2015年07月26日

無意味の意味

よく来てくれました。

今日もさわやかに応援クリックを置いてみました。

あはは、クリックしてくれたら嬉しいです(^^)


人気ブログランキング

にほんブログ村



昨日、長野から瞑想に来てくれた小説家の若者。

存在の実相を知ったとき、起きている出来事に「意味」はないということに気づいたそうです。

この気づきは、それまで自分が作りだしていた人生という舞台が、土台から崩れ去ったときに起きます。


あとに残るものは、一切の価値づけや脚色を脱いだ、ただあるがままの剥き出しの事実だけです。

初めて観念の眼鏡を外して全体を見たのです。

これは大いなる経験となります。



ところが次の瞬間に、「意味がない」ということへの虚無感が生じたそうです。

「起きていること(それを連ねて人生という)に意味がないのなら、生きていたってしょうがないじゃないか」

というわけです。


このような感想はどこから出てくるのでしょう。

そう、自我からです。


あらゆる、判断、意見は、すべて自我から発生します。

自我が悪いわけではなく、自我とはそういう性質を持っているという話です。


意味とは部分からの目線です。

全体において意味は必要ではなくなります。

すべては完璧だからです。


多くの人には、悟りの瞬間と、その瞬間を評価する時間帯と、その両方が起きることでしょう。

戸惑ったら、またここに来てください。

こういう話は好きです(^^)





今日もいい日でありますように。

これからもよろしくお願いします。


人気ブログランキング

にほんブログ村




Posted by Toshiro Abe at 10:10│Comments(48)
この記事へのコメント
意味がない」ということへの虚無感が生じたそうです

そう言われた時、阿部さんはどう応えてあげたのですか?

又 阿部さん自身そういう経験はありますか?

是非お聞きしたいです
Posted by 匿名で at 2015年07月26日 10:21
メッセージありがとうございます。

確かに意味はないのかもしれませんが、
それで虚しいのなら自分で好きに意味付けしたらいいと思います。
精神世界でも、シャバにおいても、とかく普遍的な「正解」「真理」が求められがちですが、
それらしきものにたどりついても窮屈になるだけで満足はないし必ず例外が出てきます。

意味がないということは、虚無感を生むものではなく、「真理」「正しさ」からの解放なのだと思います。
Posted by rebirth at 2015年07月26日 10:37
真我があるのは

真実であり


自我があるのは

自然です



空間があるのは

真実であり


自然現象があるのは

自然です



真我も自我もあるがまま


空間も自然現象もあるがまま


ですね^^
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2015年07月26日 10:38
おはようございます


宇宙人☆

宇宙人☆

宇宙人☆


地球


なるほど~

無意味という意味付けをして虚無感を感じたというわけですね

でもね

もう少ししたらどこかの国から

宇宙人キターーーーーーーーーーーーー!

という発表があるんじゃないのでしょうか

そしたら

私達人類から退屈とか虚無感という言葉はなくなるでしょうね


ワクワク☆ワクワク☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2015年07月26日 10:42
たしかに。
時々、ただ起きてるだけ。
起こしてるのは私じゃない。
ごちゃ、ごちゃ・・・

などと思いだすと、これになんの意味があるのか、どう生きていけばいいのかとコンガラがります。
すべて自我の一人語なんでしょうね。
Posted by 太陽 at 2015年07月26日 11:04
やっば今日悟ったかも。。
Posted by 隆太 at 2015年07月26日 11:11
はじめまして。
まさに、今日書かれていたことと同じようなことが、私の身にも起きました。
ただし、32年前のことですが。

その時、「いまここ」に自分が在るということは、ものすごいことなんだ!
という興奮とともに、自分と他人や周りの物を隔てるものは何もなく、
すべては一つであり、すべてのことは完璧であるということが
「わかり」ました。

でも、直後に、人からの評価や、この状態を維持していくことへの不安が
起き、それは大きな恐怖と不安になって、徐々にパニック障害という
形であらわれました。
OSHO(当時はラジニーシですが)の瞑想にも通いましたが、
自我の抑える力が強く、不安は取れず、その後は2年ほどは感覚が
おかしくなり、カラダと自分が30センチくらい離れているような、
離人感に悩まされました。

で、何とかこの状態から抜け出そうともがいた末、(今思い出すと
おかしいのですが)物欲を意図的に増していって、グラウンディング
させていった感じです。
その後も精神世界の探求は続けましたが、悟りではなく、
ひたすら里行での苦行→成長という公式を信じて、そこで
納得していました。
こちらにもときどきお邪魔していたのですが、もう私には遠い話、
というのが正直な感想でした。
(でもなぜか、読んでいたんですよね 笑)

ところが最近、親の介護問題という、大きな人生の壁にぶち当たりまして、
もう一度32年前の体験を見つめ直してみたいと、そこに出口があると
感じるようになって、ようやく阿部さんのおっしゃっていることが
胸に響いて来たんです。
そして、いろんな悟り本を読み始め、動画を見ています。
あの神秘的な一体感は、もう封印してしまったようで感じられないのすが、
新しい人生を始めていることは確かです。

ずっとここで待っていてくださって、ありがとうございます。
お礼を申し上げたくて、書き込みしました。
Posted by 恍惚 at 2015年07月26日 11:21
出来事に意味(判断)を付けているのは、自我なんですね!

過去の記憶によって…
Posted by けん at 2015年07月26日 11:25
そろそろうちの近所も、

毎年恒例の夏祭りが始まります。

お祭りを見る度にこの騒ぎに何の意味があるのだろう、

と思ったものです(⌒-⌒)
Posted by 内村周真 at 2015年07月26日 11:35
いちいち色々な出来事、行動に意味付けしようと起きる自我。
この性質は私にもよく起こっています。
生に対してはそれが起こらなかったため、生きてることが無意味とは
感じなかったけれど、やりたいと思ったことに対しいちいち意味づけが起こっていて、勇気が持てなかったり困っています。
文字通りアタマでっかち。思考にエネルギーを与えすぎてるんだなと感じます。それも含めて全部完璧な流れですが( ̄O ̄;)

遊び心をわすれるなぁっ!
ア!もう一人の自分がなんか言ってる( ;´Д`)
Posted by 薄茶色 at 2015年07月26日 11:45
グラウンディングしませう!

いただいた命、味付けしまーす♪
日日是好日(^人^)
Posted by hirokOM at 2015年07月26日 12:00
ありがとうございます(^^)

阿部さんのそばにいると、自由になれる~♪



虚無感、私も感じたことありました。

自我がどんな状態の時に真理に触れたかによって、

そのあとの解釈や意味づけが決まるとこはありそうですよ

ね。


なにか目標とか生き甲斐を持って生きているときに、真理に

触れたならば、何もないことに虚しさを感じるかも。


逆に、自分が押し潰されそうな苦しみの中を生きているとき

真理に触れたならば、何もないことが、救いと感じるか

も。


かもかも(^^)


ほいじゃ阿部さん、いってらっしゃい(^^)/
Posted by ようこ at 2015年07月26日 12:12
虚しくなります。それは事実です。そのとき、ふと人生の無意味さに堪え兼ねてふと終わりを望むこともあります。それが自我が思わせていること、確かにその通りですね。マトリックスの場面にあるように、ステーキを食いながらこれは幻であると知っている。だから虚しくなって死にたくなるか、あるいは、かの人物のように記憶を消して幻に浸かって生きることを選ぶか。どちらも禅の真理からは遠いでしょうね。禅がいうのは、それらをすべて知った上でいまここにあれということでしょうから。
Posted by クゥ at 2015年07月26日 12:14
いつもありがとうございます。

今日も良き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2015年07月26日 12:29
全てが完全完璧である事に気づいた時、発生するのは「虚無」ではなく、「感謝」です。
あなた(自分、個人)が生きているのではなく、神(全体)に生かされているという自覚です。

全ては完全、ありがとう!^^
Posted by 近藤 at 2015年07月26日 12:31
そもそも「意味」というもの、それ自体が観念なのだ。

出来事に意味はないとか、そんな言葉も物語だ。

観念を、観念で結論付けてるだけ。

さあ、無意味に苦しもう。

虚無主義万歳!!
Posted by rakuninaritai at 2015年07月26日 12:58
アンチはファン以上に
対象のファンであるyes≧∇≦\(- -;kの残数…。
なぜなら、彼(彼女)らのアタマの中は、
常に対象のコトでいっぱいだから(♡)、要するに、その言動の内容を問わず、
皮肉にも実話!
アンチの根底に在るのは、
対象への愛なのです(愛)その度合いは、
通常のファン?のそれより大きく、そして深いのです。条件付けらた思考は(条件付けられていない反応はありませんし、条件付けられていない自由な思考はありませんので…汗)、エゴは、この指摘を否定することができます。我、変えることはできません。否定はできても変えることができないものを事実というからです(≧∇≦\(- -;k
Posted by シエル at 2015年07月26日 13:47
万物はただ創造されたままに在るだけであり、それだけで完全で完璧です。

万物はただ在るだけで、
目的を果たしているのです。


存在そのものが意味です。

万物はすでにそれが
「意味する」ところなのです。

意味とは、

思考や定義の領域にあるものです。


美しい夕日は何を意味しているのでしょうか?

何も意味していません。

それはただ、驚くほどにそれ自体で完全かつ完璧です。


霊的な真理は意味を超えています。

それは何も意味してはいません。


それはただ知られるのであり、
しかも、
そのものになることによってのみ知られるのです。


「虚」を認識する者など存在しない。
Posted by 無 at 2015年07月26日 14:29
今日もご苦労様です。

今日は暑いので休養して、体力を回復させています。

草刈りとか、色々ありますが、また、やれる時があるでしょう。
Posted by ひよどり at 2015年07月26日 14:37
一瞥→思い出す→創造物を体験している創造者→救われていた→苦からの開放感→安心感・安堵感→神秘な仕組みへの号泣→3週間→もとのもくあみ(笑)→超虚無感・超生きたくない感→苦の再来(笑)→知識・情報の収集→なんとなく自我の悟り(笑)→あ 違うと気がつく→顕示欲とか優越感とか→自我意識への俯瞰→思考からの解放→自己存在への自由な出入り→自我創造物への客観視・観察行為→自我意識からの解放→存在が私から目覚めてくれた。→色んな人の自我意識の動向が理解できるが 言えないw

こんな カンジです。(笑)
Posted by Kの残像・・・超虚無感ありました。 at 2015年07月26日 14:38
毎日のブログ、

ありがとうございます、

一人でも、多くの心が
平和でありますように,

お身体に気を付けて…、
Posted by ゆきやなぎ at 2015年07月26日 16:22
「すべてが完璧」という言葉は、「すべてが愛」という言葉と同義語です
すべてが無条件の愛である、という根拠のない確信が
自分自身の内側からも、外側にも現れています
すでに現れているので、探す必要はありません
ただ自我の誤解を溶き、自我の見せるものがただの混乱の糸だと見抜くだけです
その糸が空を覆う雨雲のように、真実(それ)を見えなくしているだけです
混乱した糸が、あなたを「これが私=人生」だと思わせています
つねにそっちに気を取られているので、勘違いしているだけです

すべてが完璧とは、すべて=完璧=愛=あなたということです

伝えるという行為の現れには、言葉が必要になってしまいますが
言葉そのものに囚われてしまうことと、思考に囚われることは同じことです
思考とは言葉です
「それ」があるのは、常にその先です

「それ」は言葉の先、または奥にある、と言うのですが
そう言うとまた、思考はそれを探しにどこかへ向かいます
ですから最初は、感じる、ということが必要になってきます
ノンデュアリティーから現れる「すべて」「完璧」「愛」
という言葉からあなたのハートはどんな共振をするでしょうか
それは、安心から安心への誘いなのです
Posted by かみゆ at 2015年07月26日 16:26
土台が崩れる…


これが未だ来ない…
崩れそうで崩れない、、

ほぼ虐待に近い環境で育ったACは、

周りを信頼できず、

自分を見張る自我だけが、異常に発達する。

結果、悟りへの道が至難になる。

意味など要らない。
人生さえ要らない。

なぜ生まれてきたのか、
自分で選んだとか、わからないし要らない。

心に深い傷を負い、
それゆえに悟りを求める者へも何か記事を
頂けたら嬉しいと思います。

ありがとうございます。
Posted by サバイバー at 2015年07月26日 17:02
な、なるほど…

グラウンディングを、ちょっと頑張ってみようかなって思いました。

今日も、ありがとうございます。
Posted by 白玉 at 2015年07月26日 17:29
言ってしまい…なさいs≧∇≦\(- -;k#
Posted by シエル at 2015年07月26日 17:31
>かみゆさん

>安心から安心への誘いなのです

素晴らしい(⌒-⌒)
Posted by 内村周真 at 2015年07月26日 17:44
かみゆさん、あたたかいメッセージありがとう。(ございます)
私向けでないかもしれませんが。。
Posted by rakuninaritai at 2015年07月26日 19:40
悟りの瞬間と、それを評価する時間帯、その行き来さえ、起きているだけですね。

迷ったときには、ここに来て休んでおります。

止まり木の提供に感謝です。
Posted by とらこ at 2015年07月26日 20:00
阿部さん、昨日は瞑想とお話し、ありがとうございます。
まさかブログに書いていただけるなんて感激です。そして皆さんのコメントにを読んで、なお一層理解が深まったような気がします。
まさしく、昨日阿部さんに言われた通り、すべて「自我」が「意味がない=つまらない」と意味づけしていたのだと言われて、ストンと納得できました。ますます、この世界が面白く感じれました。
ちなみにその時の体験記をブログに書いてました。

悟りと瞑想についてhttp://blog.livedoor.jp/mela1978/archives/43364244.html
悟りと瞑想について 2
http://blog.livedoor.jp/mela1978/archives/43364287.html
悟りと瞑想について 3
http://blog.livedoor.jp/mela1978/archives/43364287.html

他の方のコメントでありましたが、一応「意味は自分で勝手につけていい」として、自由にやらせていただいてます。
それにしても阿部さんの「キラキラ」オーラには、なんだかこちらも思わず笑みがこぼれました。本当にいつもありがとうございます。
Posted by メラ at 2015年07月26日 21:08
いま私は目の前に起きている現実で、生きてることの現実に戸惑い、思考がとまったら1日のどこかで、ここに来るようにしています。

阿部さんの何かをほんの少し嗅ぎつけ始めた私はいま、1日一回ここにくることで、ホントの自分とのバランスが取れてる気がします。
Posted by スリープ at 2015年07月26日 21:44
初めてコメント致します。いつもブログを楽しみに拝見しています。
一つの一生は、100年も生きません。昔は人生50年とも言われていました。せっかく生まれてきたのですから、様々な苦労も、楽しみも、たっぷり楽しみたいです。虚しい感覚は、もったいないように思います。光陰矢の如しです。日々はすばやく過ぎ去ってしまうのですから。齢を重ねるごとに実感する毎日です。ささ、いまここを、この瞬間を味わい尽くしましょう。
阿部さん、様々なお題をいつもありがとうございます。
Posted by 星と月と at 2015年07月26日 22:06
管理人様
先程初コメントしましたが、阿部さんのお名前の漢字がもしかして間違っていなかったでしょうか?申し訳ありませんが、ご確認の程お願い致します。
どうぞよろしくお願い致します。
確認画面に気が付かず、大変申し訳ありません。
Posted by 星と月と at 2015年07月26日 22:14
先日のブログをみて「いまひとつ?」とコメントしたのですが、それを言いたかったのだと思ったのです。
意味のない事の虚無感で生きていてもしょうがない。
でも、ちょっと言い方が違うだけですけど、私のは、
何もない、起きる事が起きているだけ、誰もいない、幻想の現実の私、、、現象であれ肉体を持って生きていてもしょうがないのでは?
と思いました。
でも、これは、自我からくるものなのですね。
でも、幻想の私であれ、孤独感、いろんな感情の執着、恨みなどで生きている状態なので、自我だといわれても自我が起きている事が起きているだけですね、というだけでいつまでたっても、どこまでいっても、自我が終わらないです。
それが、自我の性質ですか。。。
いつもはめられているのか、、、自我に、、、
だから、どうすれば、、となるわけです。

すみません、だらだらと。
でも、ノンドゥアリティでない私にはどうすることもできないです。
すでに愛の中にあったって、起きることが起きているだけなのですよね。

ただ、ブログを見て自我の私があーだこーだと言っている間は、恨みつらみ、孤独感はないからいいと言えばいいのかも。
Posted by いまひとつ? at 2015年07月26日 23:01
目覚めにも、いろいろあるのでしょう。

物質の顕れには、三種類のグナ(性質)があるとされています。
サットワ、タマス、ラジャス。
人間の性質にも、これが当てはまります。
この世のすべての顕れは、この3つのグナにより決定されているというわけです。

一瞥体験のあとのプロセスにも、このことが言えるかもしれませんね。

そのまま至福体験へと移行するか?
マインドに戻ってしまうか?
は、人それぞれの性質により、決まっているのでしょう。

それもただの顕れです。

ご本人には辛い体験となってしまうこともあるかと思いますが、
"あなた"を通して、トリグナ(物質の三態)が顕れているだけなのです。

チャクラでいうと、クンダリーニが第4チャクラまで上がると、それ以下には落ちないと言われています。

第4チャクラは、ハートのチャクラです。
"愛"に目覚め、意識が全体へとシフトしていくと、虚無感には囚われなくなるように感じます。

全体を意識するようになるので、孤立感から連帯感、分離意識から同胞意識へと、意識が転換します。

そして、それは、良いとか悪いということではなく、
すべては、トリグナの顕れとして在るだけなのです。

"愛"に目覚めるか、否か?

全体性に目覚めていくには、"愛"は重要なポイントです。

"個"から"全体"へ、意識の転換が求められているのです。
Posted by カイヴァルヤ at 2015年07月26日 23:03
気づいた時におきる虚無感
私しも実感しました

そしてつぎに
それすらもマインドの仕業なのらだろーということ

ただ
気づいたからといって、マインドをすてなくていい。
無理矢理ノンデュアリティの域をめざすことはない。

おおいなるものから、出現したいのち

肉体をもち、エゴをもった。
それならば、とことん体験し、かんじればいい。
それも
大いなる一部
Posted by さち at 2015年07月26日 23:36
今日の大和田さんの講演会、私たちが質問したいようなことを阿部さんが沢山聞いてくれたので、とても分かり易くて面白かったです。

また、場のバイブレーションが、言葉では上手く言い表せられないのですが、何だかスーッとしている感じがして不思議でした。

まだまだノンデュアリティの境地には程遠い私ですが、今日阿部さんが仰っていたように、この情報に日々少しの時間でも触れ続けていることが、一番近道?なのだろうと思いました。

ナチュスピから出版されたトニー・パーソンズさんの本も読んでみようと思います。
Posted by 齋藤弘之 at 2015年07月26日 23:38
敬愛するあべさんへ

これから書く内容はあまり気持ちの良いものではありませんので、承諾するかしないかは、あべさんにお任せします。
ひとつのメッセージとして、愛する同胞の方々へ少しでもお役にたてるのなら…。

私は三回、肉体的に死にました。
いずれも心肺停止ですが、死に方によって、この着ぐるみのような肉体を脱ぐ「今」の感覚に差がありました。

そのうち二回は、自然的なものでした。
途中で同じ方が体に戻してくださいました。
詳しくは、あべさんの楽しみのために内緒です。(例えるなら、ミステリー小説の最初に犯人はこの人って落書きあったらがっかりされると思うんです)
ただ、心臓マッサージで肋骨折れちゃいましたが…(*_*)

問題は残りの一回です。
最初の肉体的な死を体感したのですが…自分で私を殺しました。

その時の感覚は何度もその瞬間が繰り返される感じで…今が永遠なんです。
心で何度も絶叫しました。
人の一生分のようなそんな短いトキでは済まされない…
地獄や魔界の観念がありますが、それを示してるのかな、と。
思うだけで、確信は出来ませんけど…その先もあるのかもしれませんし…
戻ってこれたのは、幸いでした。
人の「今」でいうなら、ほんの何分か…の間でした。

だから…自分で命を絶つのは、やめて欲しいと、心から切に思います。
あと、当然ですけど、人の命も大切に…です。

この体験をした後に、妙に感覚が澄みきったような、鋭くなったような、そんな状態になりました。
「うつ」から「対人恐怖症」になってしまった訳ですが…

今なら、あの体験も無駄ではないと、思います。
あべさんへご報告出来ましたから…

いつもあべさんの温かいメッセージに救われています。
これから夏本番ですね、あべさんのメッセージにほっこりしながら、「今」に右往左往しながら、生きてる限り私の役割を果たしたいなって思います。

ここまで読んでくださいまして、ありがとうございました。
Posted by 白玉 at 2015年07月27日 00:05
全ての人の意識が上がり、平和だけの世界になったら、それはそれでまた退屈になって、苦しみも味わうことのできるゲームが再び始まることになるのかな?

自我がそんな疑問をふと抱いたようです。
Posted by にゃお at 2015年07月27日 00:09
今日の講演会で、あ!あ!
の連続でした。

非二元は、愛そのものでした。

言葉にするなら、ふわりで、甘くて、軟らかくて、幸せで、神な感じ。
わたしは居ないし、過去も未来もなかったです。


シンプル過ぎです。ただあるだけですね。

横に繋がる時間が消えて、無限に広がり、同時に極小になりました。

あとは、アハハ。笑いがでました。

ありがとうございました。
Posted by ハム at 2015年07月27日 00:30
>多くの人には、悟りの瞬間と、その瞬間を評価する時間帯と、その両方が起きることでしょう。

少数の人には、その両方が 矛盾することなく 同時に起き、継続されることが 起きますが、やがて 何も 起きていない場所に 回帰されるのでしょう。

講演会にも 関わらず、コメ欄のメンテ お疲れ様でした。としろうさま。。。
Posted by Kの残像 at 2015年07月27日 07:13
わかりそうで、わからなそうで、わかりそう、、、
阿部さんが言っていた状態は私の状態でした。
軽妙な会話に吸い込まれたと思ったら究極の真理に繋がる、
甘露の時間でした。

素敵なコラボ講演会ありがとうございました。
Posted by skuyahime at 2015年07月27日 09:08
!(^^)!また感動しました。今これを見て、物事を言っている私、・自我ですが。それからは離れられないですから。
Posted by よしべい at 2015年07月27日 09:47
うんうん
私もありました(笑)
自分がいましたね〜✨✨

でもそれもで完璧だから
なんにも心配いらないですね☺️
Posted by 天川惠理子 at 2015年07月27日 09:57
カミの残像さん

目覚めのプロセス、個のストーリーのシェア、ありがとうございます。
そろそろ、お別れの時が来ているのではありませんか?残像に(笑)
カミはなくても大丈夫です。
あなたが、それなので。
ストーリーは、そのことを識るためにある。。。
カミの残像があると思っているのは、自分だけ、マインドだけです。
そのマインドを手放せば、終ります。
あっけないです。
拘っているのは、躊躇しているのは、マインドだけなのです。
そこに在るのは、2000本のウブゲではなく、ホンモノのカミなのです。
それを、心の底から納得すればいいのです。
Posted by 姉さんより at 2015年07月27日 10:28
姉さん お言葉 ありがとう。

でもね、私は うぶ毛に 愛着を持ちます(笑)

慣れ親しんで きましたので、・・・。w
Posted by K at 2015年07月27日 11:13
K さん

残像が消えましたね(笑)

拘りでなく、躊躇でもなく、愛情ですか?!!Σ(×_×;)!

愛着、執着も、完全に"個"のものですね
(;´_ゝ`)

Kさんが求めているのはウブゲではなく、ホンモノのカミですよね?(/。\)
Posted by 姉御より at 2015年07月27日 12:46
全国一千万人のリーラファンのみなさんw のために 姉御への返信を

記しましょう(笑)ほんとは 書かんでもいいんだけどさw

「求める時代は 幕を 下ろしました。

求めずとも 我らが それなり・・・」

     あなたと共に みなさんと 共に。。。
Posted by Kの残像  at 2015年07月27日 16:48
意味がないと思う虚無感・・・

分かるなぁ。。

虚無感を持ちながらも、一部垣間見た
『それ』の全体が、すぐ側にあるという
感覚が少なからずあるのではないでしょうか?

そして、そこまで来たら
日常の中で頻繁に一部を垣間見る事が多くなってくる。虚無感と喜びがこれまで以上に極端に感じて疲れてしまう。

しかしここまで来たら後戻りは出来ないような気がします。

だから、
一部分は感じたけれども
『それの全体』を感じる為に

『今』を徹底して感じてみる。

これが禅というのでしょうか。
Posted by あさみ at 2015年07月29日 09:33
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。