。


動物的な防衛心と利己心がいまの世界を作っていますが、一人一人が、本当の神の愛を実感する日が来ればと願っています。



「アナタは神をシンジマスカー?」


結局はここにきますね(笑)






何かを感じてくれたらクリックしてください。

愛の中にいる



・・・・・・・・・・・・・



阿雲の呼吸は、この8年間に多くの講演を重ねてきました。

阿雲スペシャルは、個々の講演のあとに対談するスタイルです。

12月18日

「阿雲スペシャル part2」

詳細とお申し込みはコチラから



Posted by Toshiro Abe at 12:03│Comments(81)
この記事へのコメント
神様は
あほあほーって
シンジマース

わたしへの愛し方
ちょーおかしぃしっ
こら〜〜〜〜!!!

愛されてるってわたしがわかる方法で
やってっっっぇぇええぇ!
ヽ(`Д´#)ノムキー!
Posted by あべさーん at 2016年12月06日 12:13
神様、信じますよー。まるで知ってる人のように大好きです。
Posted by 高橋 at 2016年12月06日 12:25
神とは何でしょうか?

神とは

宇宙全体を満たしている愛の光です。


仏とは何でしょうか?

仏とは

宇宙全体を満たしている愛の光です。


私とは何でしょうか?

私とは

宇宙全体を満たしている愛の光です。


いまハートに集中し

いまハートを輝かせ

いまハートから宇宙全体に愛の光を広げるほど

いま宇宙全体を満たしている愛の光である神・仏・私を

いま感じることができます。


すべてはひとつです。

(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)(*´▽`*)
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2016年12月06日 12:30
ブログに魅了されて、6年前、初めて講演会に足を運びました。

その、わたしにとっての初めての講演会で阿部さんが、自分の髪をつまみながら「神は、あなたの髪の毛が何本あるかということまで知っている」とお話されて、すごく感動したんです。なんだか世界がガラリと変わって見えるくらいに。

・・・さて。はたして神には人格があるのか、無いのか。
あれからときおり、ふと考えます。
でも日常のなかで「偶然の一言では済まされないような偶然」に出逢ったとき、自分の背後に愛や意思をもった温かい神を感じたりもします。

ああ、きょうも神さまに愛されている~♪
そんなふうに思いながら過ごせたら、毎日がハッピーですよね。とても。
Posted by 博多っこ at 2016年12月06日 12:31
昨日、父がひと月前に亡くなった事を知って

今日、この記事を読んで

救われる想いです。

ありがとうございます。
Posted by みーた at 2016年12月06日 12:51
阿部さん。こんにちは。今日の記事ブラボー!信じます、信じます。神様を。
阿部さんのおかげで、深い神の愛を知りました。何度でも読みたいです。
更新ありがとうございます。
Posted by 永井新吾 at 2016年12月06日 14:00
太陽の下で、空気をいっぱい吸って、すたすたと散歩できるこのシアワセ。
安全な食べ物があり、水があり、ありとあらゆるものが互いに作用し合っているこの不思議な世界。
おもしろい世界だねぇ、つくづくそう思います。
Posted by 散歩屋 at 2016年12月06日 14:26
こんにちは!
いつもお世話になっております(^^)
神様… あまり馴染みがないですが
意思をもったそのような存在があったらおもしろそうですが結局のところ何もないような気がします(^-^;
愛という言葉も馴染みがないのでどんな感覚なんでしょうか? きっと何度も感じているんでしょうけど(^^)
Posted by まえちゃん at 2016年12月06日 15:18
ワタシが愛です♡ヾ(*´∀`*)ノキャッキャ
Posted by ミッシー at 2016年12月06日 15:57
そのままでいい、それでいい、 っていうのは 本当に あたたかい (><)

我が子を思う 無条件の愛にも 似ているなと思います

人間の場合はいろんなフィルターが入ってしまうこともあるので、複雑かもしれないけど、子を思う気持ちの中には無条件の愛も どこかにあるような気がします。。
Posted by 薄茶色 at 2016年12月06日 16:02
神も天使も龍も
悩みも不安も問題も
前世も後世も魂も心も


全て

あると思えばある
ないと思えばない


しかし

あるを突き詰めたり、
ないを突き詰めたりしても、
どちらも最終的にはオカルト的になる。


だから

あると思えばある
ないと思えばない
Posted by サムシンググレート at 2016年12月06日 16:17
想念が現実化しているというわけですから
存在しているものというのは全て創造物

創造主は創造物ではないので
創造主だけは存在ではない…

実は、創造主っていないんです

自分が存在していることも含めて
存在しているものは全て現れては消えて行く幻

存在ではないものだけは…無だけは…不生不滅



まじめな人は
30年も座禅すれば自分だって無我の境地を体験できるのでは
と思うかも知れませんよね

しかしながら…僕に言わせてもらえば

毎晩毎晩の熟睡中には自我の自分は完全に消滅して
無そのもの…ブッダそのものになっているよ

ということであります


アナタは僕をシンジマスカ?

(^_-)


愛☆愛☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2016年12月06日 16:41
まばたきを意識し続けてると
阿部さんと似たように
カミの意志を感じる。
体の内側、足とかから温かくなる!

瞑想ももちろん!
ってかおれらは神を超えた存在なんじゃない!?(笑)

小林せいかんが神を使いこなす的なこと言ってたけど。
神を使う位でいいのかなW
Posted by まばたき at 2016年12月06日 17:20
あべさーんさんは楽しそうでいいですね

見習いたいです
Posted by rakuni... at 2016年12月06日 18:20
この世を作ったはの、人間ではない、と人間は思っているので、
大概の人は、この世の創造者という意味での"神"のイメージを、
漠然とであっても持っているのではないでしょうか?
一神教の神は、そのイメージの象徴でしょう。

また一方で、古代の日本のように、万物に霊が宿るとして、
八百万の神というようなイメージを持つ人々もいます。

いずれにしろ、どちらも、この世は神により創造された、と考えている点では一致しています。

人間は、その時代により、必要により、"神"をイメージし、創造してきました。

時には、そのイメージに名前をつけたり、人間に似た姿を与えることもありました。

"神"は、そのように、人間によってイメージ化され、存在感を与えられたのです。

しかし、そのような"神"は、人間の創造によるイメージなので、
そのイメージは、常に、変化します。

こうして、人間により造り出された"神"のイメージは、
人間の長い歴史の中で、次々と変化してきました。

そして、個人は、自分の必要に応じて、
そのイメージの中から一番自分に都合が良いイメージを選択して、それを"神"だと思っています。

そういうことが、起きているので、
人それぞれに、何を"神"と思うかは、マチマチなのです。

"神"を"愛"だと思う人もいれば、人間を罰する"神"をイメージする人もいます。

"神"という概念は、人間が造り出したイメージなので、
イメージの世界では、何であれ、OKなのです。

愛に最高の価値を置いている人は、神は愛をもたらしてくれると考え、
お金や幸運に価値を置いている人は、神は財宝や幸運をもたらしてくれると考えます。
それで、一生懸命に、神に祈り、奉納したりします。
 
その人の価値観、時代の価値観、地域の価値観が、
人間を越えた最高の存在を想定し、
それにある種のイメージを投影しているのです。

現代は、"愛"が、創造神のイメージに投影されているという傾向が強いように感じます。

それは、見方によっては、イエス・キリストによって初めてもたらされた"愛"という概念が、
現代人の心が、一番求めているものだからなのかもしれません。

愛の神、というイメージは、現代人には、一番受け入れやすいのかもしれません。

しかし、それでさえ、人間が造り出したイメージとしての"神"なので、
この世という有限の世界の中での存在であり、
人間の意識の変化により変化するため、永遠の存在ではない、と言えるのです。
Posted by 神とイメージ***** at 2016年12月06日 18:52
神と聞けば、つい太陽をイメージしてしまいます(太陽を守護神と思ってるようです)。

話飛びますが、天候を操るなんて全くの偶然だろうと思ってましたが、簡単にできる人が居るみたいです(小汗)
https://the-mystery.org/strange_experience/tenkou_wo_ayatsuru_chikara/
僕も経験有るのですが、おそらく自覚がないだけで誰にも有るのかも知れなくて、単に偶然として片づけているだけなのかもで!?

で、この気象操作の原理的なことを考えると、色々と際限なく湧いてきて、一つに絞れなくて断念せざるを得ない次第です。
ただ言えるのは、この世を創造している全体意識(言わば気)の中の一部分(気象意識)とこちらの「意識(気)」が合ったのではないかなと。
これがいわゆる、霊感が働いたということに成るんでしょうか。
これを幽霊に例えると、得体の知れない何かを感じて悪寒に震えるのは、マイナスエネルギーとその人が気(波長)が合ったので感じてしまった(つまり脳がマイナス波動を感覚化して見せてくれた)と言えるのかも知れません。
そしてまた、気象意識(言わば気)との共鳴によって、気象操作が出来たと言えるんでしょうか(笑)

して、これからが本題なのですが、うざいと思ってる人は勿論スルー願います(^^
とにかく何でも多角的に捉えると面白くなるのかも知れません。
思うに、目覚め自体は普遍的なものかも知れませんが、その時にその人に起こった事象は、他人には起こってないので個人的なものでしょう。
ならばそれは先程も述べたように、目覚めとは普遍的な覚醒意識の波長に対し、その人の波長が合って生じた個人的恩寵と言えなくもないかなと。

悟りの系の話ではよく、説法で悟ったのはそこまでその人が熟してたからだと云わます。
これはまさにその人の周波数がそこまで上がっていて、それにより覚醒の波長と共鳴したのかも!?
ならばです、昨日も駄弁らせて頂いたのですが、阿部さんが言われるように実は我々の体は元々光っているのだとすれば、全ては一つなるモノでワンネスなら、では全てのモノが光っているのかも知れなくて。
だからもし我々が自分の体が光ってるのを見て取れたなら、やがて全ての中にある光りの波長と共鳴し、そしてそこに生じた感覚がつまりワンネス(これも霊感?)と、このように言えるかもと。

ゆえにですね、自分の体を光として知覚できたなら、それはこの世の全ての光と共鳴することでもあり、これは目覚めへの別角度でもあるかと、そしてまた、僕が気象操作できたのは、その時にもしかして太陽をイメージしていたからではないかなと、この様に妄想に耽っている始末なのです(爆妄想)

とにかく面白かったなら幸いですハイ (´з`)ゞ
今後は一身上の都合により、出来るだけ短コメに切り替えたいと思います プッε=ΣΘ)へ
Posted by It's a SONY ♪ at 2016年12月06日 19:09
よく分かります。

ありがとうございます。

涙が出て来そうです。

願わくば、現れることが避けられないのなら、

この鳥のように、大空に、いつも舞っていたい。
Posted by y-be at 2016年12月06日 19:23
今日はお酒を飲むと面倒な父に対してイライラして、そんなことでトゲトゲしている自分自身に何か疲れていました。
父のことは好きなんですが、自分勝手すぎていつも不愉快な気分になってしまいます。
家族って面倒です。
そんな父のことも私のことも神様は見ていてくれるなんて優しくて、ほっとしました:)
Posted by いつもありがとうございます:) at 2016年12月06日 19:28
みーたさん、おつらいでしょうけど、頑張って乗り越えてください。                  陰ながら応援してます。
Posted by  理穂 at 2016年12月06日 19:42
ありがとうございます。

一歩ずつ一歩ずつ...。


生きていられる事に感謝✨。
Posted by なお at 2016年12月06日 19:54
いつもありがとうございます。
わたしは信じます。
今日も善き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2016年12月06日 22:00
>「アナタは神をシンジマスカー?」

”神”を信じる、信じない、は、人間側の選択であり、それは個人の自由なので、
”神”が存在する、と信じる人には、”神”が存在する世界が展開します。

それは、幽霊やUFOや宇宙人が存在する、と信じる人に、そのような存在が存在する世界が展開するのと同じ理屈です。

同じく、どんな”神”もいない、とする人には、やはり、”神”がいない世界が展開します。

その人の世界では、その個人が創造主なので、”神”に関しても、選択の自由があるのです。

しかし、どんなに無神論であろうとも、創造主としての”神”を否定しても、物質的な存在を夢、幻と見破っても、
それでも、完全に何も無い”無”というわけではなく、在るモノは在ります。
(完全なる”無”を主張する人は、実在に支えられているからこそ、”わたし”が存在している、という事実を無視しています)

創造はない、としても、”在る”を否定しても、在るモノは在るのです。

ただ〝ひとつ〟が在り、それを”神”とみなすことは可能です。

私たちの外側の外観である肉体がはがれ落ちた後にも、この”ただひとつ”は在り続けます。

それが、私たちの本性であり、本質と言えます。

そういう意味では、私たちは、本質的には、”ただひとつ”である”神”と言えるのです。
Posted by 実在としての神***** at 2016年12月06日 22:22
あべさん

いまここにあるものがすべてやと
ただこれだけやと

なんにも なんにも
わたしのものやないし
やりたいことやってだいじょうぶやし
みんなだいじょうぶやし
なんにももっていけんし

そうしてまた
いのるようなきもちで

”もともと おちこぼれやき なんちゃぁやない
しかめつらしても これいじょうでてこん
ありのまま これがすべて
いまできることに こころこめるだけ”

と そんな さいきんでした。

おちこぼれであることをゆるしたり ゆるせなかったり
そのどっちも ”神さま”の愛の中で
おちこぼれのないことを
かんじました。


メッセージ ありがとうございます。


どっちも わるくないけど
かみさま
あしたも できれば できるだけ やさしく ありたいです。



おやすみなさい。 ⋆。˚✩
Posted by めい at 2016年12月06日 22:40
> 人間が語る愛は塵のようなもの。

神様はサイコパスかもしれないね

こんな皮肉も言いたくなるさ。。
Posted by rakuni... at 2016年12月06日 23:12
熟睡中は自我の自分は消えているので
完全な無を主張する人なんていませんよ

(-_-)zzz


無☆無☆


おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2016年12月07日 01:13
神って何なんだろう?
星の動きでいろんなドタバタが起こるようなシステム。どうやって運行しているんだろう?

エネルギーですかね、神って?

私たちが死ぬと、神(エネルギー)が抜けてゆく。いや単にエネルギーが去って行くだけかな。

自分はもういない。電気製品としての自分はいない。電気が流れてもオモチャは動かない。

エネルギーは無尽蔵にあっても 動かない。
Posted by ひよどり at 2016年12月07日 01:56
もしも、『この思考』、『この感情』、『この感覚』、そして『この体』を構成する『この細胞』
という、『この自分たち』が、

>神とは何かは知りませんが、そんなふうにあなたを愛している存在があり、その愛に比べたら、人間が語る愛は塵のようなもの。

こんなような事を言ってきたら、「そんな事ないよ」と思いますね。

勿論、当然、そんなものとは、『神』の愛は、比べ物にならないんでしょうけど・・・
と思ったら、きっと『神』も、

>勿論、当然、そんなものとは、『神』の愛は、比べ物にならないんでしょうけど・・・

に対して、「そんな事ないよ」みたいに、受け止めてくれてるんだろうな・・・

と、思い込んでます(笑)

きっと、上に引用した、阿部さんの言葉に対しても、「そんな事ないよ」と思われてますよね。
Posted by ただの「自分」 at 2016年12月07日 03:30
阿部さん、

阿部さんのブログが好きです(^∇^)
いつもありがとうございます( ´ ▽ ` )ノ
Posted by 星 at 2016年12月07日 05:14
寝るというのは、ひとつの体験です。
食べたり、お茶を飲んだり、歩いたりするのと同じです。
意識がなくなる、という体験とも言えます。

それは、個人に起きています。
ですから、睡眠は、体験する個人はいない、という体験ではありません。

通常、睡眠から目覚めても、"わたし"はいない、という理解に結び付くことはありません。
それは、単に、睡眠という個人の体験で、
自分はいない、と理解する自分がいない、ということが起きたわけではないからです。
それ故、睡眠の後に、ただひとつだけがある、という理解は起こりません。

意識がなくなる睡眠では、人間の無知が取り払われることはありません。

仏陀が伝えた叡智は、睡眠では得られない、ということは明白です。
Posted by 無知と叡智***** at 2016年12月07日 08:50
私が思い描いた神は「無償の愛の提供者」。
会えなくて 会いたいけど 見つけたから もう忘れない。
君が僕の憧れ。 やっと見つけた 絶対の形。
会えないけど 描ける君の輪郭を 私は「神」と呼んでいる。
Posted by まるまる at 2016年12月07日 09:17
「アナタは神をシンジマスカー?」


信じます!

けど、信じられないことが起きると、途端に信じられなくなるかも。笑

それなのに、根気強く表れてくれていると思うので、

いや、いつでもそばに居るのでしょうね。(^_^)



「こうして生きて在ることが、即ち祝福だということ」


こんな感覚をもって、愛する人と抱き合えたら、どんなに素晴らしいだろうと思います!



「神」の存在を感じるには、瞑想が大切だと、今回思いました。(^_^)
Posted by ようこ at 2016年12月07日 11:08
暖かく大きく包まれた感じの安心感❤️
優しい気持ちになりました❤️
ありがとうございます
Posted by hero at 2016年12月07日 11:33
この世が一気に変わることを信じています。
Posted by けいここ at 2016年12月07日 11:59
自分と唯一の存在である"それ"とは違うと思っているのは、エゴだけなのですが、
"わたし"という自我意識は、個人の存在感と結び付いた強固なものなので、
これが限りなく大人しくならないと、人間は、自分が"それ"である、とは思えないのです。

自分と"それ"とを隔てているのは、エゴである"わたし"という意識だけなのです。

エゴという壁が何かのきっかけで取り去られれば、
自分が"それ"である、という理解が、直ちにやって来ることでしょう。
Posted by わたしと神***** at 2016年12月07日 12:03
*****さんは甲賀忍者さんの書き込みに対して話してるんですか?

>熟睡中には自我の自分は完全に消滅して 無そのもの…ブッダそのものになっているよ
という彼の書き込みは「睡眠が無の体験」と言っているのではなくて「無が無である(その状態そのもの)」と、
睡眠から起きてから「気づいた」って話だとしか 私には読めなくて。
それが「ただ一つだけがある」気づき(理解)であるという可能性は否定できない。

また、*****さんは「意識が無くなる睡眠では 無知が取り払われる事がない」と言いながら 
結論では「それ故、睡眠の後に、ただひとつだけがある、という理解(気づき)は起こりません」と 違う「時間帯」の話をしている。
理由には「寝てる間」の話を使い 結論には「睡眠後」の話を使ってる。
論点が「同じ場所 同じ時間」ではないという混乱において、この理屈は成り立たず、何らかの証明になってない。
ブッダの智慧(縁起)を言うならば、睡眠中は「無我」なので 「我」の縁は「睡眠前」から「睡眠後(起)」に繋がる。

私には、睡眠前から目覚めるまでのこの「空っぽの空間」に対して、甲賀忍者さんがそれを「見極めた可能性」を否定できない。
Posted by まるまる at 2016年12月07日 17:08
まるまるさん、スルーされずに書かれていることに 打たれました。

*****さんは、自覚のあるなしを問われていると思いますよ。

睡眠中は無自覚、ですが 覚醒は自覚されます。

そこを あやふやにしたくないと、思われているのでしょう
(違ったらごめんねw)*****さん。

睡眠前後の想像と論理づけは、各自の自由ですが、

「自覚ある実在の感覚」とは 言えないと私も思っているのです。

不思議なことにみなさんは「無」を感じることは不可能と思うかもしれません。

何も無いないなら そこに意識もないだろう・・・って思うのでしょうが、

「無」として表現するしかないから、「無」として書き表しますが、

「無」を説く人には 自覚があるのです。自覚っていうのは 我はそれなりです。

だから言葉として その状態が書かれてきました。

私も あやふやには したくないなぁ~(笑)
Posted by AQU@ at 2016年12月07日 20:31
まるまる さん

睡眠中、脳の働きがその部分だけ休んでいることにより生じている自我意識は無い、という状態を、
無我と言えるのか?ということを書きたかっただけで、
いつもと同じく、一読者の意見として書きました。

確かに、睡眠中は、わたしという意識は消えていますが、それは、仏陀の言うところの無我の状態でしょうか?

私は、そう考えたので、そう書きました。

まるまるさんは、どう思われますか?

睡眠中は、わたしという意識は消えていますが、
起きても、自己の本性については無知のままです。

この無知が取り払われることを、言葉にするなら、
"悟り"ということだと思っています。

毎晩、睡眠から覚めたあと、人の意識は、寝る前とほとんど同じです。
その上、睡眠中、無いのは、"わたし"という意識だけであって、
身体も脳もちゃんと存在して、働いています。

まるまるさんが、コメントで何を言いたいのか?よくわかりませんが、
名指しでコメントを受けたので、お返事しました。

お話の的を外しているようでしたら、ご容赦願います。
Posted by ***** at 2016年12月07日 21:03
まるまる さん

>私は、そう考えたので、そう書きました。

ごめんなさい。
紛らわしい文章でしたね。

睡眠と無我は違う、と書きたかったのです。


AQU さん

AQUさんの書かれたこと、その通りです^^

”自覚”と書くと、自分はいないのだから、自覚はないはずだと、反論がありそうですが。。。(笑)
(まぁ、反論あっても、気にしませんが。。)

AQUさんなら、私がコメントで何が言いたいのか?おわかりでしょう。
(飛び飛びではありますが、AQUさんとは、長いお付き合い?ですので、笑)

わかって下さる方もいる、と知っただけでも、何だか、とても嬉しいです^^

これは、理屈を組み立てて、論じ合うことは不可能です。
(自我は、自分の体験の範囲でしか、理論を組み立てられません
 それが、自我の限界です。自分が体験したことがないことは、ほとんど否定します)

でも、まあ、どーでもいいです。

個人は、開放を求めています。

そんな個人はいない、と言われそうですが・・・(笑)

真の開放は、自分の本性を知ることでしか起こりません。

毎晩寝ても、起きた時に、開放が起きないのは、
睡眠は、目覚めとは、全く関係がないからです。

言いたかったことは、それだけなのです。

サポート?コメント、ありがとうございました^^
Posted by ***** at 2016年12月08日 00:00
存在の根底は「愛」か「無」か

前者とするのが*****さん、阿部さん、

後者とするのがAQU@さん

人それぞれ
Posted by rakuni... at 2016年12月08日 00:46
甲賀忍者さんは、

以前、私が安倍さんの記事に触発されて、投稿しました、

>>すべてが起こっていること自体が既に「悟り」の象徴で、証拠であり、

起こっていない、現れていないことも、無いと観えることも含めまして、

すべてが起こるのが、在るのが、無いのが、「悟り」そのものだと、今に至っては、思えます。<<

この捉え方を理解していただきました。

で、私の理解(遊び)の仕方は、

そして、“捉え方”をするのは、人としましての意識構造、この、組織体でしょうから、

★睡眠中の人意識での、自覚の起こっていない「無自覚」を、「悟り」そのもの(完璧)とし、もちろん、起きている時の人意識で、そう捉え、、

★起きている時は・・人意識が起きている時は、そのもの「悟り」を・・「認識」する、「捉え方」するということが、人意識で起こっていると言うことの違いでしょうか?

AQUさん、仰っていることと、≒ 似ているかもしれませんね。

でも、※※※※※さんの、言わんとされていることも、分かりますし、そうだと、思えましたし、

まるまるさんの分析も分かり、そうだと、思え、

総じては、何が起こっても、みんな、ありのままだと、認識していますので、

そのように、寝ているときではなく、起きているときの意識のフォーカスの仕方、バージョンでは、思えます。

我ながら・・ややっこしい~(>_<)

やっぱり・・・遊びですね。

遊びの機会をいただき、ありがとうございます。♡
 
Posted by y-be+ at 2016年12月08日 03:00
rakuni...さん

>人それぞれ

私には、まったく同じことを言ってるとしか読めてません

1枚の紙の表面には"愛"と書かれていれて、裏面は真っ白(=無)な紙

何が書かれていようがいまいが、所詮は1枚の紙です(笑)
Posted by 模察模察 at 2016年12月08日 10:42
アクアさん。
>「無」を説く人には 自覚があるのです。自覚っていうのは 我はそれなりです。

何故それを「無」と表現しているか?について、少なくとも「それ」が「無の特徴を満たしている」必要があります。
すなわち「無」が無の特徴を満たす事を定義としなければ「無」の発見の共有は不可能である と思います。
「無色 無味 無臭 無限 無意味 無自覚・・・等々」の特徴があるから「無」と表現されているのであって、
「それ」に匂いがあるならば「無」を探せというメソッドとして成り立たない。
「それ」に自覚があるならば「それ」は「無」と表現してはならない のが「決まり(法)」だと思います。
簡潔にいえば「無が無自覚」という大前提は「この問い(釈迦の悟り)を解くにあたっての共通のルール」です。
この事について アクアさんがわからないならば アクアさんのブログで理解を得るまで説明できる準備がこちらにはありますが、
この一言で アクアさんが 理解してくれる事が 私の理想です。

※サマディ(覚醒?瞑想)と涅槃(無が無である)は「所在地」が違います。
この「所在地」の違いをアクアさんが理解しているなら 今日の私の言い分は届くと思う。

*****さん。
まずこの見解は「甲賀忍者さん宛ての反論ですか?」という質問が一行目。
これが「そうである」場合においての話として。
甲賀忍者さんのコメントが「全てが一つという気づき」を「表わせているか いないか?」。
に対して***さんが「明白に違います」と書いていた事に対して 私は「その可能性を否定できない(明白ではない)」と書いた。
私の話は「***さんの否定理論は体を為してないから、それは言い切れないね」であって「真理がどうの」という話はしてないという事。
私は「甲賀忍者さんの今日のコメントから、理論を使って論破に至る事は不可能です」と言ったまでで。
あなたの体験云々の話をしたわけでも 理解のほどの話をしたわけでもなく 理論の組み立ての不備を指摘しただけ。です。

y-be+さん
少なくとも「○○のコメント」が「悟りの定義の議論ではない」という事は わかっていただきましたでしょうか?
「サマディにおいて救われること」と「釈迦の悟りは涅槃への到達がデフォルトです」という事は全く話で。
これが、先日 y-be+さんが私に言った「この話に傷つく可能性」の事です。
「救われたい」という願望と「知りたい」という願望は 違ってて、私はシェアの無い方の話をしてる。
例えば y-be+さんが 私の話に興味を持つ部分は「知りたい」という知的欲望の方で 
ビビる人も居るんじゃない?は「救われたい」という層の方の感覚なんだと 思います。
この違いを認める事は大切であって、サマディが悟りでなければならないという囚われは いらないと思います。
「悟らなくてもいい」という意見を 私は了解してるので。
で これを前提に「でも悟ってないって わかっちゃったんですけど どうしたらいいんですか 私・・」
というまるまると同じ様な状況下に成ってしまった人が「万が一」いるならば「わかる方法がある」と提示しておきたい。
これが私の意図と意志の大体の所です。
説明が体を為してないという指摘は「校閲的な事」で思想の対立をするつもりではありません。

こんな感じですが よろしいでしょうか?
Posted by まるまる at 2016年12月08日 11:58
模察さん

ありがとうございます。
模察さんのご意見もひとつの見方ですね。
愛か無か、各人のそれぞれの思いがあり
言葉を選んでるのだと思います。
だから両者は違うという見方もあります。

そもそも存在の根底、源とは、何を指すか
場なのか、エネルギーなのか、波動なのか、1枚の神なのか、
各人各様のイメージを持つだろうし、または、
具体的なイメージを持たないかもしれません。
みなのイメージを揃える必要もないと思っています。

私は根拠はないですが、存在の源は愛だと思っています。
その方がロマンチックだという理由で。。
Posted by rakuni... at 2016年12月08日 13:39
まるまるさん
at 2016年12月07日 17:08

校閲の校閲です。

> 結論では「それ故、睡眠の後に、ただひとつだけがある、
> という理解(気づき)は起こりません」と違う「時間帯」の話をしている。
> 理由には「寝てる間」の話を使い 結論には「睡眠後」の話を使ってる。
> 論点が「同じ場所 同じ時間」ではないという混乱において、
> この理屈は成り立たず、何らかの証明になってない。

*****さんはいつも「目覚めは精神的な変化を引き起こすもの」と主張されています。
従って、結果として睡眠後の状態を見るのは妥当

睡眠後の状態が変わっていない=目覚めていない

睡眠の状態がどのようなものか分析した上で、
睡眠後の状態を結果として見るという点に、時間帯が違えど
混乱はなく、理屈は成り立っていると思います。

やっぱり、どーでもいいですね。
Posted by rakuni... at 2016年12月08日 17:03
まるまるさん

校閲の校閲の続きです。

> ブッダの智慧(縁起)を言うならば、睡眠中は「無我」なので

*****さんは、そもそも、睡眠中も「無我」ではない、と言っています。
理由は、睡眠は個人的な体験だからだと。
この点で睡眠が無我ではないという論証が済んでいます。

そして、睡眠中に目覚めを体験したわけでもないから、
睡眠後も状態は変わらないということを補足しているのでしょう。
Posted by rakuni... at 2016年12月08日 17:48
「愛’である、は、スピリチュアルの常套句。

キャッチコピーでしかないですね。

仏道、禅なら、  

無常。

なんもないの表現、「無」。「愛」という、ことすらないのが「無」。

がしっくりくる。
Posted by 日和る at 2016年12月08日 17:59
模察さん

それは、紙に書いたからだよ。

って、言いたくなったからかきました。

なら、表に「屁」、裏に「むっ!」って
書いても同じになる。


連打ですみません。
Posted by 日和る at 2016年12月08日 18:05
y-be+さん
>>少なくとも「○○のコメント」が「悟りの定義の議論ではない」という事は わかっていただきましたでしょうか?

★はい、分かりました。(^_^)

>>「サマディにおいて救われること」と「釈迦の悟りは涅槃への到達がデフォルトです」という事は全く話で。
これが、先日 y-be+さんが私に言った「この話に傷つく可能性」の事です。
「救われたい」という願望と「知りたい」という願望は 違ってて、私はシェアの無い方の話をしてる。

この違いを認める事は大切であって、サマディが悟りでなければならないという囚われは いらないと思います。

★私はどうやら、条件反射的に、この違いを知ってか、知らずかの、投稿や、コメントに、度々反応するという習性を持っているようですね。

まるまるさんの的確な指摘で、よく分かりました。

>>「悟らなくてもいい」という意見を 私は了解してるので。
で これを前提に「でも悟ってないって わかっちゃったんですけど どうしたらいいんですか 私・・」
というまるまると同じ様な状況下に成ってしまった人が「万が一」いるならば「わかる方法がある」と提示しておきたい。
これが私の意図と意志の大体の所です。

★まるまるさんが、お優しい方(覚者)で、良かった。(^_^)

>>簡潔にいえば「無が無自覚」という大前提は「この問い(釈迦の悟り)を解くにあたっての共通のルール」です。

★これ、分かりますね。

“無自覚”という言葉が出ましたので、ついでに・・

だからこそ、人間の感覚や感情にとって、悲しい事や、惨いと思われる事も、起こるし、起こり得る。。

「神」が、「無」が、「愛」が、そして、それを「わたし」とした場合、

わたしが、“無自覚”ゆえに、

どの意識の界隈の世界でも、ネガティヴな体験や、サバイバルが起こり得る。

個や、意識の仕組みが本当はどうであれ、各々感や、体験するということは、確実に、永遠に、起こっているように、私は観えますので、

ですから、私個人の境遇を呪ったり、嘆いているのではなく、

この世界や、様々な意識や、体験の仕組みを、“無自覚”ゆえに、創り出している「神」に・・

感謝ばかりする人たちには、なれないですね。(>_<)

まるまるさん、お伺いしていなかったのに、分かりやすく、ご教授して下さり、感謝いたします。

物事を今までしてたように分割しなくなったり、気にならなくなったり、判断しなくなったり・・・

一種の、「空病」、「悟り病」、または、「覚醒病」とも言えるかも知れません。そういう観点で見れば・・・。

もし、まだ見ていらしたら、

まるまるさんのブログなどは、造られていないのですか?
Posted by y-be at 2016年12月08日 19:11
まるまる さん

再三に渡るご指摘、恐れ入ります。

甲賀忍者さんへのコメントではありません。

睡眠=意識がない=無我=目覚め、と思っている人に対して、
いつも感じている自分の意見を言ったまでです。
(甲賀忍者さんの意識がどうのこうの、という話ではありません。
一般的に考えると、という前提の元での話です。
他の人が、目覚めているかどうか?などは、私には関係ありませんし、興味もありません。
睡眠と覚醒は、全く関係がありません、という話です。
まるまるさんは、同じだとお考えなので、あのように、私のコメントに反応されたのですか?)

AQUさんも書かれていますが(多分、AQUさん、勘違いでしたら、ゴメンナサイ)
何かしらのきっかけで、真理の一端を垣間見る、ということが起きたなら、
睡眠=目覚め、などとは、けっして言わない、と思っています。
(阿部さんも、少し前の記事で、睡眠=目覚めではない、とはっきりと書かれていますね)

自分の体験を鼻にかけているわけではありません。
それが、鼻につく、ということでしたら、私の書き方が下手なのでしょう。
(そんな体験をした”わたし”という個人など、いません。
体験が重要なのではなく、そこから得られる智慧が大切だと思っています)

これ以上は、書きたいことがないので、これでこの件に関しては、止めさせて頂きますね。
(これ以上、コメント欄で、論争しても、咬み合わないと思いますので)

あとは、rakumi...さんが、書かれたことも、良かったら、ご参考にされて下さい。

私が、コメントで言いたかったことを、とても分かり易く解説してくれています^^
(rakumi...さんにとっては、どーでもいいことなのに、ありがとうございました^^)
Posted by ***** at 2016年12月08日 21:04
お礼を頂戴し、ありがとうございます^^
Posted by rakuni... at 2016年12月09日 00:58
いままで一瞥した方々を観察すると、
苦の解放からの感動の大きさを感じる。

当事者はどう捉える。を考えた。

愛を感じた。全てが愛だった!。

その時。感想が、「付け足された」のでは。
「解放」が「愛」だと、人生ですでにすり込まれた記憶を呼び戻した「単語」

では?

と思います。
Posted by 日和る at 2016年12月09日 07:09
『愛」とは、人間的な表現です。
"それ"を表現する言葉(観念〉は、いろいろあります。

自由、静寂、平和、至福、永遠、無限、不変、普遍、無、全体、神、プラーナ、アートマン、ブラフマン。。

これらは、人間が考えうる表現であるだけで、
"それ"は、人間の認識力を越えているので、
どれも、そう言えるけれども、"それ"そのものではありません。

海は海、水は水、空気は空気、人間は人間です。
これらを知らない人に説明しようとすると、
いろいろな言葉(観念)を使って、その人の頭の中のイメージを伝えるしかないでしょう。
海は、広い、青い、。。など。

「 」は、本当は、人間の認識を越えているので、
もしかすると、仏陀は、人間の言葉で表現することをせず、
自分自身で悟りなさい、と言われたのかもしれませんね。

「 」は、直接体験する以外には、本当にはわからない、と判断されたのかもしれません。

海も水も空気も人間も、一度、五感で体験すればわかりますが、
「 」は、五感では感知できないので、簡単にはわかりません。

それで、いろいろなことが言われる、ということが起きるのでしょう。

ですが、海をひとたび体験したなら、海についてのいろいろな表現を聞いても、
どれもがそうであるけれども、「 」そのものではない、と言うことがわかります。
 
言葉(観念)に置き換えると、そういうことが起きてしまうのは、仕方がないのです。

しかし、「 」を体験により知るならば、
それを表現する人間の言葉は、いろいろあっても、
「 」は、「 」であることをを知っているので、
表現のひとつひとつに、それほど拘るということは、生じないのです。
Posted by 「 」について***** at 2016年12月09日 10:43
rakuni... さん
誤「・・デフォルトです」という事は全く話で。
正「・・デフォルトです」という事は全く違う話で。
この脱字を校閲してくれるのも良かったけどな と思ったりして。。

>睡眠の後に、ただひとつだけがある、という理解は起こりません。
>理由は、睡眠は個人的な体験だからだと。

私達の人生の中で「何の後」なら「気づくにふさわしい」という事なんでしょうか?
私は「いつだって気づける」と思ってるけれど、私の主張と他人の主張の話ではなくて。

起床時(=起床後)は 睡眠後 だから「気づけない」タイミングとして「気づきの否定」が可能なんですか?
例えば、遠い昔の体験を「あの時はああだった」って気づきは rakuni...さんに、起きた事ないんですか?とか。
睡眠と呼ばれている時間のそれは、睡眠をしているのではないとか?
想像できるあらゆる可能性が否定できない時、否定はできなくて、可能性の余地が無い時だけに、否定は可能であって。
「どちらが正しいから」「どちらが否定される」というのは違うだろうとも思うけど。
「論証自体がそれ以外の可能性を残している時、論破材料として不完全」って指摘はダメなの?

日和るさん

>それは、紙に書いたからだよ。
これがツボにはまりまして。。。ウケテル・・・
模察さんへのレスについてではなく「単独の言葉として」です。

>愛を感じた。全てが愛だった!。
探求先の「無」は無色(透明)なので 仮の色づけをして探しました。(みんながしてるか わかんないけど)
私の場合「無償の愛」「全知」「善良」等の理想を「無に仮に色づけする事で対象化して」探しました。
「渇愛」が探し当てたい理想は「愛」なので「得たいの知れない全て」を、こう表現する事が「提案として」理想だろうと理解ができます。
なので「全てが愛である」は、全ての人類に対して「信じるに値する価値がある提案」としての納得を私はしています。

y-be さん

>わたしが、“無自覚”ゆえに、どの意識の界隈の世界でも、ネガティヴな体験や、サバイバルが起こり得る。

はい。部分我(個我)=全体我だからこそ「性質」は同じで、観かたが変化しても「特徴」は「変わらない」。
部分我≒全体我ならば、神様は「部分」と圧倒的な違いがあるんだろうけれど。
無自覚の所に 無知を入れると「悲惨な自然災害」が 起き続ける理由が見えてくると思うんですよね。
夢だからいいんだ と思う人が居る事は了解済みとして 夢しか見られないならば 悪夢は避けたい。
わたしは、個我としても全体我としても「平和(理想に思えるもの)を望みたい」けれど「平和を思い描けない(夢見れない)」。
何がどうなれば「理想なのか?」納得する形を「描けない」。無知、無明だから。。
でも「座る」と決めたら「座れる」ってわかったら(縁起の謎が解けたら)「平和になる」って決めたら「平和になれる」。
だから後は「無知ゆえに否定できない可能性があるならば、平和を思い描けるまで 慈悲深く 生産と破壊(輪廻)を続けていけば いいんじゃね?」
ってな感じで、釈迦は涅槃に留まらず(死を選ばず)下山したのかな?と 思ったりしてる。とても独りよがりに。
Posted by まるまる at 2016年12月09日 21:27
まるまるさん

体験すればわかること。。

体験するまではわからない。。

その時になったら全てわかるでしょう。

細かいことは気にしない方が良いと思います。

(未体験者より)
Posted by rakuni... at 2016年12月09日 23:04
まるまるさんは分かってらっしゃる方だと私はお見受けしましたけどね

理由は、全ての可能性を否定されないから。
可能性を残すということは、心が自由だから。

決めつけは不自由なんですよ。
決めつけるから不自由で苦しいんです。

お釈迦様がおしゃったことってそれだけなんですね。
分かっちゃえばとても簡単なことなんだけど、ツボを押さえてるから万事に通じます
最終は解脱。そう自由です。
でも自由だからこそ終わりはないので、また新たな可能性の世界が広がっている。

体験があったってなくったってそんなことどうでもいいんです。
いまここの体験のみが真実で、過去の体験は屍(いま生きていないという意味で)と心得る。
体験なんかあったって、いつまでもそれにしがみついたら不自由のままなんです。
縛られなければ、あらゆる可能性がいまここにあります。
Posted by 模察模察 at 2016年12月10日 04:35
まるまるさん

まさかの、ウケ♪

「愛」は色づけしたのですね。(付け足した表現と理解しました。)
阿部さんもそうなのだと思います。

ですが、真我はなにかをしてくれるのでしょうか。
観ているだけで、... 無常ではと思います。
なにもしない、でもホントウは「苦はない」の理解です。
それで納得をしていますけど.....

愛だ、まもられてる、すくわれてる、あなたのままでいい。は、
安易すぎるスピリチャル詣に向かうように思えます。
「愛」だと、そこにつながりはしないかという感じですね。

なにもない「無」。
いわれてた「余地のない」単語だと思います。
無も人類共通ですよね。

他の人はわかりませんが、無知がそのままでいいはずがありません。
そのままで終えるだけですから。
肝心はことは、
他に書かれた「縁起の謎が解けたら」
自らがそれを起こしてる訳で、是正は可能、自らの行動からかえていけばよき方向にはなるのだと理解してます。
そのままでいいなら、瞑想すら必要ない訳ですから。
コントロールできないって表現もさんざん出してきます。が、
なにを指してるのかわかりません。
この是正するのは自分だと思ってます。
これ、コントロールだと思ってます。
だから自我ですね。

意見いいましたけど、
まるまるさんは、達した人だとはっきりしました。
今後のコメントも注目です。
CMはいります。
Posted by 日和る at 2016年12月10日 08:32
模察さん

体験したからこそ、わかることもある。

まるまるさんは

> 「論証自体がそれ以外の可能性を残している時、論破材料として不完全」って指摘はダメなの?

と確認しているんですけど、
理論の「組み立て」であれば未体験者でも校閲できます。

でも、命題の真偽(論証の妥当性)は、
自分の体験で確かめるしかないということです。
Posted by rakuni... at 2016年12月10日 09:03
rakuni.,,さん

>体験したからこそ、わかることもある

「過去の体験があったから分かった」は時間感覚に基づくストーリーです

「分かったという気付きの原因は過去のあの体験があったからに違いない」という思考が起こっただけでは?

いま分かったと気付いたなら、その分かったという経験のみが真実で、"過去の体験のイメージ"とは全く関係はありません。

"過去の体験のイメージ"が起きたことに気付き、それらを関係付ける思考が起きたのです
Posted by 模察模察 at 2016年12月10日 10:41
模察さん

> 「過去の体験があったから分かった」は時間感覚に基づくストーリーです

そういう見方もあります。
ただ、体験者でないと語れないこともあります。
その語りは勿論ストーリーなのだけれども、ただの与太話でもない。
メッセージの真偽については、
未体験者より体験者の方がより多くわかります。

たとえば、体験したあと、
「ああ、阿部さんの言ってたことは本当だったんだ」
ってことを言う人がいるでしょう。
そういう実感のことを言っています。

こういう実感を、ただの時間間隔に基づくストーリーと割り切ってもいいんですが、
体験も、本当だったんだという実感も、それはそれで価値があるもので、
体験した人はその分だけラッキーなんだと思います。

繰り返しますが、ある種の命題の真偽は
体験したからこそわかる、という場合があるんです。

一般的に(見性体験に限らず)体験、経験してみなきゃ、わからないことがある、

それは、(未体験者の私でも言える)普通に当たり前のことだと思います。


> 体験があったってなくったってそんなことどうでもいいんです。

その通りだと思いますが、
議論する限りは、理屈で言える範囲、疑える範囲を
明確にしておくことが必要だと思います。

たとえば、この言については体験するまでわからないとか。。
体験でしかわからないところを理屈で疑っても意味ないでしょう。

おしまい。。
Posted by rakuni... at 2016年12月10日 16:48
体験したから"体験は関係無い"と言ってる可能性はありませんかね?
分かることに拘るから体験を求めてるんですよね?
でも、分かることは、

「分からないことが分かった」

なんですよ。

体験したら、全ての真理が一瞬で分かってしまうイメージがあるんでしょうかね?
真理に気付くのは、体験の時ではなく、いつだっていまここで起こるんですけどね
Posted by 模察模察 at 2016年12月10日 17:35
模察さん

>その分かったという経験のみが真実で、"過去の体験のイメージ"とは全く関係はありません。

>決めつけは不自由なんですよ。
決めつけるから不自由で苦しいんです。

模察さん苦しいですか?

因果、縁起をどう捉えてますか?
Posted by 日和る at 2016年12月10日 19:12
模察さんのコメントも、私のコメントも、
わからない人はわからないけども
わかる人にはわかるでしょう。

この辺で終わりにします。
Posted by rakuni... at 2016年12月10日 19:23
日和るさん 模察さん
好意的なお声掛けに救われました。有難う。
話したい気持ちがありますが、記事も古くなってきましたので、
また次の機会に お話出来たら 幸いです。

rakuni... さん
体験体験と言いますが「何の体験をしたらいいのか?」。
例えば「坐禅見性」とは「座るを体験出来ました」という事です。
模察さんが前に「歩行禅をやってる」って書いてました。
模察さんは「歩く体験」をしてるんです。
「普通に座ってる」「普通に歩いてる」とこれらの「座ってる」「歩いてる」の違いは
このブログの中で散々言われている「マインド」の在処の違いです。
座るに、マインドをフルにダイブ出来れば「座禅」になりますし、
歩くに、マインドフルネス すれば「歩行禅」に成るんです。
生活の全ての動きの中に 自分のマインドを 投げ入れる事が出来。
投げ入れた後に「自分(だと思ってきたもの)」は無我であると「気づく」。
あなたの憧れている「一瞥体験」は こんくらいの事なのです。
この気づきだけで「大乗」の理解に成り「釈迦の話を信じる事が出来ます」。
すなわち「大丈夫」を手に入れるという事です。

無へのダイブ(小乗の悟り)は 少しだけテクニカルなので 多少学びが必要ですし、
ある種の覚悟も必要だと正直なところ、思います。けれど必然ではありません。
釈迦の話を信じないから 釈迦と同じ体験をしなければ「気が済まない」だけの事です。
ここまでやらなきゃ信じられないなんて 傲慢の極み、愚の骨頂、という気持ちにもなりますし、
とっくのとうに 釈迦を信じている方々に 頭が下がる気持ちになるってものです。
勿論、体験自体は 苦労しただけの分 ああ とは、思えますけれど。
結局、釈迦の話を信じられない、が「体験必要論」なんですから、
模察さんの言う通り「体験なんて どうでもいい」んです。
信じられず疑ってるから 証明が必要であって 信じる人に「何故、証明の必要があるのか」
いつ信じる力を手に入れるか? 
それは いつでも、今すぐにでも 起きる事なんです。
Posted by まるまる at 2016年12月10日 19:44
まるまるさん

*****さんの言わんとしてることが、伝わればそれで十分でしょう。
もともとは理論の組み立てについての議論であったはず。。
いたずらに話を広げることもない。
もう議論は不要だと思います。
私のコメントも誤読されてるようなので
おしまいにしましょう。
Posted by rakuni... at 2016年12月10日 21:33
rakuni...さん、いろいろとありがとうございます^^

発端は、私のコメントにあるようなので、
問題になっている(と思われる)”体験”について、少し書かせて頂きますね。
(沖縄に行きたいと思って、沖縄のことをいろいろ人から聞いたり、ガイドブックを読んだりしても、沖縄に行ったことにはなりません。
自分自身が、沖縄に行けば、本当に沖縄を知ったことになります。
簡単に言えば、そういうことなのですが。。。
旅行については、行くと行かないの差は歴然としていますが、
霊的な体験については、個人的な感情が、何かしらの形で投影されるように感じています)

阿部さんも、ご自身の真理の一瞥体験について、ブログの記事で詳細に書かれていますね。
(大和田さんにしても、阿部さんにしても、体験前と後では、意識の変容は明らかです)

シチュエーションは違えど、真理の一端を垣間見るという体験は、
一様に、この日常の延長にはない、ということが言えるかと思います。

ですから、昔から、そのようなある意味で、霊的な体験(敢えて、こう書かせて頂きます)は、
”奇跡”と呼ばれる類のモノであった、と言うこともできます。

それは、非常に強烈なアハ体験のようなもので、
体験前と体験後では、世の中の見え方が異なり、意識の変容が起こります。
(アハ体験が起きるのは瞬間であり、その瞬間に、アハの前と後では、
対象物に対する解釈が、完全に変化するということが起きます)

それは、視点の移動が起こることによって生じる世界観の変化です。
(それを、意識の変容とさせて頂きます)

思考や行為は、”わたし”という自我意識のコントロール下にあるので、
この頭の中から生まれたモノであり、よって、頭の外に出ることはできません。
しかし、一方、自我が想定も想像もしていない非日常的な体験が突然起きた場合、
(これは、自我が全く関与しない体験であり、一種の”奇跡体験”と言えます)
自我は、その体験を受け入れるために(理解するために)、どうしても、視点の移動を余儀なくされます。
もし、非日常な体験を日常的な意識で解釈しようとすると、
場合によっては、そこに辻褄が合わないということが起きてしまうので、
自動的に、視点の移動が起こり、自然と、自我は、自分にとっては未知なる世界観へと導かれ、
その新しい世界観により、辻褄が合うということが起きます。

こうして、自我は、徐々に(自然に)、”自分”という殻を超えた世界を理解するようになります。

そして、自分を超えた世界である”全体”を理解すればするほど、
”個”である自我意識の殻は、薄くなっていきます。

風船のゴムの部分である”自我意識”が、限りなく薄くなることで、
全体=個であるという理解が、ますます強くなり、
最終的には、ゴムの部分は消滅します。

これは、個人からの解放を望まない人には、どうでもいい話です。
(個人からの解放とは、地球的存在からの卒業、という意味があります)

そして、個人からの解放とは、”いまここ”からの解放、と言ってもいいかと思います。

それは、個人とは、ある決まった時間と空間によって、識別されるので、”いまここ”そのものです。
(地球時間のいつに誕生し、どこに誕生したか?という誕生に関する情報が、それを物語っています。
この意見には、多くの反論があるかと思いますが)

個人を離れ、全体としての側面が強くなると、”いまここ”は、それほど重要ではなくなります。

”いまここ”は、個人にとっては重要ですが(非常に地球的な考えです)
全体においては、時間も空間もないので(それは、中心の回転軸がないからですが)”いまここ”はありません。
(この考え方は、今の科学では一般的ではないかもしれません。
宇宙年齢は、約137億年と言われていますが、それも今の計測器で測定できる範囲での見積もりであって、
宇宙は、常に膨張しているので、測定できない宇宙の方が、はるかに広いのです。
そして、宇宙には、いくつもの中心が在り、それが同時に発生して大宇宙となったという説もあります)

そうであっても、宇宙に始まりなく終わりなく遍在する実在においては、
時間と空間による違い(変位)はなく、すべては一様であり、
時間、空間をも超えた”ただひとつ”が在るだけなのです。
Posted by 地球時間(いまここ)と永遠***** at 2016年12月10日 22:11
*****さん

フォローありがとうございます。
ちょっと議論しただけで私はぐったりです。
*****さんはタフですね^^
Posted by rakuni... at 2016年12月10日 22:42
>先日、僭越ながらも、同じような趣旨のコメントを書かせて頂きました。
夢も見ていない深い睡眠時は、実は、真我一体の状態である、と。
あまりに当たり前すぎて、そして誰でも毎日経験していることであるので、
そんな馬鹿な、それは違うでしょ?と思われても仕方がないとは感じています。
(自称)覚者の方々が、自分達のストーリーの中で起きた体験を、あまりにも誇張?して伝えるので(お気を悪くされたらスミマセン)、
そういう体験を望む人達が、また多くの幻想、夢を生み出してしまい、
その中で夢を追いかけてしまうという新たな我執に囚われてしまうのです。
このトラップに陥ると、なかなか抜け出すことが困難になってしまいます。
本末転倒というのは、このことだと感じています。
それもすべて起こっていることなので、受け入れるしかありませんが。
禅は、その点、一切の幻想、夢を排除し、いまここに在ることのみを、人間の意識が"それ"を認識できる唯一の拠り所としているので、
不必要な迷妄に迷い混むことなく、真理に至ることができる数少ないメソッドだと感じています。

しかし、すべては流れなので、お任せするしかありませんから、
回り道もまた由、と思えば、どんなことも受け入れられますね♪

Posted by 永遠のリーラ at 2015年04月23日 11:34

永遠のリーラさんは***** さんですよね。
ここで書かれた「真我一体」とはどんな状態を指すのでしょうか?
わかりやすく解説していただけたら幸いです。
Posted by モーリ at 2016年12月10日 22:54
rakuni... さん

議論はしていないので、疲れないのでしょう(笑)

左脳は、ほとんど使っていないように感じています。

議論は、マインド同士のぶつかり合いなので、
確かに、疲れてしまいますね。


モーリ さん

随分前のコメントですね~(笑)

投稿したひとつひとつのコメント内容を覚えていないので、
こんなことを書いたこともあったのですね。。。。(ナツカシイ?笑)

”真我一体”は、誰でもそうなのですが、
(睡眠中であろうと、起きている時であろうと、どんな時でも、
私たちは、”真我”そのものなので)
ほとんどの人は、無自覚であるだけで、
一部の人に特別に起きていることではありません。

しかし、”それ”を身を以って識りたい、というのであれば、
自分自身で、体験するしかありません。
(言葉では、説明してもわからないと思われます。
 通常の状態では、無自覚ですから)

ですが、ご質問があったので、
ご参考までに、以下のサイトで
イメージだけでも、掴んで頂けるかと思いますので、
ご紹介させて頂きますね。

http://pranahna.com/
(真我が目覚めるとき)
Posted by ***** at 2016年12月11日 11:22
*****さん、お答えくださりありがとうございます。

>”真我一体”は、誰でもそうなのですが、
(睡眠中であろうと、起きている時であろうと、どんな時でも、
私たちは、”真我”そのものなので)
ほとんどの人は、無自覚であるだけで、
一部の人に特別に起きていることではありません。

私もそう思います。
ですから、

>夢も見ていない深い睡眠時は、実は、真我一体の状態である、と。

と書かれた様に
なぜ「夢も見ていない深い睡眠時」とこの時 ことさら状態を特定されたのかよく解らなかったのです。
何か特別な理由があったのでしょうか。
よろしければ解説していただけると幸いです。
Posted by モーリ at 2016年12月11日 13:13
モーリ さん

多分、その時は、
自分(という個人)はいないということが、
熟睡時の状態に似ていて、
イメージしやすいのではないか?と、
考えたからだと思います。

一般的には、自我は、
あなたは真我(神)そのものだと聞いても、
ピンとはこないでしょうから。

それにしても、過去の古いコメントまで読まれているのですね。
驚きました!(@_@;)
Posted by ***** at 2016年12月11日 14:06
このようなコメントをすでに書いておられたのですか!

(^_^)v

この方は何から何まで僕を上回っておられます

降参です


さすが~


感謝☆感謝☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2016年12月11日 14:29
いやーこんな昔な場所で、対話をされてるとは、驚きます。

ノイズでしょうね。ノイズがあるか?ないか?

或いは、感覚。が、あるか?ないか?で、神我一体を論じれば、

人の声や話を聴くのだって、何かノイズや、感覚が、日常茶飯事、混じっている。

景色や風景を観るのだって、色々な音や、感覚や、自分の印象や、考えが、ノイズが入り混じっている。

何かを感じようとするのだって、ワンネスを感じようとするのだって、

内外の感覚やら、気づきやは、そうでない感覚やら、イメージやら、それらのノイズと取れるものはによって、

神我一体という感覚を濁らされている。・・・とも取れる

でも、最大のノイズ?は、「私」という感覚が絶えず在ることが、そもそも神我一体ならぬ。

一体ということを妨げたいる。

そう考えますと、「私」の感覚が在っちゃうと、「神我一体」という事象は、有り得ないことで、

「神我一体」というのさ、言葉だけの表現で、実際には、そのような状態や、事象は、ないんだろうな?と、想えてしまいました。(^_^;)

どうなんで・で・しょう。。。
Posted by y-be at 2016年12月11日 15:21
モーリさんが紹介してくださった
永遠のリーラさんのコメントはまさに今の僕の境地であります

僕が一番乗りなのではなく、何事にも先人がいる
というわけですね

何回読んでも素晴らしいコメントです

今日一番のヒット!いや、ホームラン!でした

(^_-)


今宵はぐっすりと眠れそうです


真我☆真我☆


おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2016年12月11日 20:52
*****さん、ありがとうございます。

今リーラの過去記事を少しずつ読んでいます。
ちょうど前出の永遠のリーラさんのコメントがあった辺りの記事をつい最近読みました処、こちらのコメント欄で、*****さんが睡眠は無我ではない事を話題にされていたので、永遠のリーラさんの言われる「真我一体」と*****さんの言われる「無我」とを整理して考えてみたかったのです。


>多分、その時は、
自分(という個人)はいないということが、
熟睡時の状態に似ていて、
イメージしやすいのではないか?と、
考えたからだと思います。


似ている、、、というご意見は正直「?」なんですが、、、。

数日前阿部さんが


>考えていたと思っていた「自分」が、実際にはいなかったことへの一瞥です。


この気づきは、無意識状態の睡眠中ではなく、意識ある瞑想の中で起こります。


と書かれていて


永遠のリーラさんのコメントがあった当日の記事「ただする」にも


>同アカデミーの沖縄サットサンで、ある女性が

「料理をしているとき、それをしている自分がいなくなって、ただ行為だけがありました」

と分かち合ってくれました。

向さんも、まさにそれこそが自他一如の「ただする」ということだと喜んでいました。


このところ何度も伝えているノンデュアリティ(非二元)も、まさに同じことです。

行為はありますが、行為者がいません。

ただことが起きているのです。


とあったので、その当日のコメントに熟睡を例に出されたのは少し違和感がありました。


しかし、何度も対応していただきありがとうございました。m(__)m
Posted by モーリ at 2016年12月11日 21:22
y-be さん

>そう考えますと、「私」の感覚が在っちゃうと、「神我一体」という事象は、有り得ないことで、

>「神我一体」というのさ、言葉だけの表現で、実際には、そのような状態や、事象は、ないんだろうな?と、想えてしまいました。(^_^;)

百聞は一見に如かず、と言います。

”神我一体”という状態?があるかどうか、疑問に感じていらっしゃるなら、
自分で確かめるしかないと思いますし、
もう、無いとされているなら、それはそれでいいのではありませんか?

無い、と思ったら、無いし、在ると思ったら、在る、ということで・・・?(笑)

無いと主張する人を、説得する気持ちは、全くありません。

在る、無いと思っている自我そのものは、実際には無いので、
そういう想いが、湧いてきているのでしょう。

それもやがて変化しますから、
今は、それはそれでいいのではないでしょうか?

アハ体験が起これば、
また、違った見解を持つこともあり得ると思いますよ^^
Posted by ***** at 2016年12月11日 22:05
モーリ さん

熟睡を例に出したのは、
実は、認識もなく、よって行為そのものもない、からなのです。

>「料理をしているとき、それをしている自分がいなくなって、ただ行為だけがありました」

この文では、行為だけがある、と認識している”自己”があります。

この”自己”が消えた状態は、認識する主体が無いので、何も無い、となります。

これが、熟睡の状態に似ている、と言いたかったのですが、
誤解されやすい表現なので、今では、このような書き方は、していません。

認識する主体そのものが、個という意識なので、
個は全体である、という意識にはならないと感じています。

寝ていようと、起きていようと、それは個人に起きていることです。
個人はいません。
”それ”だけが、在るだけなので。

モーリさんが、それを理解されているのなら、
自我も、自我の認識も、熟睡時の無意識も、無知も、行為者も、すべて無い、ということがおわかりかと思います^^

しかし、何も無い訳ではなく、”それ”だけは、在るのです。

今は、これを伝えたくて、コメントしています。

自分の古いコメントを読み返すと、へぇ~と他人事のように感じます(笑)

久しぶりに、面白い体験をしました(笑)

ありがとうございました^^
Posted by ***** at 2016年12月12日 00:17
モーリさん

違和感。

それは、ありましけど。
私の場合、胸に塊でした。
でも、もうないですね。
個人は変えられません。
気づきは本人のみ。

どうするか。
私のもそうなのかもしれません。
スクロールすることです。
単に、「文字」です。

シンクロするのも、反応するのも
そこに「因」があるかないのか、ではないでしょうか。

それも修行の一環とみれます。


茶々は入れてますけど .....

そそぎましけど .....

ね♪


文字ととらえるか、意ととらえるか

ですよ♪
Posted by 日和る at 2016年12月12日 05:39
>「料理をしているとき、それをしている自分がいなくなって、ただ行為だけがありました」
> 向さんも、まさにそれこそが自他一如の「ただする」ということだと喜んでいました。

この状態が「起きてること(行為)が起きている」。
「この身体(行為者)の中に心が閉じ込められている」という「間違った自覚」が「自我」。
「心」が「料理」にマインドフルネスしてる状態が「ただ行為(料理)だけがある」。←心の在処。
「まるまるの身体の心」は料理に移動してる。この時「まるまる(行為者)は無我(無自覚=不在)」
実践においてわかるのが「料理に心をダイブしたら「料理さんも無自覚」でした」とわかる。→行為(真我=心の在処)も無我(無自覚)
何(対象)に「心をダイブさせても」無自覚だったので「自分も自分以外も全て無自覚」。

ここで「自他ともに無自覚」が一致(同じ)したので、「部分(無我)=全体(無我)」の理解。
「部分=全体」の理解が出来ると「起きる事「だけ」が起きている」←「全一(だけ)」の理解。

ここで「無自覚だけが起きている(不在(無い)だけの存在(ある)」とはなんなんだ?と「思っちゃうヤツ」は「無の探求」へ進む。
「無(無自覚)」にマインドフルネスする→「何も起きてない(起きていることに無自覚)」の理解(決着)。

「無自覚」なんつーもんは「わかんねーって事だよ(サムシンググレイト)」と「わかってる方」は「対象」を思い描く方に進む。
対象は「何でも良い」ので理想・本当の望みに「心をマインドフルネスする」と「全ては愛の躍動(行為)」になる。
対象とは「信じているもの」が成るので「全てが愛である」という提案を「信じる」と「心が愛へダイブする」が可能。
信じていないもの(疑い)は「対象化されない」。という特徴がある(ようである)。
「全てが愛である」という認識は「最中」ではなく「事後」起きる事は「ビッパサナー(なりきる)」で了解済み。

なので「続けていく」という事だけが「いまもなお 愛の躍動として生きている」ことに「成り得る」。
「いま自分はどうあるか」「自分はどうありたいか」が「この世界の全て」であるという事。。
「自燈明」は「無にダイブした方」が選んだ「自分の在り方」の提案。

提案は提案に過ぎないので、私達は心を無限空間のどこにダイブしても良くて「どうあってもいい」完全な自由がある。

こんな感じが、私が禅の実践で決着した理解です。
私の書き方が稚拙でわかり難い事は 身に沁みてますが、禅の理解の一つの参考として書かせていただきました。

それぞれの気づき(理解)はわかり易く順番を作りましたが、順序通りではありませんでした。
記憶の片隅に置いておいた理解を新しい気づきと結びつけて「飛躍」した事があったという意味です。
Posted by まるまる at 2016年12月12日 08:33
まるまるさん

わかりやすいです。

「ダイブ」いい表現ですね♪

とことんどっぷり入るカンジがします。


座右の銘はもしや。理路整然では?
Posted by 日和る at 2016年12月12日 09:53
日和るさん
いえいえ。
禅スクの生徒さんの「無我の気づき」を向老師が見抜いて喜んだ話を歪曲されたのが とっても嫌だった、というだけの感情的理由で書いたので、冷静を気取っても とっちらかってるかも と思ってます。
でも なんかの参考になれば 幸いです。
わからない とっちらかり(非理路整然)については いつでも質問に答えますので 宜しくお願いします。。
座右の銘は「愚の骨頂」♪
Posted by まるまる at 2016年12月12日 10:41
日和るさん、まるまるさん、ありがとうございます。

私もまるまるさんのコメント解りやすいと思いました。それにとても面白かったです。ありがとうございました(^ ^)
Posted by モーリ at 2016年12月12日 12:30
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