2016年05月26日

人は死なない

一休禅師は、己の死を前にして、このように歌いました。




死にはせぬ


どこにも行かぬ『ここ』にいる


尋ねはするな


ものは言わぬぞ





ある人が、ディーパック・チョプラ氏に質問しました。



「人が死ぬとき、何が起きるのですか」



するとチョプラ氏は答えました。



「何も起きませんよ。だって死なないから」






ソクラテスが毒を飲まされ、まさにいま身体の機能のすべてが失われようとしているとき、こう言いました



「もはや目も見えず、音も聞こえず、手足の感覚も麻痺し、すでに私の一部ではない。


しかし私自身は何も失われていない。


舌も痺れてきた。


これが私の最後の言葉になるだろう。


私から身体のすべてが取り去られようとしているが、


それでも私は何一つ欠けることなく


いまも『ここ』にいる」





まさにいま、あなたが『ここ』にいるように

この先も永遠に『ここ』にいます。

『ここ』以外に存在はなく、いままでもずっと『ここ』にいたし、これからも同じです。


身体をまとっていようと、いまいと、存在はいつも『いま・ここ』にあり、祝福されています。


それが、本当のあなたです。



Posted by Toshiro Abe at 08:45│Comments(39)
この記事へのコメント
服を着る前から

肉体はあります。


服を着ているときも

肉体はあります。


服を脱いだ後も

肉体はあります。


肉体を着る前から

光のエネルギー体である自分はあります。


肉体を着ているときも

光のエネルギー体である自分はあります。


肉体を脱いだ後も

光のエネルギー体である自分はあります。


光のエネルギー体である自分は

サット・チット・アーナンダ

存在・意識・至福です。
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2016年05月26日 09:02
自分としてのストーリーが消えるだけですね((∩^Д^∩))
Posted by go at 2016年05月26日 09:03
夢をみていた
私達に気付くんですね

口臭が気になったり
歯並びが悪いのに治せない自分を貧しいと感じたり
周りの皆が合格している試験におちてバツが悪かったり

今、心地よく座椅子に座ってブログに投稿したり
母の日に息子からバックをプレゼントされたり

感じたり、考えたり
今にいなかったり、いたり

こんな世界
たのくるしい
Posted by momo at 2016年05月26日 09:24
夢を夢だと見抜くこと。

そうでない限りは、肉体があってもなくても、夢の中にいることになります。

肉体を離れたからといって、夢の中にいる限りは、本質に戻るわけではありません。

そうやって、何万年も、人類は夢を見てきたのです。

生と死も、その夢の中での変化に過ぎず、
目覚めない限りは、夢は時間空間の中で顕れ続けます。

私たちの本質は、時間と空間を越えた永遠なるただひとつのエネルギーです。

肉体は消滅しますが、エネルギーは不滅です。

それは、"在る"という永遠不滅の存在であり、
時空を越えたこの宇宙の唯一の実在です。

それだけが在ります。

そして、この夢もいつか終わりが来ます。

夢は永遠不滅の実在ではないので、いつか必ず消滅します。

夢が完全に消滅することを、真我の目覚め、と呼ぶことがあります。

真我が目覚めるまで、生と死は繰り返され、夢は続くことでしょう。
Posted by 真我の目覚め at 2016年05月26日 09:47
閑さや岩にしみ入る蝉の声

しみこみます。
Posted by huki at 2016年05月26日 10:46
執拗にまとわりついて離れない思考を払い除けられず、いっそ全部忘れてしまいたいと願い、気が狂うのかと思うほどに苦しかったけれど。ある時ふっと、これは思考の中でだけ起きてることで、ホントは何も起きてないということに気づきました。まるで憑き物が落ちたような気楽さ。その後でこのブログと阿部さんを知り、おっしゃることは真実なのだろうと納得しています。今思えばこれまで私が抱えてきたストーリーは周到とも言えるほどの「何も起きてない。誰もいない」のストーリーでした。そこから抜け出て、今度はまた次のストーリーを生きていくのだと思います。「まだ頑張りたい」「まだできるようになりたい」という自分を受け止めて、新しいストーリーを紡いでいこうと思います。それは”夢”に過ぎないのでしょうが、”今ここ”に”成りきって”いけたら幸せです。阿部さんや向老師、菜穂さんの空気感にふれると、余分な力が抜けて笑いが出てきます。たったひとつの真実を、いつもいつもいろんな言葉にして発信してくださって、ありがとうございます。一年ほど前に初めてサットサンに参加しました。いつかまた、同じ場で同じ空気をすって今に寛げる機会があったらうれしいです。
Posted by Ally at 2016年05月26日 10:58
いつもありがとうございます。
 
まだまだ、
思考に惑わされているようです(笑)
 
今日も善き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2016年05月26日 11:15
肉体が亡くなる(空に還る)ことで、
認識はできなくなりますよね。

本質は永遠で、死さえない、というような認識さえ、できない。

だからこそ、こうして命(身体)のある今が、ブラブラボー!

宇宙がやろうとしていることを知ることができる。

カララという人、命、ありがとう!
Posted by カララ at 2016年05月26日 11:16
29日の講演会、伺う予定です。
お話、楽しみにしています。
今日も、ありがとうございました。
Posted by 林ゆみ子 at 2016年05月26日 11:19
この 欠けた感覚 さえ
なにひとつ 欠けてない なかにあって

あぁ そうだ
いっしょうけんめい 埋めようとして
埋まらなかった あの時も
なにひとつ 欠けてなかった と
なにひとつ おびやかされてなんかいなかった と


さいきんは「不死のしくみ」の
阿部さんに誘導してもらってから
そのときの気分の ボブさんのマントラで
座るのが すきです。

きょうは 黒斎さんの お話し会に
京都へ いってきます。 ^^

いい一日ですように。
Posted by めい at 2016年05月26日 11:20
真実はここにしかないと感じています。
Posted by ふわ at 2016年05月26日 11:40
阿部さま
大空さま
すてきな日記・コメント
ありがとうございます ♪
Posted by なう at 2016年05月26日 13:15
肉体は『二元の人生養成ギプス』ってとこかな?
Posted by たいのえ at 2016年05月26日 13:19
姿・形・見た目じゃなくて存在の奥にある気配を感じてみる。
そういうとき、胸がどんどん安心していく。
きっとそれが永久不滅なものかなって思います。

友達が第一子を産んで間もない頃、「(赤ちゃんを)見ているだけでただただ幸せな気持ちになってこんな気持ち初めてなんだよね」って言ってたんですが、これはきっと見た目の可愛さもあるけれど、その奥にある存在感を感じていたんじゃないかな〜と思います。そしてそこに愛おしさを感じてたんじゃないかなって思ってる。

そーゆー話聞くとこっちまで胸が温かくなっちゃう。それを思い出しました。

今いるうさぎが死んだらとても悲しいけれど、存在として消滅するわけではない。むしろどこにでもいるんだろうと思ってる。個体ではないけれど存在として。
Posted by 薄茶色 at 2016年05月26日 13:44
一休さん好きです(笑)

一休さんは、死の間際に「死にとうない」と言ったとか言わなかったとか。
真偽はさて置き、言葉のまま受け止めれば一休さんほどの禅僧が命乞いをするほど死は恐ろしいもの と解釈も出来ます。

しかし、一休さんほどの高層が肉体の死は死ではないことは悟っていたハズ。
この前提に立てば、一休さんは肉体が滅すると五感、思考、感情の全てが無に帰することは重々承知の上で、死の瀬戸際に至ってもいまこの瞬間に『生』があることを讃える意味で「死にとうない」とおっしゃったとも解釈できます。

そしてまた、一休さんは弟子達に「ニッチもサッチもいかなくなったらこの手紙を明けなさい」と言って手紙を渡したそうです。
一休さん没後しばらくして、弟子達が困難の局面に直面した時に手紙を開けたそうです。
手紙には、『大丈夫。心配するな、何とかなる』と書かれていたそうな。
自らの死に際において、死すらも『大丈夫。心配するな、何とかなる』という境地にあったことが伺えますね。

私も自分の死に際しては、「死にとうない」、「大丈夫。心配するな、何とかなる」と言えるといいなと思ってます(笑)
Posted by 模察 at 2016年05月26日 14:05
阿部さん、こんにちは。

いつも楽しみに読ませていただいています。

今日のタイトルになっている人は死なないということについて、最近、人は死なないのではなく死ねないのではないかとふと思いました。

死んだと思った瞬間に今度は別の人の意識に入り、そうやって生を繰り返し続けるのではないか。

自分と思っているものが入れ替わり、永遠に夢を見続けることになるとしたら、それはそれでちょっときついなぁと思います。

そこから抜けるには夢だと気づくしかないのでしょうか。
Posted by ひこうき雲 at 2016年05月26日 14:16
「大丈夫だァ」 ですね へ(*´▽`*)ノ

ここで一句、
ああ今日も 人生コント 笑っちゃう(*≧▽≦*)
Posted by プリン at 2016年05月26日 17:08
本当でないわたしは今日も
穴埋め作業をせっせとするだに~


つかれるだに
疲れるだに
憑かれるだに
私に憑かれてただに

私のせいだに!!!

全部!!!

私しだい
Posted by つきよ at 2016年05月26日 17:31
本当でないわたしは今日も
穴埋め作業をせっせとするだに~


つかれるだに
疲れるだに
憑かれるだに
私に憑かれてただに

私のせいだに!!!

全部!!!

私しだい
Posted by つきよ at 2016年05月26日 17:32
肉体はあなたの一部であり、肉体が失われてもあなたの存在は変わらない。
毛や歯が抜けても、身体全体には大した影響が無いように・・・・。

個の幻想(思考)が抜け落ちた時、自分が「全体」であった事に気づく!^^
Posted by 近藤 at 2016年05月26日 18:53
いつも更新ありがとうございます。
出演者は死にますが観客席のプロデューサーに死などないのでしょう。
映画を楽しく観たいです。
サレンダー
Posted by 尚 at 2016年05月26日 19:13
多分ですが、霊界と現界とをつ繋ぐ霊界ラジオなるものが出来てくれば、死ぬ怖さも無く成るんじゃないかと。(笑)

死んだらどうなるのかさえ分かれば、未知への恐怖も薄らぐのではないかと。(爆)

いつも霊界とコンタクトを取ってる霊能者なんかも、やはり死は恐いんでしょうかね!?
Posted by 茶呆♪ at 2016年05月26日 19:43
 自分がある死は悟りであり、解脱ではない(^o^;(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)

 宇宙からの遺言、マスターエンライトに学びあなたたちは言い切れますか?
Posted by 賢人テラワーダー at 2016年05月26日 20:11
悟りも解脱もないでしょ。

死ねば 肉体からの目線がなくなります。それだけです(笑)

にぃ あそびにきたよ(笑)
Posted by AQU@ at 2016年05月26日 21:14
この記事を読んだあとに
新聞の片付けをしていたら
こんな新聞広告を目にしました。

樹木希林さんが森の水辺のようなところにに横たわっていて、その右上に


「死ぬときぐらい
好きにさせてよ」

人は必ず死ぬというのに
長生きを叶える技術ばかりが進化して
なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。
死ぬことを疎むことなく、死を焦ることなく。
ひとつひとつの欲を手放して、
身じまいをしていきたいと思うのです。
人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵でなりたい。
それが、私の最後の欲なのです。


こんなことが書いてありました。


なんでこのタイミングでこの広告なんだろうと不思議な気分でした。
Posted by J at 2016年05月26日 22:12
目覚めたいなぁ
「人は死なない」ってホントにわかれば楽になるんだろうなぁ
Posted by 小春 at 2016年05月26日 22:13
肉体が消えても意識(全体の)だけ「ここ」に残るって事ですか?
Posted by Candle at 2016年05月26日 22:33
スピリチュアルTVで阿部さんを観ていたら、一瞬フワッと不思議な感覚になりました。それからというもの、自分の人生がドラマのように観えて、遠目で眺めている感覚なんです。全体としての自分というか、うまく表現できませんが、生きるのがとてもラクになっています。未来も過去も存在しなくて、ただ今に在って、淡々と起きることが起きているだけのように感じています。神も仏もいなくて、修行も探求も必要なくて、どれだけ今に寛げるか、ではないでしょうか。もうどこにも行かなくてもいいのです。何かをしようとしなくてもいいのです。私の探求は終わりました。阿部さん、ありがとうございました。

追伸
リーラは、これからも読ませて頂きます(^^)
Posted by FK at 2016年05月26日 22:39
そういえば、死ねば重力を感じないで済みます。
これだけでもなかなかの解放感かも知れません。
しかし、まさか霊界にも重力が有ったりして(笑)

この重力によるストレスがいか程のものなのかを知るには、眠いのをじっと我慢して立っていれば分かります。(苦笑)
立ち寝をするつもりで、絶対に横に成らねば良い分けです。
そのうち膝が曲がってきて、どうにも立って居られなく成ります。
数十キロ有る自分の身体の重みが、この時ほど重く感じられる瞬間は有りません。
我々は常にこのストレスに晒されている分けですが、死ねば身体が失せるのでそれなりの解放感を得られるかも知れません、大変に楽しみにしてて下さい。(苦爆)

まぁしかし、自分が居ないなら誰がその解放感を得るのかと・・・!? (爆)
Posted by 茶呆♪ at 2016年05月26日 22:47
じゃあ、阿部さんは死ぬのが怖くないですか??
Posted by キラキラ at 2016年05月26日 22:51
自分が存在していると思っている間は

自分は存在していたい…自分は死にたくない…
ということですよね

なので

体を鍛えたり…食べ物に気をつけたり…するわけです

しかし

それでもいつかはこの世界を旅立つ日が来る
ことを見抜いているなら

霊界の話しを聞きに行きあの世の存在を確信しようとする

あるいは

幽体離脱を学んで
この目で生のあの世を見ようとするかも知れません



けれど…本当は…

自分が存在していることは幻だから
自分が死ぬということはない

自分が存在しているように思えるのは
幻である想念の中にはまり込んでいる間だけ

完全に今を生きるなら静まり返っている
完全に今を生きるなら
自分が存在しているという思いはない


はじめから今ここには全体が在るだけ…

はじめから今ここには愛が在るだけ…


ブッダ☆ブッダ☆


それではおやすみなさい…至福の中でおやすみなさい…
Posted by 甲賀忍者 at 2016年05月26日 23:06
生きることが苦しく感じるときは 死は希望にすらなるのに
眠って意識を失うことは 怖くもなんともないというのに
なぜ私は死を恐れるんだろう? 未知のものへの恐れか
それより痛みや苦しみへの恐れの方が近いか・・・

生が苦しみではなく むしろ喜びであって
死を恐れているときは 人は死なないは救いになるけれど
苦しみの生も 未知の死も どちらも恐れているときは
人は死なないは かえって怖くないんだろうか と思うことも
Posted by be at 2016年05月27日 00:08
>人は死なない。

と書かれたので、素朴な疑問が湧きました。

つまり、人間に死はない、ということですか?

それでは、生はどうですか?

死と生は、ふたつでセットなので、
生についても同じことが言えますか?

死がないなら、生もないのでしょうか?

それとも、死だけがなくて、生はあるのでしょうか?

死なない人が生まれてくるとは考えにくいです。

私たちは生きているけど、死なないのですか?
まるで、スーパーマンみたいですね(笑)

私たちは、肉体が動かなくなることを"死"としていますが、
阿部さんが言っている"死なない"は、この"死"ではない、ということですよね?
どんな肉体も滅びますから。

動いていた肉体が動かなくなることが、"死"ではないなら、
肉体が動いていることを"生きている"とすることは出来ないのではありませんか?

死を知ることは、生を知ることに繋がると思いますので、
死について書かれるなら、併せて、生についても阿部さんのお考えを知りたいです。
Posted by 生と死 at 2016年05月27日 02:23
入道雲だった意識がある。刻々と形を変え変化していく。その流れは想像以上に速い。雲でもあり水でもあり、でも本当は姿という姿はなかった。あったのは意識だけ。雲なのに楽しい。宇宙、地球全ての意識とつながっていた。次に気がつくとカエルだった。ただただ跳ねる事が楽しくて楽しくて夢中になって跳ねた。カエルも目の前の草花や水、土、全ての意識とつながっていた。雲との違いは手足という筋肉を持ったことに喜びを感じたこと。苦しみなんて知らない。死ぬという概念もない。どうなってカエルの生涯を閉じたかもわからない。気づくと次は鳥だった。飛ぶ事が楽しくて楽しくてたまらない。翼を持てたことが誇らしい。空や全ての意識とつながっている。風とは一体だ。風が変化した姿が鳥なのかもしれない。苦しみも死も知らない。ただ眠ったら別のものに変化している。気がつくと人間の赤ん坊だった。女性に口をふさがれている。遠い場所で母親が乱心して探しているのが分かる。死の概念はない。恐怖心も苦しみもない。母の愛が伝わってくるからだ。つながっていて、まるで母の腕に抱かれているような気分だ。おっぱいを飲む夢を見ながら幸福感に包まれて眠った。今は私というものを楽しんでいる。苦しみと死の概念があり、全てとつながっていないと思っていた。そっと目を閉じ自然の中に意識をゆだねる。広がり区別が消えていく。死は概念だ。それ以前にこの物語の全てがリーラという夢だった。
Posted by 凪 at 2016年05月27日 05:12
以前、歌手の森久美子さんがあるテレビ番組に出演されたときにおっしゃってました。

森さんのお父様は、亡くなるまさにその際、
「わっ!足が動かなくなった。わっ!今度は手も動かなくなった。わっ!だんだん上に上がってくる。なんか、初めて死ぬからドキドキする!」と御自身の死を「実況中継」しながら亡くなったそうです。

森久美子さんは、その場には居合わせなかったそうですが、後でお母様からこのお話を聞かされて「面白い死に方だなあ~」と思ったそうです。
実の娘に「面白い死に方」と思わせる父親・・・ただものじゃないですね(^ ^;
Posted by Sleeping B. at 2016年05月27日 09:21
★「 凪」さん、素敵な表現ですね。共感を憶えました。

☆興味本位で恐縮なのですが、お訊きしたいです・・

この色々な形態となっての現れを、“仮”に、何も無いところからの『生命力』と名付けて、表現致しますが・・

たとえば、この色々な形態となって現れる『生命力』を《わたし》或いは《私たち》とするなら、

今、自由な解釈の形で、その色々な現れの形態を認識でき、☆自らの形態をも自覚出来る『人間』と成っていらして、

その日頃の生活は、万事、楽しめますでしょうか?

また、☆その(心)・マインドなどの働きは、如何ように成られて、おられますでしょうか?
Posted by y-be at 2016年05月27日 09:31
y-be さん、素晴らしい質問です、僕も知りたいです^^

自己観照状態(ワンネス状態)から自己一体感に移行するというか、例えるなら、己の身ぐるみを着てこの世で生きてるという認識(自覚!?)。

おそらくですが、魂にとっては何でもいいから体験すること自体が喜びなのかもですね。
もしそうなら、何とワンダフルなことでしょう。\(◎o◎)/オウイェーイ!!
Posted by 茶呆♪ at 2016年05月29日 00:38
忘れてました。

グッド・ミッドナイトですぅ♪ (-_-)zzz
Posted by 茶呆♪ at 2016年05月29日 00:39
茶呆♪さん、これを知っても、普段、無意識的に、人間社会が、一番大事とマインドがなってしまう(自動的に)人たちが、地球では当たり前のようなので、

この方は、言っても虚しいのか、それとも思いやりなのか、はたまた、自由で忘れてしまったのか、たぶんもう、コメントを返されないと、思います。

わたしの思い浮かぶイメージですが、とにかく、こうして、なんでも、何も無いところから現れるのは、生命力、衝動、欲望という菜穂さんがいうところの、ライフの性質・習性ですね。。

わたしの使っているマインドコンピューターは、菜穂さんのように幸せ感を毎日感じていられる環境や、境遇ではないらしいので、

これを『愛』だとか、『すべてが愛で満たされている』との、感想は、なかなか、出してくれないですね。

むしろ、何でもかんでも、放任されて、構わず、知らずという感のほうが、実感として、毎日、どこでも、見受けられますし、有ります。

そうなると、現れているものの、自動的な、好き放題状態なのですから、思想的にも、宗教的にも、種族や個人の都合・価値観的によっても、諍いは、無くならないとの未来図が見えますので、

自然世界も、人間世界も、生老病死や、戦争だとか、食べ合いだとか、殺し合いは、無くならないとの判断になってしまい、

嘆きや、悲しみしか、覚えないですね・・☆★☆★
Posted by y-be at 2016年05月29日 03:56
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