2017年11月25日

「私はいない」ということについて

Tさんからの質問


みんなが幸せでありますように

阿部さんに質問します。

阿部さんは「私はいない」とか無我とか簡単に仰るけれど、

肉体を持った阿部敏郎という個人は「いまここ」に存在していますよね。

それは阿部敏郎さんの自我意識ですよね。

自我意識を自分で否定することはできないと思うのですがいかがですか?




>みんなが幸せでありますように


あなたが本当にそのことを願っているのが伝わりますよ。

それはあなた自身がたくさんの苦しみを抱えてきたからからでしょう。


そしてあなたは真剣に道を求め、真理を知りたいと熱望しているように見えます。

これまでにあなたからもらったコメントや質問を通して感じていました。


人は自分がより成長することで、抱えている罪悪感や苦しみを無くしたいと考えます。

ところがふと油断すると、またいつもお馴染みのネガティブなエネルギーが湧いてくる。

そうなれば、どんなに頑張っても自分はダメなままだという思いになります。


確かにネガティブな波動に包まれることはありますが、だからと言ってあなたがダメなわけじゃありません。

そしてあなたが成長することで、それらの波動が完全に消えてなくなるということもありません。

だってダメなあなたも、成長するあなたも、そもそも「あなた」と呼べるような、固定された実体など存在していないのだから。



>阿部さんは「私はいない」とか無我とか簡単に仰るけれど、


いないのは阿部だけじゃない。

あなたも、そしてどの肉体の中にも、「私」と呼べるような実体はありせん。

誰もが「私」と感じる存在は、エネルギーの凝縮によって思考が作り出した幻影です。


このことを見抜くのが、昨日お話した「どんでん返し」

でも見抜くのはあなたではなく、本来のあなたである「目覚めた純粋意識」

あるいは「全体意識」とか、「神」とか呼ばれるものです。



>肉体を持った阿部敏郎という個人は「いまここ」に存在していますよね。

>それは阿部敏郎さんの自我意識ですよね。



肉体も、阿部という現象も、自我も、いまここに存在しています。

でもそれらが「私」ではありません。

「私」はそれらを見守るもの。それらの存在を知っているものです。


すべての苦しみと混乱は、肉体や自我と、自分という存在を同化させてしまったことによります。

肉体と自我はこの次元の乗り物ですが、乗り物はあなた自身ではないのです。


そしてこの乗り物は、あなたが乗り物との自己同化を止めた後も、消えることなくあり続けます。

意外かもしれませんが、どんな悟りを得ようと、解脱をしようと、自我は残り続けるのです。


悟れば聖人のようになるというのは、自我のファンタジー。

そもそも聖人というイメージ自体がファンタジーです。


なぜ人がそのような理想的な人に憧れるかというと、自分には克服すべき欠点や醜さがたくさん残っていると感じているから。

それらを超越した人物にいて欲しいのです。


でも残念ながら、そのような人はいません。

「こういう人」と呼べるような固定した人物などなく、ただ毎瞬いまここで、何らかのエネルギーがすべての人を通して生じては滅しているだけです。

思考もエネルギーの表現であり、あなたの中に聖なる思考が湧くこともあれば、聖人と呼ばれる人の中に悪の思考が湧くこともあります。



「私はいない」ということについて

きっとあなたはこう言ってもらいたいのでしょう。

「私は存在する」

自我ではなく真我として存在すると。


そして、そのとおりです。


この手の話はあなたが以前に質問した、無我と真我の関係で説明済みなのですが、あえてもう一度書いてみました。


実体のない自分を変えようとしても無理な話。

なるべく力を抜くように心がけて、裁く心から離れて、あるがままを良しとするような感覚が役に立つと思います。



Posted by Toshiro Abe at 10:46│Comments(37)
この記事へのコメント
今日もありがとうございます。良い週末を。
Posted by 林ゆみ子 at 2017年11月25日 10:58
いつもありがとうございます。

今年の春からチャクラ瞑想のお世話になっていますが、最近やっと少し「私はいない」がどう言う意味なのか感じ始めました。うまく言葉にはできませんのでお聞き流しください。
ほぼ毎朝と毎晩寝る前の一日2回30分を目安に瞑想していますが、最近週に一、二回「ハマる」ようになりました。「寝てるだけだろ。」と言われればそれまでですが、完全に意識が飛び、戻った時眠りから覚めた時とは全く違うスッキリした状態になれるのです。最初は「こうなりたい。」とも思い、色々条件…時間とか場所、食事、疲労感とか…を変えて試したのですが必ず「ハマれる」条件は見つかりませんでした。
強いて言えば「ハマりたいな。」とすら思わず始めた時に可能性がやや高いくらいで、自分の意思や意識など御構い無しのようです。
「ハマった」時もその最中にそう感じる「自分」はいなくて、帰ってきて初めて「ああ、今回ハマっていたな。」と数十秒間から1分ほど至福を感じています。
これが「自分はいない」の「正しい」見解かどうかもどうでも良いことなのですが、今回個人的なコメントとして書かせていただきました。
うまく言えず、失礼しました。

ではこれからも書きたいことをお書きください。
Posted by TSY at 2017年11月25日 11:16
今日の記事、とても分かりやすくて、素晴らしいですね!

永久保存しておこうかな?(笑)

いつも分かりやすく解説して下さる阿部さんに、感謝です(^人^)

こういう内容の記事を読めるのは、今の日本ではこのブログだけ。(だと思います(^^))

「いまここ」で、リアルタイムで読めることに、ますます感謝です(^人^)
 
いつも、ありがとうございます♪
Posted by 真理世 at 2017年11月25日 11:19
苦しみの最中にいるとき、心理学的自己啓発に救いを求めましたが
何かが違うと精神世界に踏み込みました。
今日の内容は 阿部さんもよくおっしゃる様に
元も子もない話しではあります。
非二元を知った上で更に二元からのアプローチが
効果的な場合もある様に思います。
あゆかさんがされていますね。
Posted by さく at 2017年11月25日 11:27
今日のブログは大変勉強になりました。

返答も大変わかりやすかったです。

こんな質問出来る人としっかり返答する人に、わたしも、なりたかった。(笑)
(善望、羨ましいのまなこです。少し前までは嫉妬もあったけど笑。今日は嫉妬はおこらなかった。)(^ー^)

自分にはないものを持っていらっしゃる才能のある方達なのだ
と納得できるようになったからかな。


講演会とかで質問タイムとか、たまにありますが知識勉強不足で何も浮かびません。(勉強ぎらいだから仕方ない)

今日みたいな質問のお陰で、今日の阿部さんのブログが皆が普段感じる疑問の解決するきっかけの参考文献になったと思います。

そして、わたしの中にある、あやふやな雲の部分をしっかり
掴む事ができました。

今日の阿部さんのブログに、このことが、おきたことに感謝です。

ありがとう御座いました。
Posted by もっちー at 2017年11月25日 11:42
質問をして、答えてくれる人がいるのは
ありがたいことですよね

阿部のおいちゃんのでっかい愛を感じます

(^_-)

感謝☆感謝☆

ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2017年11月25日 12:15
起きているとき

「わたし(五感と想念)はいる」という状態になり

「起きているわたしがいる」という状態になります。


深い眠りにあるとき

「わたし(五感と想念)はいない」という状態になり

「眠っているわたしがいる」という状態になります。


深い瞑想にあるとき

「わたし(五感と想念)はいない」という状態になり

「瞑想しているわたしがいる」という状態になります。


五感と想念であるわたし(自我)は現れたり消えたりしますが

静寂の意識であるわたし(真我)はずっと存在しています。


見られるものであるわたし(自我)は現れたり消えたりしますが

見る者であるわたし(真我)はずっと存在しています。
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2017年11月25日 12:20
OSHOだって、マハラジだって、イエスだって、釈尊だって、

それぞれの自我があり続けただろうって、どなたでもちょっと考えを巡らしてみれば、洞察できませんかー

自我がなければ、同じく自我である大勢の者たちが、違和感なく、話を聞いたり、共感したりして、胸を打たれたりして、信奉したりすることが起こりにくいのではないでしょうか。

自我(みなさんの個性・色々なメガネや、物差しなど)も、《~乗り物~》として、観る・知ることが出来ませんかー

たとえ、実感や、そのような感覚や感触が起こらなくとも、、

そうだ!との“認識”が起こりませんかー!
Posted by y-be at 2017年11月25日 12:47
悟りの先にあった、神の望みは、この身体を使って、魂がやりたいことをやって、地球を遊ぶことでした。

この身体は、ただの乗り物ではなく、
命そのものであり、宇宙の全てを内包した多次元機能生命体。

意識である本質の私は動けないので、
この身体のワタシが、私とタッグを組んで、現象界を遊ぶ、
私にとってなくてはならない、愛すべき相棒。

阿部さんという役をやっている命が躍動している。

私がいなくなると、この命の喜びが感じられるようになります。
Posted by ワタシ at 2017年11月25日 13:28
存在がいないよってことではないから不安になる必要はないんですよね。存在そのものという意味では私はいるよー!と思う。
だから安心だし、それ自体が愛だし、幸せだし、だからみんなの存在自体が愛だし、幸せ。
誰にも何にも否定することはできないのだから安心していいんですよね。そのまんまで。

聖人は自我のファンタジーって、これって本当に、判断する自我意識が創り出してるものなんだなってほんとよくわかる。

聖人なんて存在しないから、目指すのは大変なことかもしれない。それこそエネルギーがきゅうっと緊張してしまいそう。でもそういう現象も起きるときは起きるわけで、そこに良い悪いは存在してないということですが。
Posted by 薄茶色 at 2017年11月25日 13:39
そう言えば、時々「あれっ?」て瞬間がありますね。

例えば、「拒絶されて苦しい」にハマってる時、ふと
「あ、なんだ・・・『拒絶されただけ』じゃん?」
と気付いたり。

その瞬間、『苦しい』が、「スッッッッコーーーーーンッッッッ!!!!!」
と、抜けてますね。その気持ちいいのなんのって。

その瞬間、確かに、『拒絶されただけ』の『周り』は『カラッポ』なんです。
『拒絶されただけ』という『思考』が『残ってる』なんて、どうだって良くなるんです。

この場合、『苦しい』が『苦しいと思っていた自分』であり、
『拒絶されただけ』はただ『眺められているだけの思考』ですね。
つまり、『苦しいと思っていた自分』が
「スッッッッコーーーーーンッッッッ!!!!!」
と抜けていき、後には『眺められているだけの思考』が残っているだけなので、
ある意味『自分』が『居なくなって』いますね。
でも、この場合厳密に言うと、『苦しいと思っていた自分』が、
『気持ちいいのなんのってな自分』に『入れ替わって』ますね。

「私が居ない」って『感覚』、こんな↑感じでいいのかもなぁ、と思いました。

べつに、ここ↓まで一ヶ月も『私』が『戻ってこない』経験とかしなくたって、いいですよね?

実録漫画:交通事故で頭を強打したらどうなるか?
http://anbox.hinami.net/kad/
Posted by ただの「自分」 at 2017年11月25日 13:58
あー!!何かコメントしたいのに
何にも浮かんでこない(笑)
阿部さん、皆さんいつもありがとうございます。
Posted by AYAKO at 2017年11月25日 14:10
自我意識も存在の一部だと思います。
だからややこしいのだけれど、
最終的に判断が起きないで終わること(判断したことさえ判断しない)

その判断が"私はいない"の"私"だと言いたかったです。
私がいなければ、自然体。ということですよね。
自然体じゃない状態でもそれをいちいち判断しないから、自然体…
ややこしいですけども。

まさに阿部さんが最後の3行で仰ったこと、もしくはいろんな人が仰っている、観照が結局は大切で、行き着くところは誰でも同じところということ、なのだと思います。
Posted by 薄茶色 at 2017年11月25日 14:36
Tさんが聞きたかったことは・・・阿部さんのお答えで成就されたのでしょうか?

私から質問させて下さい。

>乗り物との自己同化を止めた後・・・も、自我はありますが、私はいないと知った(わかった)自我って、同化してきたそれまでの自我と何か違いますか?

・・・って、自分でも答えれるけどw疑問が起きるならここかな?私なら、自我を「命の感想」「命」こそが自分自身であるとかって、かっこつけて答えますが、阿部さんならどう答えられますか?
Posted by 李 信 at 2017年11月25日 14:39
>それらを超越した人物にいて欲しいのです。


>でも残念ながら、そのような人はいません。

>「こういう人」と呼べるような固定した人物などなく、ただ毎瞬いまここで、何らかのエネルギーがすべての人を通して生じては滅しているだけです。

>思考もエネルギーの表現であり、あなたの中に聖なる思考が湧くこともあれば、聖人と呼ばれる人の中に悪の思考が湧くこともあります。



今の所、阿部さんが聖人じゃないと見抜いているのはパートナーの智子さんやご家族様ですね。

きっと聖人じゃないバージョンの阿部さんは、たまにコメント読みながら、文句たれてんだろうなあ(笑)
アップしなくていいとコメントするなら、コメント書き込み送ってくんじゃない!とか、思ってるに違いない(笑)
いつHN統一するんだ、こいつは?
ひとつにコメントしぼんねえのかよ、いつまでも、こいつは!(はい、すまんですヽ(;;)ノ)

てめー(-_-#)こっちの迷惑もかんがえろ!、、、

とか、聖人じゃないパターンの阿部さんは絶対怒ってるに違いない(笑)

聖人じゃない阿部さんは好きじゃないかも。。(゜◇゜)
なんちゃってm(__)m

阿部さんが聖人じゃないところがあってじゃんねんむねんだけど、それも嫌いじゃないかもです。

アップなし、削除でかまいません。結局(-ω-;)
失礼いたしました。
Posted by ひつまぶし at 2017年11月25日 14:44
いつもありがとうございます。
善き一日になりますように。
Posted by ほったん at 2017年11月25日 14:45
かかかかっこいい~~☆(*^^*)


すみません。。不謹慎にもなり得る感想かもですが、ほんとカッコいいと思います!

日常生活のふとした瞬間に、阿部さんの活動のマニアックぶりを感じつつ、ブログ読めて幸せだなあと思いますが、それを改めて感じるようなお話です!

この時代に生まれ、このような話に触れることができること、すばらしい経験だと思います!(^^)
Posted by ぶどう at 2017年11月25日 15:17
この記事と

自分のところに顕れた「変化」が

リンクしていると観えたので

掲載します

11/24に

ある表に絶対に出ない方と

お会いできました

響きが起きました

感謝です

::::::::

瞑想会の帰りに

その方と並んで歩き

話しができました

その方は話してくれました

:::::::

私は不動明王の行を続けていました

あるとき客体だった不動明王が私になりました

主体だった私が、客体になりました

不動明王は私だったのだと。。。

このとき静寂を知りました

世界とは静寂であり、静寂しか存在していない

様々なモノが在るように「感じているだけ」で

実は何も存在していない

存在しているのは「静寂」だけ

それを「無」と

私は呼んでいます

:::::::

ぼくはこう反応していました

:::::::

ぼくは大日如来と合わさった時

静寂を知りました

世界には静寂しかなく

あたかも様々なモノが存在しているかのように「感じるだけ」で

実は何も無く

静寂だけが存在している

それがわかりました

そしてその静寂の中に

花のように顕れてくるモノがありました

それが生命だとわかったとき「パッション」が起きました

生きているというリアルを堪能しようと思いました

自分が居る、誰かが居る、移ろいゆく世界が在る、

この「まぼろし」を

堪能しようと思いました

◎◎さんは

パッション起きましたか?

:::::::

その方は答えました

::::::

わたしには静寂(無)しかありません

パッションはわかりません

::::::

ぼくは意識の中で

このように反応していました

::::::

自我には「動」に感じてしまう

不動明王と一体となった◎◎さんは

佇まいとして「静」を表現されている

自我には「静」と感じてしまう

大日如来と一体となったぼくは

佇まいとして「動」を表現している

表と裏 それは一体

この世界(時空)で表現されるモノは

表観が「動」なら
内から出ているモノは「静」

表観が「静」なら
内から出ているモノは「動」

この感覚の「フィット」が「響き」となり
他者と言う「まぼろし」に伝わる

::::::

他者に伝わらないのは
静と動がフィットしていないから

::::::

この教示を受けた気がします

◎◎さん お会いできて光栄です

また

この機会を創って下さった

I さま K さま

ほんとうにありがとうございました

今後ともよろしくお願いします
Posted by 輪の風 吉野太 at 2017年11月25日 15:50
先日、TVを観ていたら、 
人工知能Al搭載の人形ロボットの開発についての番組の中で、
とても面白いことを言っていました。

人工知能の開発が目指すところとは、
人間の持つ個性とか、その人らしさとか、は何によって決定するのか?という疑問に、仮説を打ち立てて、
ロボットに人間のような心を形成するプログラムを構築することで、
あたかも、ロボットが生きている人間のように反応を示すようになることだそうで、
それは、つまりはロボットが、プログラムによって、人間のように意志を持って行動し、物事に感情を持って反応できるように、
あらゆる反応パターンを情報化した人工電子脳を作り出すことによって可能となるのだそうです。

今では、相手の発する言葉や行動パターンなどを観察・分析し、
その都度、自分の反応を変えたり、その時の状況を判断して、その状況に合わせた反応を選んだりと、
今のロボットは、かなり人間に近い反応を示せるようになってきているようです。

こうなると、人間とは何なのか?自我意識とは何なのか?という感じになってきますね。

子供の頃にTVで観た鉄腕アトムのような人形ロボットが登場して、
人間と同じように、行動し、感情を持ち、反応しながら、
この地球上を闊歩する日がやって来るのも、そう遠くない話かもしれませんね。

少なくとも、人間の心の構造が、
人工知能を持ったAlロボットの開発に伴って、徐々に解明されつつあるのは、
科学時代ならではの面白い現象だと感じています(^o^)

ロボット=生命という訳ではありませんが、
これからロボット全盛期がやって来ることを想像すると、
ますます人間とは何なのか?自分とは何なのか?という問いが、
これまで以上に、私たち人間の心の中に芽生えてきそうですね。
Posted by 真理世 at 2017年11月25日 16:50
私たちが何とかしたいことって、この重苦しいエネルギーを脱ぐこと。

(あくまでこの言葉は喩えですが)


その為に活動している、その為の活動をしている、阿部さんという現象世界のヒーロー。

そんな感じがして、カッコいいんです~☆(*^^*)


戦うべき重苦しいエネルギー、それを何と呼んだらいい?


私には正体が掴めないけれど、私たちを幸せにしないこのエネルギーを、手放していくことが幸せに暮らしていく上で必要不可欠なのだと思う。


それには


女性の花が開くことと、その花開いた女性が男性と接することで、男性にエネルギーがもたらされ、与えた側の女性も享受するものが生まれるんじゃないかしら?

命に繋がりやすいのは女性だから、女性にしか出来ない、男性の癒し方が(変な意味じゃなく、)

神聖な関係があると思う。

女性は、人類幸福に繋がる具体的な力を身に付け、それを与えていくことが出来るということをもっと知るべき時代なんじゃないかしら。。


↑これ独り言のように浮かんだ世界観?なのですが、なにか女性性の目覚めに繋がるようなことだと思うので、投稿させてください。もちろん、不適切でしたらアップなしでOKです(^_^)
Posted by ぶどう at 2017年11月25日 17:57
こんばんは!
いつもブログや動画で今ここに戻って来れる
機会を頂きありがとうございます。

先日の天河神社のさとうみつろうさんとのコラボの
ライブ配信、スマホデーター量が足りなくなり見逃してしまいました。
そのライブ動画を見れるようにして頂けると大変嬉しいです。

朝の座禅会オンタイムでなかなか見れていませんが
会社でお昼休みに視聴したり、講演の動画を聞いたりと
活用しております。

ともすると日々忙しく、起こる事象に埋没しそうになりそうに
なるときにふと立ち止まり、今にくつろぐことが少しずつできる
ようになっております。

本当にいつもありがとうございます。
Posted by garnet7626 at 2017年11月25日 18:43
真理世さん

人工知能…自動運転…量子コンピューター…

ここ最近になって、
昭和世代が憧れた夢の21世紀っぽくなってきましたよね

( ^o^)ノ

量子コンピューターが完成して、それで人工知能が作られた時に
アトムのようなロボットが出来るかも

僕はそんな感じしております



誰もいない…

そうすると、なんだか人間はロボットのような感じがしますが

そうではなく、人間やロボットという個は存在せずに
分離のない全体だけがある!ということなのでしょうね

それでは、おやすみなさい
Posted by 甲賀忍者 at 2017年11月26日 01:16
阿部さんのように、所謂、わかっちゃった人と、そうでない人との違いがあるとすれば、
それは、その人が放っているエネルギーの質です。

質といっても、良いとか悪いとかではなく、
密度、きめ細かさ、微細さ、というような感覚的なものですが、
この微細なエネルギーは、誰でも無意識に感じています。

殺気を感じたり、怒りのエネルギーやマイナスエネルギーを感じたり、
粗くて重いエネルギーを感じて疲れてしまったり、
反対に、パワーをもらったり、その人の傍にいると、癒されたり、元気になったり、
明るく前向きになれたり、やる気が起きたり。。と、
人間は、気がつかなくても、エネルギーを感じ取り、良くも悪くも、お互いに影響し合って生きています。

心地好いエネルギーか、どうか?は、覚醒とは関係がなく、
全くスピリチュアルを知らない人の中にも、愛のエネルギーを放っている人もいます。

そして、スピリチュアルな活動をしているからと言って、
必ずしも、心地好いエネルギーの人ばかりではなく、
重く濁ったエネルギーの人もいたりします。

これは、心が純粋かどうか?ということと関係があるようで、
言葉で人を騙せても、エネルギーは正直なので、
隠したり、良く見せたりはできない、ということなのでしょう。

この微細なエネルギーを感じ取る能力は、人間という動物に本来具わっている能力と考えられますが、
言葉を使うことで、左脳が発達しすぎてしまい、
感覚・感性を担うとされている右脳の働きが鈍くなってしまった結果、
日常生活で、エネルギーを感じ取り難くなってしまった人が増えているように見受けられます。

考えるな、感じろ。

低い波動(低周波)と高い波動(高周波)の違いがわかる人には、ピンと来る話かもしれませんが、
そうでない人には、怪しい話しに聞こえるかもしれませんね。

それは、現代人には、感覚・感性よりも、知識や言葉を重んじる傾向があるからでしょう。

しかし、エネルギーに鈍くなってしまっている現代人でも、
日常で、人や物が持つエネルギーについて考えたり、感じようとしたり、
という練習や訓練をすることで、この感覚・感性は磨かれていきます。

何故なら、この能力は、人間が本来持っている力だからです。

そういう力を、潜在能力と言い、この潜在能力は、誰にでもすでに具わっているのですが、
ほとんどの人は、それに気がついていないだけなのです。

この眠っていた潜在能力が目覚めると、
本当にわかっちゃった人と、そうではない人の違いは、直感や感覚でわかるようになります。

本物と偽物を見分けられるようになったり、
自分に必要なものを、一瞬で見分けられたりと、無意識に識別力が働くので、
安心安全に生きていく上で、とても便利で役に立つ能力とも言えます。

この能力が甦って、いろいろ感じられるようになると、
世界の別な面が見えてきて、とても面白いですよ♪
Posted by 真理世 at 2017年11月26日 01:45
カラダの緊張を解いて
ココロの動きを止める
いつも何かを追いかけていた
わたしはいない
そこにあなたはいないのだから
脳内には何もない
何もないということもない
すべてが止まったのだ
すべてが止まったというのに大海はある
カラダもココロも
言葉もある
それが、わたしはいないということなのだ

阿部さん、最後のよかったです
力を抜いて、批判せず、あるがままを善となすーw

さすが!
Posted by ダメマ at 2017年11月26日 02:29
このブログにて瞑想と坐禅に出会えた事に感謝します。スピ系の専門用語は分かりませんが^^;自我ってものを眺める視点を体感してから、あるがままで良しっていうのが分かりかけている気がします。
それまでは、あるがままで良しって言われても「自分はまだまだ」等、自己否定温泉に全身どっぷり浸かってました^^;
瞑想が習慣化してからは人って良いなと感じる事が増えました!

しんちゃん物語、期待してます!!(^^)
Posted by しんや at 2017年11月26日 04:24
>実体のない自分を変えようとしても無理な話。

全く記事とは関係ないコメントになりますことをお許し下さい。
阿部さんはやはり、プロ意識半端ないひとだと思う。
天河神社での白装束決まっていました。
後ろ姿がまるでどこかの国の貴公子のようでした。

阿部さんの今年の春先あたりの調子だと、柿坂宮司さま似の
体系になられる可能性もあったはず。
よく、しぼったなあ、さすが、過去芸能人!
神様にお辞儀?してる後ろ姿に、この人はどなたかな?、
こんな素敵な後ろ姿してる人いたっけ?、
みつろうサンにしては背がスラリとしてるし。
歌の奉納のもうひとりの立役者さまとヘアスタイルが違うし。
後、誰かいたっけ?とクエスチョンタイムの時間が発生するぐらい、後ろ姿最高でした。


カラダの実体は変わるんだなあって阿部さんのプロ根性意識、学ばさせて頂きました。
さすがでし!
ってか((*´∀`*)ノ
Posted by ひつまぶし at 2017年11月26日 09:16
幻であっても、
自分が存在していると思っている間は

自分は生きていたい!自分は存在していたい!

自我の自分にとって一番怖いことは、自分が消えてしまうこと

(自我の)自分が存在していることと
自分が消えてしまうことの恐怖はワンセット

しかし

自分がいなかったら、自分が消えてしまうという恐怖もない

自我の自分の不在こそが、絶対的平安



夜は…熟睡中に自分は消えて行く

昼は…今ここを生きている時に自分は消えて行く

肉体を持っている間は、それを維持するために自我はあることでしょうが、その時は無視出来るレベルなのでありましょう

重箱の隅をつついて、自我がまだあるじゃん!無我ではないな!
などと言い、
本当の自分が、誰かがブッダであることを逃してしまわぬように…

ブッダ☆ブッダ☆

ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2017年11月26日 13:01
みんなが幸せでありますように

私の質問を真正面から取り上げて頂き、ありがとうございます。

自我意識が永遠になくならないことが分かり安心しました。

私は真我として永遠にある、と理解させて頂きました。

聖者を信仰しているので聖人は作り上げたイメージに過ぎないというところが

納得いきませんでした。

イエス・キリストや老子や釈尊や五井先生やラーマクリシュナやババジなど
は私にとっては信仰する対象の聖者様です。

阿部敏郎様は聖者様の中から外しておきます。(笑)
Posted by 滝澤通孝 at 2017年11月26日 14:08
甲賀忍者 さん

リアルタイムで、手塚治虫ワールドで育った「科学の子」世代なので、
鉄腕アトムなどの未来世界を描いた漫画に、強く影響されています(笑)
(多分、甲賀忍者さんは、後から見たか、知った世代でしょう)

そのアトム型ロボットが、近未来の地球に登場してくる可能性が、濃厚になってきましたね。
 
スタンリーキューブリックの「2001年宇宙の旅」が描いた人工知能Alの驚異が脳裏を過りますが、
今推し進められているロボット開発の流れは、行くところまで行くことでしょう。

必要は、発明の母だそうなので、
未来社会では、仕事は、ロボットにさせて、
人間は遊んで暮らせるようになるかもしれませんね(笑)

または、人工知能に支配され、ロボット優位の世界が登場するかもしれません。

今は空想の世界のお話ですが、案外、近い将来に、そんな時代がやって来るかもしれません。

何にせよ、人間の欲望は果てしないので、自らの首を閉めるようなことにならないと良いなとは思っています。

科学の子たちが、科学の知恵を結集して、 
より生きやすい世の中にして欲しいです。
 
夢の世界とは言え、過去には、悪夢としか思えないような世界がリアルだった時代もあるのですから。

人生いろいろありますから、少なくとも、最後の瞬間に、
良い夢を見られて幸せだったと思って、肉体を離れられることは、
何よりの祝福だと感じています。

自我は幻とは言え、個人は自分のストーリーしか見ることはできないのですから。
そのストーリーがどうでも良いと思っている人はいないでしょう。

長くなりましたが、とりとめのないおしゃべりはこの辺で(^^;

失礼しました。
Posted by 真理世 at 2017年11月26日 14:19
つまりそれが諦めるということですね!

降参!サレンダー!

あるがまま。

なにもかもが、これでいい。

まさに「これでいいのだ!」

ですね♪

不生不滅不垢不浄不増不減

それが本当の「私」

まさに「かんながら」

いつもありがとうございます◎
Posted by 369taro at 2017年11月26日 16:22
いやー
今日のジェットコースターは
とても凄まじかったー!

仕事のトラブルの
責任を一気に
自分に背負い込み
混迷しましたー
あー私の人生が終わったなと

でも今は
美味しい夕食にありつけ
焼酎を飲み
マッタリとしながら
ソファーに横になっています

このブログを読みながら
あぁいま ここにいると
感じています
Posted by momo at 2017年11月26日 18:50
李信さん

>私はいないと知った(わかった)自我って、同化してきたそれまでの自我と何か違いますか?

自我を客観視できるところが違うように思います。

夢の中で夢を夢として見ているみたいな。

でも自我という実体があるわけではありません。

言葉はなんでも実体化してしまうから難しいですね。
Posted by Toshiro AbeToshiro Abe at 2017年11月26日 21:52
初めてコメントさせて頂きます^ ^
以前から瞑想や禅には興味があって瞑想もどきみたいな事をやっていました。ある日軽い運動をした後、完全にだらぁ〜と、ぼぉ〜としていたら突然『気づき』が降ってきました。一定期間、悟りハイの様な感じで色んな本を読み漁っていましたが…なんだかしっくりこない…そこで阿部さんの本と出会って、もうもうもう!感動しまくりました!笑
ブッタズランド計画、私も進めたいなーとワクワクしています^ ^
これからも、ブログや本など楽しみにしています♪
Posted by ゆう at 2017年11月26日 21:52
阿部さん ありがとうございます。

>自我を客観視できるところが違う・・・そう、その客観視が 本当に、「第三者」であると 私も思います。しかも その第三者感が、はんぱない(笑)

自我と存在の関係性ほど、思考知にとって矛盾と混乱をもたらすものはないでしょうね~。私も うまくは 書けないです。良い お手本をいつもありがとうございます。。。
Posted by 李 信 at 2017年11月27日 07:35
「神をこの普通の心で感得できないのはたしかだが、
しかし、純粋清浄な心で感得できる。
この普通の知性ではわからないが、純粋清浄な知性ではわかる。
女と金への執着がとれさえすれば、心と知性は純粋清浄になる。
純粋な心と純粋な知性は一つのものだがね。
神はその純粋清浄な心で感得できるんだよ。
聖仙(リシ)や牟尼(ムニ)たちはあの御方を見なすっただろう?
あの方々は、霊意識を通じて大霊に対面なすったのだよ」
(聖ラーマクリシュナ)
Posted by 不滅の言葉 at 2017年11月28日 00:24
私自身は悟りたいとか、一瞥体験とかないので
実際の『私はいない』という感じが、わからないのですが、
現象世界が波や雲のように形を変えて、変化をしていくことを考えると
幻想なんだというのは、わかるような気がします。

生きていく場所は現象世界しかないし、
今をどのように生きて生きたいか、が問われているだけのように思います。
阿部さんが仰るように『私はいない』と考えると、今は学びの場であり、生きるのが楽になる気がします。肉体がある間の人生をどういきたいかによって行き先が変わるのかもしれないですね。
阿部さんの発信のおかげで、考える機会も増えました。
ありがとうございます。





幼い頃の記憶を辿ると無防備に愛でいた存在も
年月とともに自我にまみれていくのも仕方の無いことだし、
別にそれでいいし、そうやって大人になってきたんだと思います。
生きていると自分では望まない出来事も起きてくるけど、
なんか成長というか、理由はないけどこれでいい!
という感じが出てくるのが不思議とあって・・・
無駄なことって無いのかもという感じもあるような気がしています。
Posted by yun at 2017年11月28日 12:19
初めまして。

一切であるところの意識が、あなたの、正体ですね。
その人格、自我感覚は錯覚です。もちろん。

ところで、何故 その意識 以外の意識の現われ というものを想像しているのですか? みんな というものは居ますか? それは唯一のその意識の現れた3d人形ホログラムではありませんか?まさか、3d人形ホログラム毎に対応したバラバラな意識の現われの世界が存在するとでもお考えですか? その意識以外に意識が存在するとお考えですか?
Posted by ばいたりんご at 2017年12月13日 08:50
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