2009年02月03日

目覚め

目覚めや悟りを経験すると、どんな人になると思いますか。

以前このブログでも同じような質問を受けました。


人はすでに、目覚めや悟りに対して先入観を持っています。

悟った人は、こんな雰囲気になって、何をして、何をしないというリストを持っているのです。

そして、長年かけてそういう人になろうとしますが、やめておいたほうがいいです。

何故なら、そのリストそのものが間違っているからです。


たとえば

「穏やかで感情の起伏が少ない」

「誰にでも優しい」

「いつも微笑みをたたえている」

「落ち込むことがない」

「物欲がない」

「性の衝動を超越している」

「常に寛容的だ」

・・・・・

・・・・・etc.



そうなりたいと願い、いつもそんな自分でいるべきだと考え、そうではない自分が出てくると、自分を責めたり、失望したりする人がいます。

長年修行を続けてきたのに、いまだにそんな自分が顔をだすと言って嘆く人がいます。

ずいぶん成長したと思ったのに、ちょっとしたことで台無しです。



そりゃあそうですよ、だって人間だもの。

いったい何になろうと言うんですか?



もし悟った人に共通する部分があるとしたら、それは「変な人」くらいだと思います(笑)

人の評価にあまり関心がなくなり、自分の心のままに生き出すので、多くの場合変人に見られます。


言いたいことを言い、やりたいことだけをやりだすと思います。

しかしそれも個人差があり、こうなるとは言いきれません。


少なくとも、高潔で聖なる存在でないことだけは確かです。

それじゃあ目覚めても意味がないじゃないか、尊敬できないじゃないかと思うかもしれませんが、そのような考え方がすでに「人間とはこうあるべき」という観念にはまっています。


どうであれ、目覚めは大切です。

それは目覚めればわかります。

全ての人にとって、人生で唯一大切な経験です。

それがなければこの世で何を得たとしても、意味がないとさえ言いきれます。


このように断言すると、お前みたいな者に何がわかると思われてしまいます。

人は自分が知らないことを断定的に言われると面白くないのです。

理屈をつけて心の中で僕を負かし、自分が優位に立とうとします。


そういう時は、昔から、こう答えてきました。

「私は目覚めを一瞬垣間見ただけの人間です。まだまだ道半ばです」と。

そう言えば、たいていの人は納得してくれました。


でも実際には目覚めに段階などありません。

目覚めたか、眠りこけているかの違いだけです。



目覚めたらどんな人になるのでしょう。


その答えは簡単です。

その人自身になるのです。



いま、急速に目覚めの連鎖反応が始まっています。

このブログにも、そのような人たちが集まってくれています。


目覚めたらこうなるはずだという先入観に惑わされずに、正直に自分自身を生きてください。


思いやりにあふれる時もあれば、恨んだり怒ったりする時もあります。

力強く胸を張る時があれば、意気消沈するときもあるのです。


そのような振幅に対して、自分にはどうすることもできないということを認めた時、安らぎと、人に対する本当の慈しみが芽生えはじめます。


それが悟りの一瞥につながっていきます。




今日もここに来てくれてありがとうございました。




・・・・・・・・・・・



さて、沖縄のみなさん。

久しぶりにコンサートをしますから遊びに来ませんか。

ライブならではの一体感を楽しみましょう(^o^)

詳しくはコチラから。



Posted by Toshiro Abe at 08:59│Comments(34)
この記事へのコメント
おはよーございます。だらだら付けっぱなしにしていたNHKは、いつの間にか国会中継です。このような日本の経済を牛耳っている?方々の何人がこのブログを読まれているのでしょう。皆無? ふ‥とそんなことを思ったりしてしまいました。この方々は先を見通した「魂」の時代の、なにひとつも学ばれてなければ‥感じてもいらっしゃらないのでしょうか‥。
「目覚め」がすべての方々に降り注がれていきますように。
私は今朝のブログを、ただただ心で感じ、時折笑みを浮かべながら温かい珈琲をいただいています。
とっても美味しいです。
ありがとう。
Posted by katsuko at 2009年02月03日 09:13
何事にも拘らずに今ここを生きるということですね

黒木 拝
Posted by 東京・黒木 at 2009年02月03日 09:42
おはようございます。
はじめまして。

『自分とは何か』と悩み、汚い感情の自分や他人、職場の理想と現実のギャップなどいろいろ考えて無理に自分の感情を抑えていました。

自分が悪いから相手を苦手に思い、相手は悪くないのにと…無理に思っていました。
相手が原因でもあるし…
今日の記事で楽になりました。

いろいろな人もいて、いろいろな考えもあって、でも…自分を大切にして…調和して…。
Posted by ラブ☆サト at 2009年02月03日 09:54
「雌伏と雄飛」

阿部敏郎さん、いつもありがとうございます。

ちょっと遅れましたが、沖縄の雲黒斎さんとのコラボ、
大成功だったみたいですね。ご同慶の至りです。

さて、「目覚め」ですね。
だれでも朝になれば、時が熟せば、目覚めることはできるから、とくに「目覚めたい」と意識して眠りに就く必要はない、眠ればいつかは目覚める、それを待つということ。その待ち方なのでしょうね、いわゆる「悟り」を迎えるためのスタンスというか、姿勢というか…。

昔からの言葉に「雌伏」と「雄飛」というものがあります。
「雌伏」は「実力を養いながらじっと活躍のときを待つ」というニュアンスで「雌(♀)」の字を使っており、“雌が雄のされるがままになっている”という意味に取られることもあるようですが、これは、その次のステップで、子を産んだ母の状況になれば、やはり“女は弱し、されど母は強し”ということの象徴のように思います。

逆に「雄飛」は、「雄(♂)」の字を象徴的に使い、「活躍の場を得て勢いよく飛び立つ」の意に使われますが、これだって、いつまでも跳び続けることはできない。やっぱり飛び立っても休んだり、エサもついばまなければないない。結局は、「雄飛」の前と同じことをする必要はあるということですね。それと、昔の時代に合わせて便宜的に“雌が伏し、雄が飛ぶ”と表現しただけで、男女の区別なく、人類共通の経験として、この「雌伏」と「雄飛」の間に経験すること、それが「悟り」なのではないか、と思うのです。

ただ「悟り」という言葉の持つ魔力のようなものがあるのでしょうか、「悟り」というとどうしても特別のこと(実際、そうなのでしょうが)のように思えてしまう。

「雌伏」だって「至福」の字を充てれば同じ読み方で全然意味が違ってくる。「雄飛」と「夕陽」も同じこと。こだわらないこと、とらわれないこと、むさぼらないこと、あせらないこと、思い込まないこと、

まさに、お・い・あ・く・ま、ですね。
 お=怒るな
 い=いばるな
 あ=あせるな
 く=くさるな
 ま=まけるな(他人にではなく、あえて自己嫌悪に)
*「おいあくま」は、住友銀行(当時)で18年間以上頭取を務められた堀田庄三(ほったしょうぞう)氏が訓辞で社員にいつも説き続けられていた言葉として伝えられています。
Posted by 二代目勤勉亭親不孝 at 2009年02月03日 10:13
阿部さん、おはようございます♪
今日は節分ですね~ 阿部さんは鬼になるんですか?(笑)

実は私、昨日の夜から いま阿部さんのメッセージを読むまで、
「意気消沈」している状態でした(・_・、)

「疲れちゃってるのかな…」って、自分を納得させようとしてましたが、
いま はっきり本当の答えがわかりました!

昨日、阿部さんに私の話したいことを知ってほしかったのに、
長くなっちゃうし…とか余計なことをいろいろ考えて書けなかったことが原因でした(>_<)
それで、なんか悲しくなっちゃったみたいです(ノ_・。) ばかですね

でもそんなのもうやめにして、こうやって自分に正直に、
思いのままに阿部さんに伝えられるとわかったら、
急にむくむく元気になってきちゃいましたっ♪
単純でよかった(・◇・)

私が最近、何かにつけて思うフレーズで、

「だって人間なんだもん!」

があるんですけど、
やっぱり阿部さんだ~♪って、いま すっごく嬉しくなりましたo(^-^)o

これからも、自由に自分に正直に、素直にありのままの私で生きていきます♪

阿部さん、今日も大好き(*^▽^*)

素敵な一日になりそうだわ♪♪♪
阿部さんと、皆さんも気分よく今日を過ごすますように☆
Posted by 静香 at 2009年02月03日 10:18
阿部さん、おはよー!
今日も素敵なお話をありがとう!
阿部さんの言葉ひとつひとつに愛をかんじて
どうしてこんなに涙が溢れてくるんだろうって
自分でも不思議なんだけど、本当の自分がきっと喜んでるんだからだろうね。
阿部さんの助言どおり、目覚めに左右されず
自分自身に正直に生きて本当の自分に還りたいと思います。
今日も本当にありがとう!
Posted by かな at 2009年02月03日 10:23
自分はよく人に「変ってる」って言われました。
奇人ではないですよw
自分では常識派のつもりで、普通にやっているんですが
それでもやっぱりちょっと違うようです。

とても悩んで普通ってなんだろう…って考え、演じていた時が
長かったのですが、いろんな本を読み、阿部さんに出会えて
今のままで良いんだって、とても楽になりました。

すると、嫌な奴がいっぱいだった回りが良い人だらけになってました。嫌な奴って言われても思い浮かばないのです。
不思議ですよね ( ´ ▽` )

今日から新しい節目ですね。
すばらしい年になりますように。
Posted by 福郎 at 2009年02月03日 10:43
久しぶりにレスします♪
雲さんとのコラボ講演会、とてもワクワクドキドキ楽しませていただきました!
本当に、ありがとうございます。

雲さんが、女性のエクスタシーに例えていた件ですが、とても分かりやすかったのですが(笑)、お伺いしたいことがあります。

それは、「うおーーーー!」っというほどの、ものすご~いエクスタシーなのでしょうか?(変な表現で、スミマセン:笑)
これはすべての人に当てはまるのでしょうか?

私は、まったく何も無い世界を垣間見たのですが(そのつもりですが)、それは強烈なエクスタシーと呼べるほどのものではなかったです。
たった1~2秒でしたが、戻る瞬間に「怖い」と感じ、戻りました。
戻ったあとは、「なーんだ。あはは。そうだったのか。」って感じでしたが、いろんな方が言う、「光に包まれた!」とか「すべてが分かったぞー!」とか「私は神と同じものだった!」とか、「パズルの一部だと気づいた」とか、「泣きじゃくった。」とかはありませんでした。
逆に、イメージとしては真っ黒の宇宙の包まれた感じで、ただ、「何もない」を知りました。

でも、いろんな方のお話を聞いていると、「真っ白い光だった!」とか、「すべての答えを見た」とか、すごいお話を聞きます。
「え?そうなんだ・・・じゃあ、私が体感したアレは、一体、なんだったのさ」ってなるわけです(苦笑)。

だからといって、自分が捉えたものが間違っていると言われても、「え?じゃあ、あれは何だったのさ?」と思うし(苦笑)。。。
講演会のときに、お二人が、「誰に何を言われようと、まったく揺るがない。」とおっしゃていたのが印象的で、心に残っているのです。

エクスタシーは感じるけど、それほど、「うおーーー!」とか「すっげーーーー!」とか(笑)、思うほどのものでもなかったというか・・・
それが、なぜなのか。。。
「え?じゃあ、あれは、ニセモノだったんかい?・・・いやいや、そうは思えんが。。。。」となるわけです(笑)。

もしかして、人によって、その体験は、イメージも異なるし、強弱というか、温度差というか、そういったものもあるのでしょうか?
さらには、その体験ですら、この世界では、比較や批判が起きてしまうものなのですか?

長くなりましたが、私の体験は、確かに衝撃的であり、今でもそこに戻ると静けさに満たされるけど、皆様が言うものより、案外あっさりだったので、そこがよく分からないのです。

どうか、その辺りについて、お話をお聞かせいただけますか?
Posted by まあるママ at 2009年02月03日 10:49
初めまして、阿部さん。
ブログは毎日拝見していましたが、今回は初めて書き込み致します。

今日のブログは私に対して問いかけているのか?と思い、
ドキッ!っとしました。

私は仏教徒です。
とても熱心な教徒とは言えませんが、それなりに自分を成長させる意味でも
良かれと思い続けております。

が・・・・私の中で何かまだ腑に落ちないというか・・・
納得していないところがあったんですね。
周りの方が一心に祈り、苦難を乗り越え、幸せを手に
しているのを見ると、やっぱり信じる者は救われるの
かしら?と思う反面、「何か違う」といつも心のどこか
で思っていました。

真剣に歩めない。そんな自分自身をせめてもいました。

仏教も素晴らしい教えだと思いますが、なんでしょう?
それだけ~!という考えにどうしてもなれないんですよ!

ですが阿部さんのブログを拝見した時、「そうだ!そうだ!」って納得している私がいました。

これでいいんだ!とホッとしました。
何だか呪縛から解き放たれた?そんな気分です(笑)

ありがとうございました。
Posted by モンブラン at 2009年02月03日 11:07
おはようございます。

今日のブログを読んで一つ疑問が出てきたので教えて下さい。

「生きることは苦しみである」って言われますよね?

やっぱり悟っても苦しみがなくなることはないのでしょうか?

苦しむこともそれはそれでありなのかな?と思う今日この頃。

どうなのか教えて下さい。

今日のいまここ塾も楽しみにしています!!
Posted by ほこぴーほこぴー at 2009年02月03日 11:27
こんにちは。

以前私が感じたことです。

小さな気付きを重ねていく間で気付いたこと(?)は、

だんだんと自分自身が普通に戻っているいるような感覚?みたいな

ちょっと不思議な感覚を体験したことがあります。

(それまでが普通じゃなかったということでもなく、)

今日、阿部さんが云われた、・・・目覚めるとあなた自身になる・・・

特別な自分ではなく、このままの私が本来のわたし・・・なのだとガッテンしま

した☆☆☆

普通(遍?)のわたしに戻ってからは、いまここを生きることが愉しくなり、喜

怒哀楽的なことがあっても流されない何か・・・を感じながら、それでいて日々

の変化を慈しんでいるわたしです。今、主婦業が最高に楽しいです★

当たり前の自分自身でいられることに感謝!!


  阿部さん今日もありがとうございました★


  
Posted by 一草一花 at 2009年02月03日 11:31
たびたび、すみません(> <;)。
さっきの質問すら、本当はナンセンスだと思うのですが(> <;)、このような話しをするのが好きでして・・・(^ ^;)。
すみません。出来ればでいいので、どうか阿部さんの考えをお聞かせいただけると嬉しいですm(_ _)m。
Posted by まあるママ at 2009年02月03日 11:35
阿部さんとは、いつか‥普通に会って普通に雑談したいです
お互いに変人同士だから、気が合うかわかりませんが(*´д`*)
Posted by 自由自在 at 2009年02月03日 12:02
ちょうど自分に失望中のとこでした、、
昨日からお腹も痛くなるほどに思いつめ
人の目を気にして、自分を良く見せようと、
なんて自意識過剰なんでしょう(^_^;)

はははっはー(^O^)
今日のブログをみて声だして笑っちゃいましたぁ。

なんで、苦しい感情を抱こうとするのか・・
全く誰になろうとしてるの?って突っ込んでしまいした!
でもそれが人間ですね、
今日もまた阿部さんに見透かされたようなブログの内容に、
すべては一つ(繋がってる)だと感じられずにはいられませんです。
はい(*^_^*)
ありがとうございます。
Posted by tomatoma at 2009年02月03日 12:32
まあるママ さんのコメントを読んで・・・

私はまだ「目覚め」てないところですが
私もそんな感覚になるんじゃないかと、思ったんです。

初めて、この精神世界の扉を開いた1週間は気が楽になり
「そんな話を聞く」だけでうっとりお花畑にいるような感覚でした。

そして、しばらくしてまたこっちの世界の情報によって
「評価」「価値観」まみれになってウダウダもがいたり
ぷはぁっと顔をだしたり、してます。

目覚め・・・たい!
Posted by NACK at 2009年02月03日 13:10
質問なのですが、そうすると、悟った人と覚者とは同じものでしょうか?

また悟った人でもあやまちは犯すのでしょうか?失敗や過失というものもあるのでしょうか?

どうも悟った人とか覚者というものがわからなくなっております。
Posted by 寅吉 at 2009年02月03日 13:29
目覚めたら・・・
その人自身になる


それが、創造と共に 在る

ということかなあ、と思いました。(^-^)
Posted by 菜緒 at 2009年02月03日 14:26
うーーーん・・・

阿部さんは何度もこのようなお話をされていますね。

そしてぼくは何度も同じ疑問を持ちます。

「欲や怒りをなくす努力をすべきではないのか?」

その疑問に阿部さんは「乗り越えるもの」というようなお答えをされていると思うんですが、

まだ飲み込めません・・・
Posted by ゆーきー at 2009年02月03日 15:24
阿部パパ今日もありがとうございます(*゚▽゚)ノ

今日の話はパパの真骨頂ですね。ちょー楽しい。

パパは悟りの常識をことごとく破壊してくれるから好きだな。
目覚めや悟りの経験は人生最大の喜びであるのと同時に、
実際、ちっとも大それたものではないのかもしれませんね。
なんせ「悟り(差取り)」の差は自分の思い込みなのだから、
高潔で聖なる存在というイメージはほんとうっとおしい(笑)
目覚めている幼子を見て誰も高潔なんて思わないのにね。
覚者は常識を鼻で笑い飛ばして遊び続けている人でしょう?

今日のパパの宣言はきっと自分への挑戦ですよ。

悟った人がいかに変人かを実証する(笑)

「自由」を体現する。

怒ったり、落ち込んだり、エロかったり・・・

野グソとかするといいかもね。

読者は「あっ、悟っている人も野グソするんだ!」ってなる(爆)
それで読者が野グソし出したら地球はウンチまみれですが、
悟りが「何をするか」でなく「どう在るか」に気づくかもしれない。
人は「自分自分が持っているもの」だけを好きになるように、
パパは一休さんが好きだから「自由な変人」がパパらしい。

パパは高潔になったらあきまへん(開きまへん)。

まあ、そんな偽者にはなれないだろうけど(笑)

アーッヒャヒャヒャーΨ(゚∀゚ )Ψ(゚∀゚)Ψ( ゚∀゚)Ψアーッヒャヒャヒャー
Posted by えり at 2009年02月03日 15:34
遠い遠い昔のこと。
記者会見前のダライ・ラマが外人記者と打ち合わせをしている現場に居合わせたことがあります。
その時、ダライ・ラマがあまりに普通で、人間くさくて、いわゆる聖者のイメージから程遠くて、戸惑いました。

ヨガナンダの自伝を読んだ時も、素直に感情を露出していることに、驚きました。
マザー・テレサが、貧しき者のためとはいえ、せっせとお金を集めることに違和感を覚えたこともあります。

随分と先入観とイメージに囚われていたものです。

イエス様も、陽気でユーモアがあったとか。

自然体で、なおかつ意識が全てにいきわたっているのが、いいのでしょうね。

今日も、ありがとうございました。
Posted by よしこさん at 2009年02月03日 15:51
洗礼を受ける前に回りのクリスチャンたちから「神様が自分の人生に入ってくる」ということを聞かされて、神様に話しかけてもらえない自分を卑下していました。
それは個人差であり、神様の個々への関り方は千差万別で一番大切なのは神様の愛をそこここでわかることだと知ってから随分気が楽になったことを思い出しました。

今日の阿部さんのお話と自分の体験を重ね合わせて考えました。

イギリスは18年ぶりの悪天候なんだそうです。今日のコンサート盛り上がりますように。暖かそうで羨ましいです。(笑)
Posted by Marmite at 2009年02月03日 16:04
阿部さんの言葉はいつも優しく心に響きます。

自分は自分として他人の評価を気にしなくなるという事なのかなって思います。
人ってもともと好きな事しか出来ないように出来ていると思うのです。

少なくとも、自分はそう思うのです。


何かを得たとしてそれに気付ける心が大切なんですよね。
幸せを幸せだと感じられる心を養う為に生きている?
そういう事でしょうか?

疑問系なのにそれが答えだと思ってる自分がいます。

面白いですね。


今日もありがとうございました(_ _)
Posted by Shin at 2009年02月03日 16:17
コメントありがとうございます。

ここに来て下さる、多くのブッダの皆さんに、敬意を表します。


目覚めや悟りに関して、根強い誤解を持っている人も多いと感じました。

そのことについては、再度また明日お話しさせてください。


今日の沖縄は初夏のような暖かさです。



人類が平和でありますように。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2009年02月03日 16:18
こんにちは。

>そのような振幅に対して、自分にはどうすることもできないということを認めた時、安らぎと、人に対する本当の慈しみが芽生えはじめます

ここを読んだときに、涙が出てきました。

どんなに頑張っても、努力しても、どうすることもできないことがあって。
「それが私なんだ」と痛感していたところでした。

そして、それが同時に「私らしさ」でもあると。

みんな同じなんですよね。
「それぞれに違っていても、同じ部分」なんだな、とあらためて思いました。
Posted by Leaf at 2009年02月03日 16:58
こんばんは。
いつも阿部さんのブログを興味深く拝見しています。

先日のブログで「アミ 小さな宇宙人」の話をされていましたが、わたしも丁度その本を読んだところだったので、とても共感できるところがありました。

「千と千尋の神隠し」の映画の主題歌の、「いつも何度でも」という歌もとても阿部さんのブログに近いメッセージがあるのでは・・・と感じました。
よく見てみると世の中にそういうようなメッセージって多いんですね。

また明日からも楽しみにしてます^^
Posted by ようこ at 2009年02月03日 18:22
昨日の記事の

「兄弟だろ」

ってので阿部さんが好きになりました

早速お気に入りに登録
これからも、お邪魔させて下さい

偶然がないって話も
永遠は時間を超えたトコにあるって話も大好きです
Posted by えじ at 2009年02月03日 23:12
泥水が時間がたつにつれて

沈殿物と透き通った水に分かれてゆき、

積もった泥の中では蓮が育ち

透き通った水の中を通って

茎が異次元である水面に飛び出し、

そこに大輪の花を咲かせる。

泥は泥として、知らず知らずのうちに

高次元に咲く華を育て育み支えているという

大事な仕事をしている。

泥の無い透き通った水に咲ける華など

無いかもしれませんね。

この宇宙全てが奇跡の共同実験場

終わりの無い進化を永遠に楽しめる

無限の慈しみ愛ランドな~んちゃって。
Posted by 神ng  at 2009年02月04日 00:12
こんばんは。久しぶりに、いまここ塾に参加させていただきました。とてもわかりやすく説明してくださって有難うございます。阿部さんのお話をうかがって、私もその経験をしているのではないか?ということを感じたので、いくつかお聞きしたい点があります。
まず、コクサイさんとの講演会の時に、コクサイさんが女性のオーガズムのことをお話されたとのことですが、それは男性で例えると、射精した後にくる、安心感につつまれた眠気のようなものをさしているのでしょうか?わたしは、以前から、それが「無」の状態だろうと認識していたんです。それを、いまここ塾の最後に行われる瞑想で(射精の後ほど、無ではありませんが)感じました。
それを言葉で例えると、「喜ぶことは悲しむこと」ということです。人は喜怒哀楽を感じますが、生きているうちに、喜ぶことは良いことで、悲しむことや怒ることは悪いこと、という思い込みが定着します。しかし実際は感情に優劣はないにも関わらず、優劣をつけることが、余計に苦しみを抱く原因だと感じました。
結局、自分の性格という思い込みを知り、それをフラットにすれば「無」になれると、感じました。それが今夜の瞑想を振り返って感じたことです。

つぎに、最近、時間が私の目の前をただ過ぎていくだけ、という感覚が強くなっています。それは、円状の紙芝居の真ん中に私がいて、それがくるくる回っているだけ、という印象です。その絵には時間の経過とともに明るくなったり、暗くなったりしています。

このような感覚が、阿部さんがおっしゃっていることなのでしょうか?特に、今夜の瞑想では、「そんな簡単なことなのか?」と心がすっきりしました。


お忙しいところ、長い文章ですみません。失礼します。
Posted by まーくん at 2009年02月04日 00:21
僕は警察官になるにあたりいざというとき自分の命をいつでも捨てれるよう
「死」を克服するために瞑想を始めたのですが・・・



今では死にたくありません(笑)



命ほど尊いものをおいそれと捨ててたまるか
という気持ちでいます・・・

「おい、それじゃ本末転倒だろう。なんのために悟ろうとしてるんだ!!」
と昔の僕なら突っ込んでいたのですが



あれ・・・?

そもそも死のことをキミは理解して瞑想を始めたのかい?
と聞かれたら、僕は困っていたでしょう。



悟りに対する特別な憧れで瞑想を始めたわけですが
瞑想をしていればその特別感は次第に落ちます。

というよりも偽者だけが落ちるということでしょうか。

瞑想を始める前に僕が考えていた正義感なんてものは
はっきり言えばうさんくさいものでした。

今では正義感すら落ちました。


「おいおい。そんな気持ちじゃ警察官なんてできないだろう?」
なんて突込みが入りそうですが・・・


正義感が落ちた瞬間に見えてきたものが一つだけあります。

それは「命は感動に溢れ尊いものだ」ということです。

これだけは揺ぎ無い真実だと思っています。




ん、これだけで十分なんじゃないのか?

他に何を望むのだろうか?

存在はご褒美に最高のプレゼントをくれた・・・



キミはこれ以上なにを望むんだい?


悟りたい?いやいや・・・


・・・・・事は自然に起こるべくして起こるし
    起こらないのならばそれもまたよし・・・・・・・





きっかけは悟り者に対する特別意識で
瞑想を始めました。

今ではその特別意識そのものが勘違いだと気づかされました。

瞑想の目的も質が異なってきました。

この勘違いがここまで僕を運んでくれたのだとすれば・・・・・



あべさんのおっしゃる

「だいじょうぶ」

の意味も分かる気がします。
Posted by 渡辺 at 2009年02月04日 02:02
はじめまして。
長く雲サン&阿部サンのブログを読んできましたが、今やっと「読める!」という感覚です。
これまで自分や他人や出来事と戦うようにして生きてきた大嫌いだった自分も、今では「それがあったから今がある」と思えます。

きっかけを、本当にありがとうございます。


私は昨年末に「心配は無意味ってこれのこと?」ということに気付き、
年始に<<今現実だと思って見ている景色や状況が夢だとしたら?>>
という気付きから「宇宙ってこれのこと?」という感覚があり、
その数日後、諸行無常というのか、何を見ても泣きました。

そういったことから段階があるのかな、と思っていました。
最初の気付きの時点で目覚めているということなのですか??


また、まあるママさんのコメントを拝見し、どこかで私もその感覚を疑っているところがあったなと思いました。
それはあくまで自分の想像だったり、エゴが見せたものじゃないかと。。号泣した時はどちらかと言うと「怖い」感覚で、自分はどうなってしまうのかとすら思いました。
実際その数日後に些細な事で子どもに八つ当たりしてしまい、尚更信じ難かったのです。

でも、自分に訪れたこの「平和」と「安堵」は確実に、夫の言動にとっさに腹が立っても怒りのレベルを下げているし、怒っていても「うわ〜、私怒ってるなぁ〜」と後頭部のあたりから第三者的に見る自分がいます。すると「怒ってるけど…さて、どうする?」と冷静な判断がしやすくなりました。
意外と相手に悪意は無いのかも?と思えたり。

例えば、くだらない話ですが部屋の散らかりかたのレベルも違います(笑
家事が下手なのが悩みでしたが、黙々とただやってみるとやり終えてもスッキリしていて。なんでこれまでできなかったのかと考えると「人の目」(夫など)を気にして、人の目のためにやっていたんだと思うのです。
ダイエットでもそうではないでしょうか?
何のためにやるか。

感謝しながらやれば辛くないし、疲れない。
そんな気がします。

今、見ている阿部サンいわく「スクリーン」。
それが自分の描いたものであり、しかしそこに全てが揃っている。
ここに何の不足もないと、今は感謝することが増えて大変です。

しかし日々の暮らしは相変わらずです。

今日は改めて、それでいいんだと背中を押してもらえた気がしました。
これからもいろんな事が起こると思いますが、ただ黙々と、対応していきたいなと思っています。
Posted by とれいん at 2009年02月04日 03:03
悟りへの道~


先人の方達は

悟る為に

色々とご苦労なさってますね。

ブッダは苦行では悟りに往かないと・・

苦行で脳細胞の破壊をおこし

幻想をおこし、それを悟りと勘違いする


もう一つは

苦行の競い合い~

俺のほうが腕を切り取った

俺のほうが土に1ヶ月篭った

俺の方が飯を1ヶ月食っていない・・・etc

実際にインド奥地では信じられているらしい?・・・

馬鹿ですね~~ 


しかし~

実際悟ると、ホント

生きるのが楽に楽しくなります。

私悟りました(笑)

私の悟りの定義は

喜怒哀楽をとことん楽しめて

特に自分に起こった最大の不幸(身内の死・自分の重い病・etc・・・)


それと1日に五分の瞑想


死の瞑想・・

今死んでも楽しい自分が存在するか・・・イマジネ~ション

今日も生きているとね

感謝(*^_^*)感謝


生かされ感謝

リアルエイジ
Posted by 悟ったエイジ at 2009年02月04日 08:16
たくさんのコメントありがとうございます。

読み応えがあり、たくさんのことを学べて、このコーナが素晴らしい場所になってきていて、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。

みなさんのような人が集まってくれて、本当にありがたく思っています。

いくつか質問がありましたので、今日の記事にてお答えします。

今から書きはじめますので、お昼くらいまでにはアップできると思います。



大変興味深いお話、ありがとうございました。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2009年02月04日 10:49
阿部さん、はじめまして。私は 自分が存在し、生きる意味が判らなくなっていました。ですが、また諦めずに過ごしていこうと今、気持ちを切り替える元気が出てきました。阿部さん、ありがとうございます。やってみます。
Posted by 優 at 2009年02月06日 08:31
以前に、海で溺れて死にそうになったことがあります。

あぁ。。。もう死ぬんだ。。。って思ったとき

今まで生きて来た全ての時間がグルグルと走馬灯のように駆け巡りました。
(って、小学校の時なので、大した人生でもないんですがw)

溺れていたのは数分だったと思うけど、その間、時間が止まって、

私は映画を観ているようでした。

その時に心にあったものは恐怖では無く、感謝の気持ち。。。

全てのものに「ありがとう」という思いでいっぱいだった


あらから数十年。。。

私の中で確固として根付いた想いは

生かされている事に感謝、ありがとうです。


自分に明日は無いと思うけど、いつも見守られている安心感があります。

死は恐いものではありません。


日々是好日♪ 

なんくるないさ~♪

神様の思し召すまま、今、自分に出来ることをしています。
Posted by まねきねこ at 2009年02月06日 13:30
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