2008年05月17日
奇跡の旅の途中で
昨日は前世について否定的な立場から意見を書きましたが、だからといって合理的に説明がつくことだけが真実だとも思っていません。
この世には説明のつかない不思議な事が、あまりにも多いからです。
偶然の一致とかシンクロニシティーとか呼ばれる現象も、身の周りに多発していますし、それらすべてを「たまたま偶然だ」とは言い切れません。

何も苦労せずに事が成就していくときがあります。
あれよあれよという間に、素晴らしい現実が展開し、その一つ一つが紙一重のタイミンなのですが、見事な組み合わせで運命が成就していくことがあります。
いまこうして沖縄に暮らしていることも、ほんのわずかな偶然の積み重ねの結果です。
反対に、どうあがいてもうまくいかないこともあります。
数年前、とある仕事のプロジェクトがあり、僕も参加したくてあれこれと策を練ったのですが、何をしてもそこからはじき飛ばされてしまうのです。
成ることは成り、成らないことは成らないというのが実感です。
そのような現象を、縁があったとかなかったとか言いますが、確かにそういうことはあると思います。
人との出会いも同じで、この人とは出会うべくして出会ったと言いたくなるような、それこそ前世からの因縁を感じるような出会いもあります。
たとえば僕の妻も、結婚してみたら、お互いが親せき同士でした。
そのことは裏ブログに「120万分の1の確率」というタイトルで書きました。
この世には何一つ偶然はないと思います。
であれば、この必然を作り出している大いなる計画書が存在することになります。
(実は内心ひそかに、その計画書は実在すると確信しています)
現象界を超えた深い気づきに包まれたとき、こう感じました。
「なーんだ、全ては決まっていたのか」
それは疑いようのないリアルな感覚でした。
またその一方で、僕たちの意思と選択次第で、現実はいかようにも変えていけるというのも、これまた真実です。
この2つの矛盾する真実が、同時に起きているのが宇宙の神秘なのだと思います。
そう思うと、何ひとつ言いきることができなくなってしまいます。
あまりにも凄い神秘の世界に、僕たちは生かされているんですね。
あなたとの出会いに感謝します。
65億人の中からこうして出会えたのも、何かの縁だと思います。
「何が起きても大丈夫」
そんな励ましあいをしながら、一緒に旅を続けていきましょう。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
ポチッ、ポチッと、よろしくお願いします。

PS
今日のライブはおかげさまで満席です。
当日券はありませんのでご注意ください。
この世には説明のつかない不思議な事が、あまりにも多いからです。
偶然の一致とかシンクロニシティーとか呼ばれる現象も、身の周りに多発していますし、それらすべてを「たまたま偶然だ」とは言い切れません。

何も苦労せずに事が成就していくときがあります。
あれよあれよという間に、素晴らしい現実が展開し、その一つ一つが紙一重のタイミンなのですが、見事な組み合わせで運命が成就していくことがあります。
いまこうして沖縄に暮らしていることも、ほんのわずかな偶然の積み重ねの結果です。
反対に、どうあがいてもうまくいかないこともあります。
数年前、とある仕事のプロジェクトがあり、僕も参加したくてあれこれと策を練ったのですが、何をしてもそこからはじき飛ばされてしまうのです。
成ることは成り、成らないことは成らないというのが実感です。
そのような現象を、縁があったとかなかったとか言いますが、確かにそういうことはあると思います。
人との出会いも同じで、この人とは出会うべくして出会ったと言いたくなるような、それこそ前世からの因縁を感じるような出会いもあります。
たとえば僕の妻も、結婚してみたら、お互いが親せき同士でした。
そのことは裏ブログに「120万分の1の確率」というタイトルで書きました。
この世には何一つ偶然はないと思います。
であれば、この必然を作り出している大いなる計画書が存在することになります。
(実は内心ひそかに、その計画書は実在すると確信しています)
現象界を超えた深い気づきに包まれたとき、こう感じました。
「なーんだ、全ては決まっていたのか」
それは疑いようのないリアルな感覚でした。
またその一方で、僕たちの意思と選択次第で、現実はいかようにも変えていけるというのも、これまた真実です。
この2つの矛盾する真実が、同時に起きているのが宇宙の神秘なのだと思います。
そう思うと、何ひとつ言いきることができなくなってしまいます。
あまりにも凄い神秘の世界に、僕たちは生かされているんですね。
あなたとの出会いに感謝します。
65億人の中からこうして出会えたのも、何かの縁だと思います。
「何が起きても大丈夫」
そんな励ましあいをしながら、一緒に旅を続けていきましょう。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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PS
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2008年05月16日
前世の話
昨日頂いたコメントへのレスです。
長くなるのでこちらに書かせてもらいます。
前世のことで、できたら教えていただきたいのですが…。
過去世のことが分かる、という人が時々いますよね。
そういう人に一度みてもらったことがあります。
私は、過去のあるときにも今の夫と結婚していて、最初の子どもを妊娠中に、夫の母親(これも今世の姑と同一人物)に嫉妬のため首を絞めて殺されてしまったんだそうです。
だから、今世では(カルマ解消のために?)離婚した方がいい、と言われました。
確かに、夫との関係にすっきりしない感じはずっとあって、子どもも作っていません。
だから、そういう人の話を聞いてみようと思ったのですが、いざ話を聞いてみると、信じたくないと思いつつも、やはり心のどこかで気になります。
でも、カルマ解消のためなら、逆に今世ではこの夫婦生活を幸せにやり切る、というのもありではないか?とも考えたり。
過去世の話をどう消化したらいいのか、困っています。

僕の考えがすべて正しいとは思いませんが、僕なりの考えを述べてみます。
確かに僕たちの魂は不滅なので、前世があるといえばありますが、それは一般に思われているような形ではありません。
それだけは僕自身の内的体験(超越体験のようなもの)から、はっきり言うことができます。
前世と今生において、あなたの中に連続しているものは何一つありません。
それどころか、今生においてさえ、あなたの中に連続しているものはないのです。
あなたという存在は、常に刹那的なその場限りの体験です。
連続した「自己」は、時間という観念が作り出す幻想なのです。
したがって、「自己」も「人生」も夢のようなものです。
さて、あなたはなぜ、自分が忘れてしまった自分の夢を、他の人に教えてもらおうとするのでしょうか。
あなたの夢をあなたの代わりに見れるというその人は、どんな人なのでしょう。
たとえばあなたが昨日見た夢を覚えていたとして、その夢をピタリと言い当てる第三者がいると思いますか。
もしそんな人がひとりでもいたら、人は他人の夢を透視できることになります。
あなたの前世は、あなたが主観的に作り出した前回の人生でのストーリーです。
それはあなたの観念が解釈した、自分本位のストーリーです。
それはまさに、夢のようなものです。
ちょっと意地悪な言い方になりますが、あなたの前世を言い当てたという人は、あなたが昨日見た夢を正確に言い当てることができるでしょうか。
あるいは、前世が見えると言うなら、あなたのここまでの半生もわかることでしょう。
前世よりも近い分だけ、より正確にわかるのではないでしょうか。
ここまでの半生ならあなたにも記憶があるので、当たっているかどうかわかりますよね。
同様に、もし自分の前世を覚えている人がいたとしたら、ぜひ前世を教えてくれる人に会って、自分の前世を教えてもらって下さい。
もし話が100%一致していたとしたら、僕も認めます。
でも残念ながら、そのようなことは起きないと思います。
今のあなたを見ての印象から、その人が連想することを伝えている可能性があります。
それは比喩としては面白いですが、それ以上のものではありません。
今あなたが抱えている問題を解決するのに、過去生まで持ち出すとしたら、その過去生の問題はどこまでさかのぼればいいのでしょう。
あなたの夫との関係は、あなたの選択によってどのようにもなります。
その選択の自由は100%あなたにあります。
今あなたは、自分の選択に責任を持つ生き方を学んでいるのだと思います。
以前、前世療法という本がベストセラーになりました。
僕も何度か読みました。
すべてを否定する気はありませんが、一部の人たちに安易な誤解を与えた部分はあったと思います。
余談ですが、実際にあった話を紹介します。
僕の友人が、ある人の紹介で沖縄にいる著名な精神科医と会いました。
その人は本もたくさん出していて、過去生を言い当てるとかで有名な人ですが、会うなり
「おなつかしい、あなたは過去生でも偉大なアーティストでした」
と言ったそうです。
どうやら紹介した人が、最初から彼をアーティストとして紹介していたようなのです。
さらには
「あなたは今生と同じように、素晴らしい絵を描いていました」
と言ったそうです。
その時、彼は絵画の本を小脇に抱えていたのです。
でも彼はアーティストではあっても、音楽家だったのです。
自分の職業が画家ではないことを言いにくくなって、そのまま黙っていたそうです。
その精神科医は、何故彼が今生で画家として成功できたのかを、いろいろと前世の話を交えて教えてくれたそうです。
さすがに料金を払う時には抵抗感があったということです。
人生が夢だと見抜けるくらいの洞察力があれば、前世など持ち出す余地はありません。
さらに高い次元で全体を見ることができれば、過去も未来もなく、すべては「いまここ」で大いなるエネルギーが戯れていることを知るでしょう。
それは日常的な理性ではつかみきれない超現実です。
全ては宇宙(神)の戯れ。
そのことを古代インドではリーラ(Leela)と呼んでいました。
実際に見えている物質世界だけがリアルなものではないということを、多くの人が知る時代になりました。
それはとても素晴らしいことですが、その一方で陥りやすい罠も存在します。
特別な能力や、特別な体験を求めるのではなく、自分のあたりまえさを受け入れていくのが大切だと思います。
わかったような事を言ってしまいましたが、僕はそのように考えています。
何かを受け取ってくれた人は押してください。

PS
7月6日に東京でライブとミニ講演会のイベントをします。
今日から受け付けを開始します。
098-866-5880(母家)
PS2 (プレステ2じゃありません)
裏ブログの「かんながら」でも毎日メッセージを発信しています。
この数日は、「全てはひとつ」というテーマで書いています。
長くなるのでこちらに書かせてもらいます。
前世のことで、できたら教えていただきたいのですが…。
過去世のことが分かる、という人が時々いますよね。
そういう人に一度みてもらったことがあります。
私は、過去のあるときにも今の夫と結婚していて、最初の子どもを妊娠中に、夫の母親(これも今世の姑と同一人物)に嫉妬のため首を絞めて殺されてしまったんだそうです。
だから、今世では(カルマ解消のために?)離婚した方がいい、と言われました。
確かに、夫との関係にすっきりしない感じはずっとあって、子どもも作っていません。
だから、そういう人の話を聞いてみようと思ったのですが、いざ話を聞いてみると、信じたくないと思いつつも、やはり心のどこかで気になります。
でも、カルマ解消のためなら、逆に今世ではこの夫婦生活を幸せにやり切る、というのもありではないか?とも考えたり。
過去世の話をどう消化したらいいのか、困っています。

僕の考えがすべて正しいとは思いませんが、僕なりの考えを述べてみます。
確かに僕たちの魂は不滅なので、前世があるといえばありますが、それは一般に思われているような形ではありません。
それだけは僕自身の内的体験(超越体験のようなもの)から、はっきり言うことができます。
前世と今生において、あなたの中に連続しているものは何一つありません。
それどころか、今生においてさえ、あなたの中に連続しているものはないのです。
あなたという存在は、常に刹那的なその場限りの体験です。
連続した「自己」は、時間という観念が作り出す幻想なのです。
したがって、「自己」も「人生」も夢のようなものです。
さて、あなたはなぜ、自分が忘れてしまった自分の夢を、他の人に教えてもらおうとするのでしょうか。
あなたの夢をあなたの代わりに見れるというその人は、どんな人なのでしょう。
たとえばあなたが昨日見た夢を覚えていたとして、その夢をピタリと言い当てる第三者がいると思いますか。
もしそんな人がひとりでもいたら、人は他人の夢を透視できることになります。
あなたの前世は、あなたが主観的に作り出した前回の人生でのストーリーです。
それはあなたの観念が解釈した、自分本位のストーリーです。
それはまさに、夢のようなものです。
ちょっと意地悪な言い方になりますが、あなたの前世を言い当てたという人は、あなたが昨日見た夢を正確に言い当てることができるでしょうか。
あるいは、前世が見えると言うなら、あなたのここまでの半生もわかることでしょう。
前世よりも近い分だけ、より正確にわかるのではないでしょうか。
ここまでの半生ならあなたにも記憶があるので、当たっているかどうかわかりますよね。
同様に、もし自分の前世を覚えている人がいたとしたら、ぜひ前世を教えてくれる人に会って、自分の前世を教えてもらって下さい。
もし話が100%一致していたとしたら、僕も認めます。
でも残念ながら、そのようなことは起きないと思います。
今のあなたを見ての印象から、その人が連想することを伝えている可能性があります。
それは比喩としては面白いですが、それ以上のものではありません。
今あなたが抱えている問題を解決するのに、過去生まで持ち出すとしたら、その過去生の問題はどこまでさかのぼればいいのでしょう。
あなたの夫との関係は、あなたの選択によってどのようにもなります。
その選択の自由は100%あなたにあります。
今あなたは、自分の選択に責任を持つ生き方を学んでいるのだと思います。
以前、前世療法という本がベストセラーになりました。
僕も何度か読みました。
すべてを否定する気はありませんが、一部の人たちに安易な誤解を与えた部分はあったと思います。
余談ですが、実際にあった話を紹介します。
僕の友人が、ある人の紹介で沖縄にいる著名な精神科医と会いました。
その人は本もたくさん出していて、過去生を言い当てるとかで有名な人ですが、会うなり
「おなつかしい、あなたは過去生でも偉大なアーティストでした」
と言ったそうです。
どうやら紹介した人が、最初から彼をアーティストとして紹介していたようなのです。
さらには
「あなたは今生と同じように、素晴らしい絵を描いていました」
と言ったそうです。
その時、彼は絵画の本を小脇に抱えていたのです。
でも彼はアーティストではあっても、音楽家だったのです。
自分の職業が画家ではないことを言いにくくなって、そのまま黙っていたそうです。
その精神科医は、何故彼が今生で画家として成功できたのかを、いろいろと前世の話を交えて教えてくれたそうです。
さすがに料金を払う時には抵抗感があったということです。
人生が夢だと見抜けるくらいの洞察力があれば、前世など持ち出す余地はありません。
さらに高い次元で全体を見ることができれば、過去も未来もなく、すべては「いまここ」で大いなるエネルギーが戯れていることを知るでしょう。
それは日常的な理性ではつかみきれない超現実です。
全ては宇宙(神)の戯れ。
そのことを古代インドではリーラ(Leela)と呼んでいました。
実際に見えている物質世界だけがリアルなものではないということを、多くの人が知る時代になりました。
それはとても素晴らしいことですが、その一方で陥りやすい罠も存在します。
特別な能力や、特別な体験を求めるのではなく、自分のあたりまえさを受け入れていくのが大切だと思います。
わかったような事を言ってしまいましたが、僕はそのように考えています。
何かを受け取ってくれた人は押してください。

PS
7月6日に東京でライブとミニ講演会のイベントをします。
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2008年05月15日
目覚め 2
僕たちは、身体と心と魂の三つからできている、三位一体の存在です。
悟るとは、身体と心の束縛から自由になって、純粋な魂そのものになるということです。
魂は時間も空間も超えています。
それはいつも「いま・ここ」にあります。
死ぬのは身体と心だけです。
魂は死ぬこともありません。
それは永遠不滅、不生不滅の存在です。
一休はこんな歌を残しています。
仏法は不生不滅のものなれど
迷えば生死流転とぞ知れ
仏法とは、真理という意味です。
我々の本質は生まれることも死ぬこともないけれど、その真理を忘れて現象界に埋没してしまうと、輪廻転生だとか、因縁因果だとかの道を堂々めぐりすることになるよという意味です。
人生とは、そんな迷いの世界をさ迷っている旅人のようなものです。
重い荷物を背負って、うんしょ、うんしょって、同じ道をぐるぐると回っているわけです。
だからね・・・もう終わりにしましょうよ。
方法は簡単。
ただ目覚めるだけです。
じゃ、どうやって目覚めるのか。
そのための準備として、日々の生活の中でできることをお話しします。

僕たちが、身体と心と魂の三位一体の存在だということは、先ほどお話ししましたね。
そのうちの身体と心のお掃除をするのが、日々の準備です。
まずは身体ですが、なるべくピュアな状態に近づけていくために、煙草やお酒、肉類を減らしていくのがいいと思います。
それから、人工的な薬品がたくさん入っているもの。(たとえばコンビニのおにぎりとか)
あのご飯、なんであんなに白く輝いているんでしょう。
どうして何日たっても食べられるのか、いったいどんな処理がなされているのか・・・
安さや利便性を優先して、身体への配慮を後回しにしているような食べ物を減らしていくのが無難です。
次は情報の選択です。
最も身近なことでは、テレビを見ないことをお勧めします。
殺人物のドラマや、世の中の不幸をひたすら伝えるニュース、低俗な笑いなどなど、精神の成長を妨げるような情報に満ちているのがテレビ番組です。
もちろん中には良心的な番組もあるので、選ぶのはいいと思いますが、どうしてもそのまま点けっ放しにしてしまいがちなので、いっそ見ないようにしたほうがいいと思います。
あとは暴力や戦争もののDVDなども控えましょう。
興奮はしますが、そのたびに低い波動を作り出しているので代償が大きすぎます。
ちなみに僕は新聞も読みません。
情報はたまに聴くラジオとネットだけですが、情報過多にならない分だけ、心身共に絶好調です。
これらは完璧にはできませんが、心がけるだけでも大きな違いが出てくると思います。
そして最後にもう一つ、瞑想の習慣を持つことをお勧めします。
瞑想についてはこのブログでも様々なスタイルを紹介してきましたから、自分に合ったものを取り入れて、一日10分でもいいからやってみましょう。
特に坐禅は、身体の健康にも心の健康にも優れた効果があることが、多くの医学者によって証明され、その手の本もたくさん出版されています。
もしみんなが坐禅の習慣を持てば、国の医療費が激減するとのことです。
食べ物、情報、瞑想習慣。
この3点に気を配ってみましょう。
今僕たちは歴史的にも極めて稀な、変革の時代を生きています。
しかもその変革は、単に社会制度が変わっていくだけでなく、人間の意識が飛躍的に向上するチャンスも孕んでいます。
その波に乗るためにも、自分にできるほんの僅かな心がけを持ってみましょう。
以上、先日の「いまここ塾」でお話したことの抜粋でしたが、このような情報を、いとも簡単に多くの人に発信できることを感謝します
このブログを応援してくれる人は2つのボタンを押してください。

悟るとは、身体と心の束縛から自由になって、純粋な魂そのものになるということです。
魂は時間も空間も超えています。
それはいつも「いま・ここ」にあります。
死ぬのは身体と心だけです。
魂は死ぬこともありません。
それは永遠不滅、不生不滅の存在です。
一休はこんな歌を残しています。
仏法は不生不滅のものなれど
迷えば生死流転とぞ知れ
仏法とは、真理という意味です。
我々の本質は生まれることも死ぬこともないけれど、その真理を忘れて現象界に埋没してしまうと、輪廻転生だとか、因縁因果だとかの道を堂々めぐりすることになるよという意味です。
人生とは、そんな迷いの世界をさ迷っている旅人のようなものです。
重い荷物を背負って、うんしょ、うんしょって、同じ道をぐるぐると回っているわけです。
だからね・・・もう終わりにしましょうよ。
方法は簡単。
ただ目覚めるだけです。
じゃ、どうやって目覚めるのか。
そのための準備として、日々の生活の中でできることをお話しします。
僕たちが、身体と心と魂の三位一体の存在だということは、先ほどお話ししましたね。
そのうちの身体と心のお掃除をするのが、日々の準備です。
まずは身体ですが、なるべくピュアな状態に近づけていくために、煙草やお酒、肉類を減らしていくのがいいと思います。
それから、人工的な薬品がたくさん入っているもの。(たとえばコンビニのおにぎりとか)
あのご飯、なんであんなに白く輝いているんでしょう。
どうして何日たっても食べられるのか、いったいどんな処理がなされているのか・・・
安さや利便性を優先して、身体への配慮を後回しにしているような食べ物を減らしていくのが無難です。
次は情報の選択です。
最も身近なことでは、テレビを見ないことをお勧めします。
殺人物のドラマや、世の中の不幸をひたすら伝えるニュース、低俗な笑いなどなど、精神の成長を妨げるような情報に満ちているのがテレビ番組です。
もちろん中には良心的な番組もあるので、選ぶのはいいと思いますが、どうしてもそのまま点けっ放しにしてしまいがちなので、いっそ見ないようにしたほうがいいと思います。
あとは暴力や戦争もののDVDなども控えましょう。
興奮はしますが、そのたびに低い波動を作り出しているので代償が大きすぎます。
ちなみに僕は新聞も読みません。
情報はたまに聴くラジオとネットだけですが、情報過多にならない分だけ、心身共に絶好調です。
これらは完璧にはできませんが、心がけるだけでも大きな違いが出てくると思います。
そして最後にもう一つ、瞑想の習慣を持つことをお勧めします。
瞑想についてはこのブログでも様々なスタイルを紹介してきましたから、自分に合ったものを取り入れて、一日10分でもいいからやってみましょう。
特に坐禅は、身体の健康にも心の健康にも優れた効果があることが、多くの医学者によって証明され、その手の本もたくさん出版されています。
もしみんなが坐禅の習慣を持てば、国の医療費が激減するとのことです。
食べ物、情報、瞑想習慣。
この3点に気を配ってみましょう。
今僕たちは歴史的にも極めて稀な、変革の時代を生きています。
しかもその変革は、単に社会制度が変わっていくだけでなく、人間の意識が飛躍的に向上するチャンスも孕んでいます。
その波に乗るためにも、自分にできるほんの僅かな心がけを持ってみましょう。
以上、先日の「いまここ塾」でお話したことの抜粋でしたが、このような情報を、いとも簡単に多くの人に発信できることを感謝します
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2008年05月14日
目覚め
そうなんですよ。
あいかわらず感情に振り回されたり、低次元の波動を浴びたり与えたりしますが、それが本当の自分じゃないんです。
それは単に、目の前の映像を現実だと思ってしまって、巻き込まれてしまっているだけのこと。
実際に人生とは、自分の心が映し出した映像に、自分本位の反応をしているだけの、一人相撲みたいなもので、それは夢そのものです。
自分の人生が夢だったと気づくのは、大いなる祝福です。
あらゆる重荷(義務・役割・責任)から解放される、歓喜の瞬間です。

この人生が夢だとわかると、前世も前々世も全部夢だったってわかります。
だから前世はあるといえばあるし、ないと言えばない。
そんなものに大した意味はないわけです、夢は夢ですから。
しかも笑っちゃうのは、今回の人生で四苦八苦してやってきたことは、ほとんど前世でも同じようなことをやってきている。
僕たちは同じような夢を繰り返し見ているんです。
もう終わりにしませんか。
終わりにするには、夢から覚めることです。
目覚めるということ、すなわち悟るということです。
「悟る」というと、なんだか凄く偉大なことで、自分なんかとは無縁だと思う人がいますが、実はそうじゃなくて、あまりにも当たり前すぎて見過ごしているだけです。
本当は僕たちみんな悟っているのに、もうちょっと夢を見ていたいものだから、悟りを忘れた振りをして生きているんです。
でも、もうそろそろ終わりにしましょうよ。
さて、それじゃ、どうやって目覚めるかですが・・・
目覚めるという行為は、自分の意志じゃできないんです。
ちょうど眠るということが自分の意志でできないのと似ています。
夜眠るとき、「よし眠るぞ、3・・・2・・・1・・・グー、グー」って眠れるわけじゃなくて、眠りが訪れるのを待つしかないですよね。
自分が眠るという行為をするのではなくて、眠りが自分を乗っ取るわけです。
悟り(目覚め)も同じで、自分がそれを直接できるわけじゃなく、悟りが自分を乗っ取るんです。
いきなり向こうからやってくるんですよ。
僕らにできるのはただ待つだけ。
でも準備して待つことができます。
夜眠る時も、眠りに落ちやすいように準備するでしょ。
部屋を暗くして、居心地のいいベッドに入って、身体を横たえて、目を閉じて、力を抜いて・・・
それと同じです。
それじゃ、悟りが来るのを迎える準備って何があるんでしょう。
実は今日の記事は、昨日の「いまここ塾」でお話した内容の再現です。
来れなかった人のために書きましたが、来た人にとっても復習になったのではないでしょうか。
長くなってしまったので、この続きはまた明日書きますね。
来週の「いまここ塾」は150回記念です。
と言っても、いつもと同じですが(^o^)
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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あいかわらず感情に振り回されたり、低次元の波動を浴びたり与えたりしますが、それが本当の自分じゃないんです。
それは単に、目の前の映像を現実だと思ってしまって、巻き込まれてしまっているだけのこと。
実際に人生とは、自分の心が映し出した映像に、自分本位の反応をしているだけの、一人相撲みたいなもので、それは夢そのものです。
自分の人生が夢だったと気づくのは、大いなる祝福です。
あらゆる重荷(義務・役割・責任)から解放される、歓喜の瞬間です。

この人生が夢だとわかると、前世も前々世も全部夢だったってわかります。
だから前世はあるといえばあるし、ないと言えばない。
そんなものに大した意味はないわけです、夢は夢ですから。
しかも笑っちゃうのは、今回の人生で四苦八苦してやってきたことは、ほとんど前世でも同じようなことをやってきている。
僕たちは同じような夢を繰り返し見ているんです。
もう終わりにしませんか。
終わりにするには、夢から覚めることです。
目覚めるということ、すなわち悟るということです。
「悟る」というと、なんだか凄く偉大なことで、自分なんかとは無縁だと思う人がいますが、実はそうじゃなくて、あまりにも当たり前すぎて見過ごしているだけです。
本当は僕たちみんな悟っているのに、もうちょっと夢を見ていたいものだから、悟りを忘れた振りをして生きているんです。
でも、もうそろそろ終わりにしましょうよ。
さて、それじゃ、どうやって目覚めるかですが・・・
目覚めるという行為は、自分の意志じゃできないんです。
ちょうど眠るということが自分の意志でできないのと似ています。
夜眠るとき、「よし眠るぞ、3・・・2・・・1・・・グー、グー」って眠れるわけじゃなくて、眠りが訪れるのを待つしかないですよね。
自分が眠るという行為をするのではなくて、眠りが自分を乗っ取るわけです。
悟り(目覚め)も同じで、自分がそれを直接できるわけじゃなく、悟りが自分を乗っ取るんです。
いきなり向こうからやってくるんですよ。
僕らにできるのはただ待つだけ。
でも準備して待つことができます。
夜眠る時も、眠りに落ちやすいように準備するでしょ。
部屋を暗くして、居心地のいいベッドに入って、身体を横たえて、目を閉じて、力を抜いて・・・
それと同じです。
それじゃ、悟りが来るのを迎える準備って何があるんでしょう。
実は今日の記事は、昨日の「いまここ塾」でお話した内容の再現です。
来れなかった人のために書きましたが、来た人にとっても復習になったのではないでしょうか。
長くなってしまったので、この続きはまた明日書きますね。
来週の「いまここ塾」は150回記念です。
と言っても、いつもと同じですが(^o^)
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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2008年05月13日
敏郎クン
僕の中には、目覚めた純粋意識と、オレ!オレ!と叫ぶ「敏郎クン」の二人が住んでいます。
人生の多くを「敏郎クン」として生きてきました。
「敏郎クン」は自分をよく見せようとして、様々な衣装で着飾り、自分の得になりそうなものを引きつけ、損だと思ったら遠ざけ、自分を脅かしそうなものを注意深く見張りながら生きています。
いつも傷口が開いていて、誰かが不用意にそこに触れると「フギャ!」とばかりに大声をあげ、必死で傷口をかばい、触れた相手を非難します。

一番の興味は自分の安全を保障してくれるモノで、反対に少しでも不安材料が出てくると、あーでもいないこーでもないと思考を巡らせて、なんとか最悪の事態を回避しようとします。
そんなふうに思考を巡らせても、100%の安全は見つけられないので、いつも不安や心配が付いてまわり、心の中にはストレスという澱(よどみ)が溜まっています。
いつの間にかそんな不快感が通常になっていて、なんとか爽快な気分になりたいと、あれこれと計画を立てるのですが、たとえそれがうまく運んでも、時間の問題で、またおなじ不快感に覆われている自分を発見します。
もっといい計画を立てて、もっと頑張らなければって、その満たされないゲームは延々と繰り返されていくのです。
ある時、初めて「敏郎クン」ではないもう一人の自分を発見します。
それは「目覚めた純粋意識」です。
それまで無数の問題を抱えていた「敏郎クン」は、ビックリしました。
だって現実は何も変わっていないのに、その現実から問題が消えてしまって、すべてはあるがままにただあるだけだって、そんな安定した気持になったからです。
その「目覚めた純粋意識」で生きるためには瞑想が一番の妙薬だとわかり、それからは新しく生活の中に瞑想習慣を取り入れるようになりました。
ところがいつまでたっても低我の「敏郎クン」は消えることなく、油断するとまたすぐに自己同化してしまいます。
はじめは手を焼きましたが、最近やっと気がつき始めました。
その「敏郎クン」も自分の一部であり、決して無くなることはないし、無くさなくていいんだとわかったんです。
低我は敵じゃなくて、克服すべき課題でもなくて、それも宇宙の一部として存在しているんだって思いました。
ちょうど光に対する影のようなもので、影があるから光が際立つわけで、影は光の敵じゃなかったんです。
それからというもの、「敏郎クン」とも仲良しになって、彼が出てくると、「よっ、また来たな」って、しばらくは彼と遊んで、またお別れする毎日です。
人間の全ての悩み苦しみは低我が作り出しているので、そのことを教えてあげたいなんて、おせっかいな気持ちもあって、こうしてブログなんか書いていたりします。
でも気がつくと「敏郎クン」が書いている日もあり、それも味わいとしては悪くないなって、そんなふうに思っています。
「目覚めた純粋意識」は誰もの中にあって、それこそが存在の本質です。
すべての人はその意識で生かされています。
もし頭の中であーだこーだ堂々めぐりし始めたら、それを全部「目覚めた純粋意識」にお任せしてしまえばいいんです。
放っておけば、収まる所に収まります。
「大丈夫だよ、すべてうまくいくから」って純粋意識が教えてくれます。
あなたにもそのことを伝えておいてほしいと言っています。
さて今日も、「敏郎クン」と戯れるとします。
今日の沖縄は、さわやかな青空が広がっています。
肺いっぱいに新鮮な空気を吸えて、あー気持ちがいい。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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母家は今月いっぱいでいったん店じまいします。
またさらにスケールアップしてお目にかかりますが、それまではお別れです。
新しい母家は、宇宙とのつながりを感じられるような、瞑想空間と一体化しています。
楽しみにしていてください。
17日の土曜日は、母家フォークソングナイトの最終回を開きます。
お問い合わせは母家(098-866-5880)まで。
人生の多くを「敏郎クン」として生きてきました。
「敏郎クン」は自分をよく見せようとして、様々な衣装で着飾り、自分の得になりそうなものを引きつけ、損だと思ったら遠ざけ、自分を脅かしそうなものを注意深く見張りながら生きています。
いつも傷口が開いていて、誰かが不用意にそこに触れると「フギャ!」とばかりに大声をあげ、必死で傷口をかばい、触れた相手を非難します。

一番の興味は自分の安全を保障してくれるモノで、反対に少しでも不安材料が出てくると、あーでもいないこーでもないと思考を巡らせて、なんとか最悪の事態を回避しようとします。
そんなふうに思考を巡らせても、100%の安全は見つけられないので、いつも不安や心配が付いてまわり、心の中にはストレスという澱(よどみ)が溜まっています。
いつの間にかそんな不快感が通常になっていて、なんとか爽快な気分になりたいと、あれこれと計画を立てるのですが、たとえそれがうまく運んでも、時間の問題で、またおなじ不快感に覆われている自分を発見します。
もっといい計画を立てて、もっと頑張らなければって、その満たされないゲームは延々と繰り返されていくのです。
ある時、初めて「敏郎クン」ではないもう一人の自分を発見します。
それは「目覚めた純粋意識」です。
それまで無数の問題を抱えていた「敏郎クン」は、ビックリしました。
だって現実は何も変わっていないのに、その現実から問題が消えてしまって、すべてはあるがままにただあるだけだって、そんな安定した気持になったからです。
その「目覚めた純粋意識」で生きるためには瞑想が一番の妙薬だとわかり、それからは新しく生活の中に瞑想習慣を取り入れるようになりました。
ところがいつまでたっても低我の「敏郎クン」は消えることなく、油断するとまたすぐに自己同化してしまいます。
はじめは手を焼きましたが、最近やっと気がつき始めました。
その「敏郎クン」も自分の一部であり、決して無くなることはないし、無くさなくていいんだとわかったんです。
低我は敵じゃなくて、克服すべき課題でもなくて、それも宇宙の一部として存在しているんだって思いました。
ちょうど光に対する影のようなもので、影があるから光が際立つわけで、影は光の敵じゃなかったんです。
それからというもの、「敏郎クン」とも仲良しになって、彼が出てくると、「よっ、また来たな」って、しばらくは彼と遊んで、またお別れする毎日です。
人間の全ての悩み苦しみは低我が作り出しているので、そのことを教えてあげたいなんて、おせっかいな気持ちもあって、こうしてブログなんか書いていたりします。
でも気がつくと「敏郎クン」が書いている日もあり、それも味わいとしては悪くないなって、そんなふうに思っています。
「目覚めた純粋意識」は誰もの中にあって、それこそが存在の本質です。
すべての人はその意識で生かされています。
もし頭の中であーだこーだ堂々めぐりし始めたら、それを全部「目覚めた純粋意識」にお任せしてしまえばいいんです。
放っておけば、収まる所に収まります。
「大丈夫だよ、すべてうまくいくから」って純粋意識が教えてくれます。
あなたにもそのことを伝えておいてほしいと言っています。
さて今日も、「敏郎クン」と戯れるとします。
今日の沖縄は、さわやかな青空が広がっています。
肺いっぱいに新鮮な空気を吸えて、あー気持ちがいい。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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母家は今月いっぱいでいったん店じまいします。
またさらにスケールアップしてお目にかかりますが、それまではお別れです。
新しい母家は、宇宙とのつながりを感じられるような、瞑想空間と一体化しています。
楽しみにしていてください。
17日の土曜日は、母家フォークソングナイトの最終回を開きます。
お問い合わせは母家(098-866-5880)まで。
2008年05月12日
かかし
今日は自分のことについて書いてみます。
失望させるかもしれませんが、正直に書かないとブログが飾り物になってしまうので、その時その瞬間に感じていることをありのままに書いてみます。

僕にはいわゆる「夢」がありません。
「どうしても欲しいもの」や「やりたいこと」がないのです。
「自分がこうなりたい」という理想もありません。
毎日、何不自由なく暮らしています。
家族にも仕事にも健康にも恵まれています。
それじゃ、幸せかと言えば、う~ん・・・これが幸せなのかもしれませんね。
正確に言うと不幸じゃないって感じです。
この幸せ感は、ワクワクした躍動感の中で、「あー幸せだな!!」っていう高揚感とは違います。
そんな高揚感もいいですが、遅かれ早かれ反動がくるので、別にそんな高揚感もいらないという気持ちのほうが大きいです。
それでも生きていると、やたらハイな気持ちになる時があります。
それはそれでいい感じです。
ただ積極的にそれを求めていないだけです。
僕は思います。
この世には幸せと不幸せがあるのではなく、不幸せと不幸せではない状態があるのではないかと。
自分の現実を観察してみてそう思います。
本当の幸せとは無条件な幸せのことで、それはこの世のものではなく、僕たちが自己を超えて、宇宙の真実に出会ったときに初めて感じるものだと思います。
それじゃ、いつもその状態にいることを目指せばいいということになりますが、もしいつもそこにいたら、その幸せを幸せと認識できません。
だから、たま~~に感じるくらいがちょうどいいと思っています。
もし神様がいて、何でも望みをかなえてくれると言うなら、人類の精神レベルが上がって、地上から苦しみや争いが無くなればいいと思います。
望みはそれくらいです。
これって成長したからでしょうか、それとも無気力の極みでしょうか。
僕にはわかりませんが、この感覚をどのように評価しようとも、僕は僕であり、それ以上でも以下でもありません。
ある日ある時をきっかけに、急に心が燃えだして、「情熱だ!」なんて叫びながらいきなり行動的になるかもしれません。
それはそれでいいですが、きっとまた冷めると思います。
そんなこんなで、今日も生きています。
アレ?
今気がついたのですが、こうやって自分のありのままを書いていたら、なんとなく喜びが湧いてきました。
無理して「いいこと」を書くより、その時その時の正直な自分をぶつけるのがいいですね。
気分が爽やかです。
いつも生意気なことを言っていますが、僕の実態はこんなものです。
明日になると、また違う自分がいるかもしれませんが、今の自分を正直に書いてみました。
そんな僕の中で一つだけプラスな面があるとしたら、「足るを知る」ということができていることかもしれません。
何も望みがないというのは、今のままで十分すぎるくらい十分だということです。
今日も生かされていることに感謝しています。
これからも肩ひじ張らずに、等身大の自分でブログ生活を続けたいと思います。
今日もここにきてくれてありがとうございました。
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明日は久しぶりの「いまここ塾」です。
けっこうワクワクしていたりして
失望させるかもしれませんが、正直に書かないとブログが飾り物になってしまうので、その時その瞬間に感じていることをありのままに書いてみます。

僕にはいわゆる「夢」がありません。
「どうしても欲しいもの」や「やりたいこと」がないのです。
「自分がこうなりたい」という理想もありません。
毎日、何不自由なく暮らしています。
家族にも仕事にも健康にも恵まれています。
それじゃ、幸せかと言えば、う~ん・・・これが幸せなのかもしれませんね。
正確に言うと不幸じゃないって感じです。
この幸せ感は、ワクワクした躍動感の中で、「あー幸せだな!!」っていう高揚感とは違います。
そんな高揚感もいいですが、遅かれ早かれ反動がくるので、別にそんな高揚感もいらないという気持ちのほうが大きいです。
それでも生きていると、やたらハイな気持ちになる時があります。
それはそれでいい感じです。
ただ積極的にそれを求めていないだけです。
僕は思います。
この世には幸せと不幸せがあるのではなく、不幸せと不幸せではない状態があるのではないかと。
自分の現実を観察してみてそう思います。
本当の幸せとは無条件な幸せのことで、それはこの世のものではなく、僕たちが自己を超えて、宇宙の真実に出会ったときに初めて感じるものだと思います。
それじゃ、いつもその状態にいることを目指せばいいということになりますが、もしいつもそこにいたら、その幸せを幸せと認識できません。
だから、たま~~に感じるくらいがちょうどいいと思っています。
もし神様がいて、何でも望みをかなえてくれると言うなら、人類の精神レベルが上がって、地上から苦しみや争いが無くなればいいと思います。
望みはそれくらいです。
これって成長したからでしょうか、それとも無気力の極みでしょうか。
僕にはわかりませんが、この感覚をどのように評価しようとも、僕は僕であり、それ以上でも以下でもありません。
ある日ある時をきっかけに、急に心が燃えだして、「情熱だ!」なんて叫びながらいきなり行動的になるかもしれません。
それはそれでいいですが、きっとまた冷めると思います。
そんなこんなで、今日も生きています。
アレ?
今気がついたのですが、こうやって自分のありのままを書いていたら、なんとなく喜びが湧いてきました。
無理して「いいこと」を書くより、その時その時の正直な自分をぶつけるのがいいですね。
気分が爽やかです。
いつも生意気なことを言っていますが、僕の実態はこんなものです。
明日になると、また違う自分がいるかもしれませんが、今の自分を正直に書いてみました。
そんな僕の中で一つだけプラスな面があるとしたら、「足るを知る」ということができていることかもしれません。
何も望みがないというのは、今のままで十分すぎるくらい十分だということです。
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けっこうワクワクしていたりして

2008年05月11日
母性愛
今日は母の日ですね

昨夜は「母の日コンサート」を開きました。
久しぶりにイベントプロデュースをさせてもらいました。
古謝美佐子さんと惣領智子が、「童神」を沖縄言葉と大和言葉で交互に唄う姿を見たくて、企画しました。
この世の愛の中で母の愛以上のものはないと思っているので、とても楽しみにしていましたが、想像以上の成功で、心から楽しむことができました。
ご協力いただいた皆さん、ありがとうございました。
先日、惣領智子(ちなみに妻です)をラジオのゲストに呼んで、「母」という存在について話を聞きました。
彼女が言っていた話で興味深かったのは、母性愛というものは赤ちゃんを産んだから自動的に湧き出すものではなく、子供を育てる中で養われていく質だということです。
若いお母さんの中には、自分には母性愛がないのではと言って悩む人もいるようですが、それは人間的な欠陥ではなくて、心をこめて育てるという経験が十分ではないからです。
これは男も同じだと思います。
息子が生まれた時、正直言って自分の子供であるという感覚があまりありませんでした。
もちろん可愛いし愛おしいのですが、どこか客観的に小さな命を見ていた自分がいました。
赤ちゃんを育てるのは僕にとって初めての経験だったので、なるべくたくさんの機会に、ミルクを温めたり、オシメを替えたりをさせてもらいました。
すると数カ月もしないうちに、子供に対する気持ちが大きく変わっていることに気づきました。
その愛おしさの質が深くなっていて、これが母性愛と呼ばれるものかもしれないと思いました。
男にも母性愛は存在します。
女性のそれとは比べ物にならないかもしれませんが、男なりに感じた新しい感覚がありました。
その時思いました。
今までにこれほど他の誰かを愛したことがあっただろうかと。
そして相手が誰であれ、その対象をどれだけ深く愛せるかが、愛する能力だと思いました。
よく宇宙的な愛とか、普遍的な愛とかを口にする人がいます。
それは精神世界を学んだ「男性」に多いのですが、その人が身近な存在をどれほど深く愛することができているかというと、意外に観念的な愛に終始し、それを発揮しているつもりになっているだけのケースがあります。
実は僕もそんな人間の一人だったのですが、子供が生まれたおかげで何かを学ばせてもらったように思います。
今日もここきてくれてありがとうございました。
ポチッの心は母心
押せば命の泉湧く
ポチッ、ポチッ

話は変わりますが、7月19日に母が米寿(88歳)の誕生日を迎えます。
それをお祝いして、翌日の20日に、一家総出演のコンサートを企画しています。
会場は沖縄国立劇場です。
国立劇場でファミリーコンサートというのも恐れ多いのですが、母は50年以上も三味線を習ってきたので、この日はヒノキ舞台で演奏してもらおうと思っています。
けっこうやる気になっていて、練習に励んでいるようです。
みなさん、いらして下さいね。
それでは今夜、西原でお会いしましょう。

昨夜は「母の日コンサート」を開きました。
久しぶりにイベントプロデュースをさせてもらいました。
古謝美佐子さんと惣領智子が、「童神」を沖縄言葉と大和言葉で交互に唄う姿を見たくて、企画しました。
この世の愛の中で母の愛以上のものはないと思っているので、とても楽しみにしていましたが、想像以上の成功で、心から楽しむことができました。
ご協力いただいた皆さん、ありがとうございました。
先日、惣領智子(ちなみに妻です)をラジオのゲストに呼んで、「母」という存在について話を聞きました。
彼女が言っていた話で興味深かったのは、母性愛というものは赤ちゃんを産んだから自動的に湧き出すものではなく、子供を育てる中で養われていく質だということです。
若いお母さんの中には、自分には母性愛がないのではと言って悩む人もいるようですが、それは人間的な欠陥ではなくて、心をこめて育てるという経験が十分ではないからです。
これは男も同じだと思います。
息子が生まれた時、正直言って自分の子供であるという感覚があまりありませんでした。
もちろん可愛いし愛おしいのですが、どこか客観的に小さな命を見ていた自分がいました。
赤ちゃんを育てるのは僕にとって初めての経験だったので、なるべくたくさんの機会に、ミルクを温めたり、オシメを替えたりをさせてもらいました。
すると数カ月もしないうちに、子供に対する気持ちが大きく変わっていることに気づきました。
その愛おしさの質が深くなっていて、これが母性愛と呼ばれるものかもしれないと思いました。
男にも母性愛は存在します。
女性のそれとは比べ物にならないかもしれませんが、男なりに感じた新しい感覚がありました。
その時思いました。
今までにこれほど他の誰かを愛したことがあっただろうかと。
そして相手が誰であれ、その対象をどれだけ深く愛せるかが、愛する能力だと思いました。
よく宇宙的な愛とか、普遍的な愛とかを口にする人がいます。
それは精神世界を学んだ「男性」に多いのですが、その人が身近な存在をどれほど深く愛することができているかというと、意外に観念的な愛に終始し、それを発揮しているつもりになっているだけのケースがあります。
実は僕もそんな人間の一人だったのですが、子供が生まれたおかげで何かを学ばせてもらったように思います。
今日もここきてくれてありがとうございました。
ポチッの心は母心
押せば命の泉湧く
ポチッ、ポチッ

話は変わりますが、7月19日に母が米寿(88歳)の誕生日を迎えます。
それをお祝いして、翌日の20日に、一家総出演のコンサートを企画しています。
会場は沖縄国立劇場です。
国立劇場でファミリーコンサートというのも恐れ多いのですが、母は50年以上も三味線を習ってきたので、この日はヒノキ舞台で演奏してもらおうと思っています。
けっこうやる気になっていて、練習に励んでいるようです。
みなさん、いらして下さいね。
それでは今夜、西原でお会いしましょう。
2008年05月10日
アッチの世界とコッチの世界

先日、一年前くらいからの過去ログを読み返してみました。
僕たちが肉体だけの生き物ではなく、その背後には想像を超えた大きな力が存在し、しかもそれこそが本当の自分自身であるということを、様々な言い方で説明しようとしているのがわかりました。
そのような観点から言えば、僕たちは一つの同じ存在です。
本当は時間も空間もなく、「いまここ」という説明のつかないエネルギーの戯れ、それが宇宙の本質です。
僕たちはその真実を知るために生まれてきていて、それを知ることはとてつもない喜びです。
このことは信じるとか信じないとかを超えています。
この考えが正しいとか誤りだとかを論じる余地もありません。
それらの議論を挑む人は、実際にはその次元を知らない人です。
人によっては、今の自分で幸せだから、あえてそんな世界を知らなくてもいいとか、そんな話はたんなる幻想で言っている人の思い込みだとか決めつける人さえいます。
しかしその人達も、一目その世界を見れば、後は何も言わなくなります。
そしてそれを体感すること、深く理解することがどれほど大切なことなのか、人に伝えたくなるでしょう。
真理とはそのような性質を持っています。
ポイントは、検証することではなく、実際に体感することなのです。
とは言うものの、僕たちは日々、時間と空間に制限された次元に生きているわけですから、生身の人間として今をどう生きるのか、今生をどのように創り上げるのか、そのことも大切だと思います。
アッチの世界も大切ですがコッチの世界も大切です。
ともすると究極的なメッセージで終始してしまいがちですが、日々の生活に役立つ考えや、自分の存在を使いきって、想像できる限りの高い幸福を身の回りに実現していくような、そんなアイデアも発信していきたいと考えています。
この2、3日は、そんな観点から記事を書いてみました。
みなさんからのコメントを読ませてもらって、とてもやりがいを感じています。
この先も、この手の話を増やしていきたいと考えています。
ブログでしたら、いつでも好きな時間に好きな場所で読んでもらえるので、便利ですよね。
わずかでもあなたの人生の役に立ってくれたら嬉しく思います。
多くの人に届きますように、これからも応援よろしくお願いします。

実際に目の前にいて、生の声で話を聞いてもらえると、それはそれでより立体的に伝わるものがあると思います。
可能な人は、会いに来てください。
歌を交えながらお話しさせてもらうのが、一番自分らしいスタイルかなと思っています。
次回の東京は7月6日です。
詳細は週明けにでもお知らせします。
沖縄では毎月第二日曜日にやっている、西原町での講演会withミニコンがあります。
明日(11日)の19:00スタートです。
早いもので21回目になりました。
場所はサンエー西原シティーの正面です。
お問い合わせは西原自動車(945-4737)
2008年05月09日
プラス思考

目に見えるものよりも、目に見えないものに力があるという考えが一般的になってきたのは、20年くらい前のように思います。
そのころから言われ出したのが、「プラス思考」「肯定的思考」の類です。
確かにこれはそのとおりだと思います。
よく言われているようにプラスの考えはプラスの状況を引きつけ、マイナスの考えはマイナスの状況を引きつけています。
そのどちらが強力だと思いますか。
実は予想に反して、プラス思考はマイナス思考よりはるかに強い力を持っています。
ひとつのプラスの考えが、無数のマイナスの考えを無力化させることができるのです。
だからこそ、プラスのイメージや考えを生活の中で持とうとする姿勢は、人生に大きな恩恵をもたらすことになります。
もしマイナス思考のほうが強力だとしたら、僕たちの人生はとっくに破綻していたことでしょう。
だって、ちょっと油断すると、すぐに心配や不安や嫉妬や裁きのような世界に入り込むのが人間だからです。
さらに幸運なことに、僕たちには「大いなる意識」という強力な助っ人が守ってくれていて、否定的で低い思考が現象化しないように計らってくれています。
それでも現象化してしまうときは、その否定的な経験が、僕らのより高い幸せや魂の成長に役立つ場合です。
何かを学ぶ機会を与えているのです。
僕たちはあまり意識していませんが、その力はいつもあなたのためによかれという思いで、あなたの人生に働きかけてくれているのです。
その働きをさらに強化する方法は2つあります。
ひとつはその力を認め、その力に感謝の気持ちを持つこと。
もうひとつは、肯定的な考えを心がけることです。
そうすると、より高い現実を創造する力が強くなり、その結果が感謝の気持ちを呼び起こし、プラス思考が日常化し、それはさらなる高い現実を生み出していくことになります。
抱えている問題をくよくよ考えている場合じゃありません。
そんな時間があったら、こうなりたいという願望を、喜びと感謝の気持ちで描く練習をしてみましょう。
最後に、否定的な考えに対する態度についてですが、それらが出てきたとき、そのことについてあまり悪く思わないで、「あっまた来た」程度で流してあげましょう。
偉そうに言っている僕も、いまだに低い考えが湧いてくることがあります。
どうやらこれはゼロにはならないようです。
そういう思考を嫌ったり抵抗したり恐れたりすると、さらにその思考に力を与えてしまいます。
だからニッコリ笑ってサヨナラしましょう。
何も知らない幼い子供が悪さをしても、心底腹を立てないでしょ?
それと同じような寛容な態度で対応してあげるのです。
それがコツです。
「私はダメな人間だ」
と思ってしまったら
「私はOKだ」
と言いかえればいいだけの話です。
「お金が心配だ」
と思ってしまったら
「私には十分なお金がある」
と言えばいいのです。
それが運命を好転させていく秘訣です。
今日もキツネにつままれたような話に聞こえたかもしれませんが、真実はこんなにも単純なのです。
このことを知識として知っているのと実践は違うので、今日から始めてみませんか。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように

沖縄WebマガジンryuQに、僕のインタビュー記事の後編が掲載されています。
http://ryuq.ti-da.net/
2008年05月08日
新しい生き方
ブログを毎朝更新していると、その日によって自分という人間がまったく違うことがよくわかります。
考え方も感情も、どんなタッチで書きたいとかも、まったく違います。
もはやそれは同一人物とは言えません。
心の内面を書こうとしているので、そのことがよくわかるのだと思います。
やはり僕たちの中に「自己」という固定された実体はなく、その瞬間瞬間の体験があるだけだと思います。
記憶や思考にごまかされないで、「いま」という感覚を持てば持つほどそのことが理解できます。
するとあらゆる苦しみやストレス、迷いや悩み、心配や不安といったネガティブな感情が消えてなくなります。
それが一番調子のいい日の感覚です。

心配が消えている時は、いつ積極的に行動し、いつ流れに任せるかが明確になってくるのでエネルギーのロスがありません。
そういう時は、いつも巻き込まれている低い自意識から離れて、新しい流れ、大いなる流れに調和しているのです。
そのエネルギーの流れに参加していれば、起こることはすべて、自分や周りの人たちにとって、より高い幸せのためなのだということが信頼できます。
しかも、その流れに任せていると願望は自然に叶っていくのです。
自分の中から、あれやこれやを操作しようという気持ちは消えています。
それらの操作の多くは、何かしらの心配から起きていて、むしろ願望が実現することを妨げていることのほうが多いのです。
もはや役に立たなくなった自分の古いやり方を手放して、新しいやり方に心を開く時です。
それは、あえて言葉にすれば「神と共に生きる」ということです。
特定の信仰のことではなく、自分を超えた大いなるものとの共同作業で人生を創造しているという感覚を持つのです。
「自分がなんとかしなければ」という生き方には限界があります。
精神的な自立を重視して生きるのは悪くはありませんが、それがゴールではありません。
何故ならば「自立」という生き方は、遅かれ早かれ自分を消耗させてしまうからです。
努力、忍耐、頑張り、自己犠牲、「自分が何とかしなくては」の世界に住んでいる人へのキーワードは、「手放す」ということです。
実際には、やっているのは「あなた」ではなく、「事は起きている」からです。
僕たちに必要なのは、喜びの感覚を忘れずに、誠意を持って目の前のことに対応すること。
そして結果に執着しないこと。
それが「手放す」という生き方です。
忙しさに巻き込まれて、低い波動の中で被害者意識を持っているときは、このような言葉が空々しく見えてしまうかもしれません。
それでもあえて言います。
古いパターンにしがみつかないで、新しい状況に心を開いてみましょう。
その道は、いつもいまここに用意されています。
足を止めて深呼吸でもしてみましょう。
今日の空は青くて清々しいですね。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように
考え方も感情も、どんなタッチで書きたいとかも、まったく違います。
もはやそれは同一人物とは言えません。
心の内面を書こうとしているので、そのことがよくわかるのだと思います。
やはり僕たちの中に「自己」という固定された実体はなく、その瞬間瞬間の体験があるだけだと思います。
記憶や思考にごまかされないで、「いま」という感覚を持てば持つほどそのことが理解できます。
するとあらゆる苦しみやストレス、迷いや悩み、心配や不安といったネガティブな感情が消えてなくなります。
それが一番調子のいい日の感覚です。

心配が消えている時は、いつ積極的に行動し、いつ流れに任せるかが明確になってくるのでエネルギーのロスがありません。
そういう時は、いつも巻き込まれている低い自意識から離れて、新しい流れ、大いなる流れに調和しているのです。
そのエネルギーの流れに参加していれば、起こることはすべて、自分や周りの人たちにとって、より高い幸せのためなのだということが信頼できます。
しかも、その流れに任せていると願望は自然に叶っていくのです。
自分の中から、あれやこれやを操作しようという気持ちは消えています。
それらの操作の多くは、何かしらの心配から起きていて、むしろ願望が実現することを妨げていることのほうが多いのです。
もはや役に立たなくなった自分の古いやり方を手放して、新しいやり方に心を開く時です。
それは、あえて言葉にすれば「神と共に生きる」ということです。
特定の信仰のことではなく、自分を超えた大いなるものとの共同作業で人生を創造しているという感覚を持つのです。
「自分がなんとかしなければ」という生き方には限界があります。
精神的な自立を重視して生きるのは悪くはありませんが、それがゴールではありません。
何故ならば「自立」という生き方は、遅かれ早かれ自分を消耗させてしまうからです。
努力、忍耐、頑張り、自己犠牲、「自分が何とかしなくては」の世界に住んでいる人へのキーワードは、「手放す」ということです。
実際には、やっているのは「あなた」ではなく、「事は起きている」からです。
僕たちに必要なのは、喜びの感覚を忘れずに、誠意を持って目の前のことに対応すること。
そして結果に執着しないこと。
それが「手放す」という生き方です。
忙しさに巻き込まれて、低い波動の中で被害者意識を持っているときは、このような言葉が空々しく見えてしまうかもしれません。
それでもあえて言います。
古いパターンにしがみつかないで、新しい状況に心を開いてみましょう。
その道は、いつもいまここに用意されています。
足を止めて深呼吸でもしてみましょう。
今日の空は青くて清々しいですね。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
多くの人に届きますように
2008年05月07日
またしてもコンニチハ
時間ができたので、このブログを一年前から遡って読んでみたら・・・あなた!このブログ凄く面白いよ。
なんとなく気分が滅入った時に元気になれるヒントが満載!
時間ができたら、ぜひとも過去ログを読んで欲しいと思いました。

こうしてずっとPCの前にいる日は、その瞬間に思ったことをふとブログに書きたくなっちゃって、またこうして書いています。
で、今何を思ったかというと、明るい気持ちを持つと、現実そのものが明るくなるってこと。
人生を作り出しているのは「気分」かもしれないって思ったわけです。
ちょっとクサクサしている人は、気分チェンジしましょう。
やり方は人それぞれかもしれないけれど、たとえば人のいない所に行って無理やり笑ってみるとかね。
どうってことないって思えるまで、無理に笑うと、そのうちそんな気分になってくる。
問題解決に深刻になるより、深刻さを吹き飛ばしてしまうほうが早道だって思いました。
それじゃ、また
笑って押してみよう
ガッハッハ、ポッチッチ
なんとなく気分が滅入った時に元気になれるヒントが満載!
時間ができたら、ぜひとも過去ログを読んで欲しいと思いました。

こうしてずっとPCの前にいる日は、その瞬間に思ったことをふとブログに書きたくなっちゃって、またこうして書いています。
で、今何を思ったかというと、明るい気持ちを持つと、現実そのものが明るくなるってこと。
人生を作り出しているのは「気分」かもしれないって思ったわけです。
ちょっとクサクサしている人は、気分チェンジしましょう。
やり方は人それぞれかもしれないけれど、たとえば人のいない所に行って無理やり笑ってみるとかね。
どうってことないって思えるまで、無理に笑うと、そのうちそんな気分になってくる。
問題解決に深刻になるより、深刻さを吹き飛ばしてしまうほうが早道だって思いました。
それじゃ、また
笑って押してみよう
ガッハッハ、ポッチッチ
2008年05月07日
連休明け
さて、今日から仕事の人も多いでしょ。
このブログはウィークデイになると急にアクセスが増えるんですよ。
ということは、みんな会社で見ているの?
いい心がけですね
昨日は連合赤軍ネタで好き勝手書きましたが、けっこうそこから見えてきたものも多くてね。
今日から会社に出ている人の中には、イヤイヤ無理無理に身体を引きずるようにして出社した人もいるでしょ?
そういう人の中には、仕事そのものがつまらないという人や、社内の空気が嫌だと言う人もいることでしょう。

特に日本の会社組織は、その構成員にだけ通じる独自の価値観とムードがあって、そこからお互いをがんじがらめに縛りあってしまう傾向がありますよね。
それは会社だけじゃなくて、学校だったり、家族や親せき一族だったり、いろんな人間関係も同じ様な傾向に基づいています。
そのムードに馴染めない人は、自分自身を否定しなきゃいけなくて、それが原因で自分は不適応な人間だなんて決めつけたりして、生きていくのが大変になります。
不自然なのは適応できない個人じゃなくて、組織や社会のほうなのに、それ自体には客観的に自分たちを検証する能力はなくて、だからいつまでたっても独善的なまま変わらないわけです。
特に日本にはその傾向が強くて、昨日一日はまっていた連合赤軍事件なんてのは、その象徴的なできごとだと思います。
日本の組織特有の閉塞感みたいなものが、極限状態の中で常軌を逸してしまったみたいなね。
適応していないんじゃないかって思い当たる人は、あまり無理しないで、自分を責めたり否定したりしないで下さいね。
自分には独自の価値があることを忘れないで下さい。
ところで連休中は会場が使えなくて、いまここ塾を2週間もやっていないので、何だか変な感じです。
次の日曜日は西原自動車でライブ付きの講演会があるから、それまでお預けです。
この会も毎月第二日曜に開催してきて、今回で21回目です。
今日からまたメッセージを送り続けます。
支持してくれる人はポチッポチッとお願いします。

このブログはウィークデイになると急にアクセスが増えるんですよ。
ということは、みんな会社で見ているの?
いい心がけですね

昨日は連合赤軍ネタで好き勝手書きましたが、けっこうそこから見えてきたものも多くてね。
今日から会社に出ている人の中には、イヤイヤ無理無理に身体を引きずるようにして出社した人もいるでしょ?
そういう人の中には、仕事そのものがつまらないという人や、社内の空気が嫌だと言う人もいることでしょう。

特に日本の会社組織は、その構成員にだけ通じる独自の価値観とムードがあって、そこからお互いをがんじがらめに縛りあってしまう傾向がありますよね。
それは会社だけじゃなくて、学校だったり、家族や親せき一族だったり、いろんな人間関係も同じ様な傾向に基づいています。
そのムードに馴染めない人は、自分自身を否定しなきゃいけなくて、それが原因で自分は不適応な人間だなんて決めつけたりして、生きていくのが大変になります。
不自然なのは適応できない個人じゃなくて、組織や社会のほうなのに、それ自体には客観的に自分たちを検証する能力はなくて、だからいつまでたっても独善的なまま変わらないわけです。
特に日本にはその傾向が強くて、昨日一日はまっていた連合赤軍事件なんてのは、その象徴的なできごとだと思います。
日本の組織特有の閉塞感みたいなものが、極限状態の中で常軌を逸してしまったみたいなね。
適応していないんじゃないかって思い当たる人は、あまり無理しないで、自分を責めたり否定したりしないで下さいね。
自分には独自の価値があることを忘れないで下さい。
ところで連休中は会場が使えなくて、いまここ塾を2週間もやっていないので、何だか変な感じです。
次の日曜日は西原自動車でライブ付きの講演会があるから、それまでお預けです。
この会も毎月第二日曜に開催してきて、今回で21回目です。
今日からまたメッセージを送り続けます。
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2008年05月06日
夜の独り言
あっという間の一日でした。
昼食に古謝美佐子さんをお誘いして、インド料理を食べに行った以外は、ずっと家の中で過ごしました。
今日は一日「連合赤軍デー」だったようで、何をいまさらと思う人もいるかもしれませんが、そこから見えてくる人間という摩訶不思議な生き物の姿があるのです。
興味のない人はまたスルーしてください。
何事も「これはこうだ!」と決められない最たるものが「人間」。
たとえば昼間書いた、連合赤軍事件の責任者たちのゆがんだ人間性は、彼ら特有のものではなく、僕のなかにもあるってことです。
それが特殊な条件下で発揮されてしまう。
どの時点で発揮されるのか、あるいは発揮されないのか、その条件が違うだけかもしれません。
これは、いまだにタブー視されているオウム事件も同じことで、社会は受け入れ難い事件を理解するために、非常に安易な結論を下してわかった様な気になっているけれど、正邪を決めつける態度から導き出される結論は、時に短絡的だということも忘れてはいけないと思います。
いけない!
言いたいことが湧き出してくる。
ここでは、それらを解明しようとすることが目的ではなく、今日は一日そんなふうに思索の中で過ごしましたという日記代わりの記事です。
明日から仕事が始まる人も多いのでしょうね。
頑張ってください。
僕たちの意識がさらにさらに高く飛翔しますように。
2008年5月6日
自宅リビングにて
昼食に古謝美佐子さんをお誘いして、インド料理を食べに行った以外は、ずっと家の中で過ごしました。
今日は一日「連合赤軍デー」だったようで、何をいまさらと思う人もいるかもしれませんが、そこから見えてくる人間という摩訶不思議な生き物の姿があるのです。
興味のない人はまたスルーしてください。
何事も「これはこうだ!」と決められない最たるものが「人間」。
たとえば昼間書いた、連合赤軍事件の責任者たちのゆがんだ人間性は、彼ら特有のものではなく、僕のなかにもあるってことです。
それが特殊な条件下で発揮されてしまう。
どの時点で発揮されるのか、あるいは発揮されないのか、その条件が違うだけかもしれません。
これは、いまだにタブー視されているオウム事件も同じことで、社会は受け入れ難い事件を理解するために、非常に安易な結論を下してわかった様な気になっているけれど、正邪を決めつける態度から導き出される結論は、時に短絡的だということも忘れてはいけないと思います。
いけない!
言いたいことが湧き出してくる。
ここでは、それらを解明しようとすることが目的ではなく、今日は一日そんなふうに思索の中で過ごしましたという日記代わりの記事です。
明日から仕事が始まる人も多いのでしょうね。
頑張ってください。
僕たちの意識がさらにさらに高く飛翔しますように。
2008年5月6日
自宅リビングにて
2008年05月06日
昼下がりの独り言
さっきの連合赤軍ネタですが、興味のない人はスル―してね。
彼らはあの時代に、あきらかな間違いを犯したと言われていました。
僕は以前から、事件の真相に興味を持ち、彼らの獄中記を読んだり、当時の世相や時代的背景を学んでみました。
実は今日も、半日そのことを考えていました。
そして得た結論。
今の時代から彼らを見直してみても、彼らはあきらかな間違いを犯したことに変わりないということ。
あの事件は最高幹部の男と女の特異な性格が引き起こしたという通説に対して、異論を唱える評論家もいますが、やはりあれはトップに君臨した彼らの歪んだ人間性が引き起こしたと見ていいと思います。
薄っぺらな観念論を振りまいた自分を、最後まで総括できなかった卑怯な人間をリーダーに据えた、悲しい出来事だったと思います。
そんな彼らを輩出した、戦後の歪んだ反日教育の影響は、今も変わらずにあります。
その現れ方が、昔は過激派として、今は誇りなき無気力人間として出ているだけです。
さて・・・寝るか。
連休最終日の、昼下がりの独り言でした。
彼らはあの時代に、あきらかな間違いを犯したと言われていました。
僕は以前から、事件の真相に興味を持ち、彼らの獄中記を読んだり、当時の世相や時代的背景を学んでみました。
実は今日も、半日そのことを考えていました。
そして得た結論。
今の時代から彼らを見直してみても、彼らはあきらかな間違いを犯したことに変わりないということ。
あの事件は最高幹部の男と女の特異な性格が引き起こしたという通説に対して、異論を唱える評論家もいますが、やはりあれはトップに君臨した彼らの歪んだ人間性が引き起こしたと見ていいと思います。
薄っぺらな観念論を振りまいた自分を、最後まで総括できなかった卑怯な人間をリーダーに据えた、悲しい出来事だったと思います。
そんな彼らを輩出した、戦後の歪んだ反日教育の影響は、今も変わらずにあります。
その現れ方が、昔は過激派として、今は誇りなき無気力人間として出ているだけです。
さて・・・寝るか。
連休最終日の、昼下がりの独り言でした。
2008年05月06日
生き様
今日もここに来てくれてありがとうございます。
前々から見たいと思っていた映画を昨日やっと見ることができました。
タイトルは「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」です。
とても心に響く映画でした。
それは監督(若松孝二)や出演者の意気込みによるところが大きいのですが、魂が存在する数少ない映画だったと思います。
映画の内容や、連合赤軍論については、軽々にここに書けないくらいの重みがあるので、ぜひご自分の目で確かめてください。
沖縄では5月9日まで桜坂劇場で上映しています。
僕は、人間が時代を作るのではなく、時代が人間を作ると思っています。
どの時代の人間も、その本質はひとつの同じものですが、生まれた時代によって(あるいは生まれた国、文化、教育、環境によって)、どのような人間にでもなるのだと思います。
もし戦争中に生まれていたら、特攻隊に志願していたかもしれませんし、少し前に生まれていたら学生運動に身を投じていたかもしれません。
いずれにしても人生に「もしも~」はないわけで、この時代に生まれ、この時代に生きていることの意味を、さらに深く見つめていきたいと思いました。
今日は連休最後の日。
また明日から、メッセージを発信していきます。
これからもよろしくお願いします。
このブログを支持してくれる人は、ポチッポチッとお願いします。
前々から見たいと思っていた映画を昨日やっと見ることができました。
タイトルは「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」です。
とても心に響く映画でした。
それは監督(若松孝二)や出演者の意気込みによるところが大きいのですが、魂が存在する数少ない映画だったと思います。
映画の内容や、連合赤軍論については、軽々にここに書けないくらいの重みがあるので、ぜひご自分の目で確かめてください。
沖縄では5月9日まで桜坂劇場で上映しています。
僕は、人間が時代を作るのではなく、時代が人間を作ると思っています。
どの時代の人間も、その本質はひとつの同じものですが、生まれた時代によって(あるいは生まれた国、文化、教育、環境によって)、どのような人間にでもなるのだと思います。
もし戦争中に生まれていたら、特攻隊に志願していたかもしれませんし、少し前に生まれていたら学生運動に身を投じていたかもしれません。
いずれにしても人生に「もしも~」はないわけで、この時代に生まれ、この時代に生きていることの意味を、さらに深く見つめていきたいと思いました。
今日は連休最後の日。
また明日から、メッセージを発信していきます。
これからもよろしくお願いします。
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2008年05月05日
若かりし頃
連休もあと2日間ですね。
いかがお過ごしでしすか。
僕はあいかわらず家の中で静かに過ごしています。
それじゃ今朝は、若いころの思い出話でもしてみます。

僕がソロデビューする1年前に、赤坂にあったグランドキャバレーでウェイター(ボーイ)をしたことがあります。
そこは3階建ての大きなキャバレーで、ステージでは豪華なショーが繰り広げられていました。
豪華なショーと思ったのは当時の印象で、余談ですが、その後パリのムーランルージュで本場のショーを見た時は、あまりのスケールの違いに驚きました。
赤坂にあったその店の名前は「ミカド」といいました。
はとバスのコースにもなっていましたから、知っている人もいるのではないでしょうか。
若き日の僕にとって、そこでの毎日は、忘れられない思い出になっています。
ソロデビューの前といっても、すでにその頃はフォークグループで一応の人気を得て、ファンもたくさんいたので、同じバイトをするにしても、もっと違う種類のものがあったのですが、いろんな世界を見てみたい好奇心から、キャバレーのボーイを選びました。
フロアーには黒服のマネージャーと、青服の主任と、えんじ色の上下を着たウェイターがいました。
大きなキャバレーだったので、ウェイターは数十人いたと思います。
そんな彼らが(僕もその中の一人です)、トレーにビールやツマミを乗せて、1階から3階までを所狭しと動き回るのです。
各テーブルには客とホステスが数人座っていて、卓上のランプが赤から青に変わると、注文の合図なので、そばにいたウェイターがすぐさま御用聞きに駆けつけます。
片膝をついて、ホステスからの注文を受けるのです。
ホステスは店の顔であり花形です。
薄暗い店内ではドレスも化粧もそれなりに見えましたが、舞台裏では、けばけばしい感じがしました、
今思えば多くは地方から上京した女性たちで、どこか素朴な感じがする人が多かったと思います。
それがいったん夜の仕事場になると、ずいぶん派手で積極的な女性に変わってしまいます。
そんなホステスと比べると、単にモノを運ぶだけのウェイターは、いくらでも変わりがいる労働者にすぎません。
注文を伝える時の彼女等は、まるで女王様のようにウェイターにふるまいます。
「ご注文は何ですか?」
「おビール追加ね」
「はい、かしこまりました」
そんな感じです。
「おまたせしました」
「そこに置いてちょうだい」
「はい」
そんな調子で無数のテーブル席を、あっちに行ったりこっちに行ったり。
ツマミを作る厨房の中のスタッフはみんな横柄で、いつも気を使いながらお願いしないと怒鳴られたりします。
ウェイターはフロアーでも厨房でも、最下級労働者なのです。
そんな店内で、忘れられない瞬間がありました。
数多くのホステスの中にただひとり、注文を取りに行ったり、ビールを運んだりする度に
「ありがとう」
と声をかけてくれた女性がいたのです。
もちろん僕にだけでなく、すべてのウェイターにそんな声をかけてくれました。
それが何故か嬉しくて・・・すごく嬉しくて・・・
今思えば20代後半の人だったと思いますが、当時の僕からはずいぶんと大人の女性に見えました。
数か月のバイト期間で、その女性に当たったのは数えるくらいだったと思いますが、毎回「ありがとう」の一言をかけてくれました。
実はそれから今日まで、僕にも習慣ができてしまいました。
それはどんな店に入っても、たとえ水のお代わりを頼んだ時も、必ず相手に「ありがとう」の声をかけるようになったのです。
人生での習慣って、そんなふうに人それぞれが作り出すものなのでしょうね。
僕はその数ヶ月間にたくさんの曲を作りました。
その中にはアイドルや人気歌手に採用されたものもあり、その作曲料で生活できる見通しがついたので、意外に早くバイトを辞めることができました。
トレーを持って歩きまわりながら、頭の中ではメロディーや詩を創り出していました。
何事も時間がないからできないというのは言い訳で、やる気になればどんな環境でも事は成せるということを学んだのもその時期です。
そうやって当時の思い出に浸ってみると、よく頑張ったなと思います。
今の僕は、その頃の僕に食べさせてもらっているのかもしれません。
今日は僕の思い出話に付き合ってくれてありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
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いかがお過ごしでしすか。
僕はあいかわらず家の中で静かに過ごしています。
それじゃ今朝は、若いころの思い出話でもしてみます。

僕がソロデビューする1年前に、赤坂にあったグランドキャバレーでウェイター(ボーイ)をしたことがあります。
そこは3階建ての大きなキャバレーで、ステージでは豪華なショーが繰り広げられていました。
豪華なショーと思ったのは当時の印象で、余談ですが、その後パリのムーランルージュで本場のショーを見た時は、あまりのスケールの違いに驚きました。
赤坂にあったその店の名前は「ミカド」といいました。
はとバスのコースにもなっていましたから、知っている人もいるのではないでしょうか。
若き日の僕にとって、そこでの毎日は、忘れられない思い出になっています。
ソロデビューの前といっても、すでにその頃はフォークグループで一応の人気を得て、ファンもたくさんいたので、同じバイトをするにしても、もっと違う種類のものがあったのですが、いろんな世界を見てみたい好奇心から、キャバレーのボーイを選びました。
フロアーには黒服のマネージャーと、青服の主任と、えんじ色の上下を着たウェイターがいました。
大きなキャバレーだったので、ウェイターは数十人いたと思います。
そんな彼らが(僕もその中の一人です)、トレーにビールやツマミを乗せて、1階から3階までを所狭しと動き回るのです。
各テーブルには客とホステスが数人座っていて、卓上のランプが赤から青に変わると、注文の合図なので、そばにいたウェイターがすぐさま御用聞きに駆けつけます。
片膝をついて、ホステスからの注文を受けるのです。
ホステスは店の顔であり花形です。
薄暗い店内ではドレスも化粧もそれなりに見えましたが、舞台裏では、けばけばしい感じがしました、
今思えば多くは地方から上京した女性たちで、どこか素朴な感じがする人が多かったと思います。
それがいったん夜の仕事場になると、ずいぶん派手で積極的な女性に変わってしまいます。
そんなホステスと比べると、単にモノを運ぶだけのウェイターは、いくらでも変わりがいる労働者にすぎません。
注文を伝える時の彼女等は、まるで女王様のようにウェイターにふるまいます。
「ご注文は何ですか?」
「おビール追加ね」
「はい、かしこまりました」
そんな感じです。
「おまたせしました」
「そこに置いてちょうだい」
「はい」
そんな調子で無数のテーブル席を、あっちに行ったりこっちに行ったり。
ツマミを作る厨房の中のスタッフはみんな横柄で、いつも気を使いながらお願いしないと怒鳴られたりします。
ウェイターはフロアーでも厨房でも、最下級労働者なのです。
そんな店内で、忘れられない瞬間がありました。
数多くのホステスの中にただひとり、注文を取りに行ったり、ビールを運んだりする度に
「ありがとう」
と声をかけてくれた女性がいたのです。
もちろん僕にだけでなく、すべてのウェイターにそんな声をかけてくれました。
それが何故か嬉しくて・・・すごく嬉しくて・・・
今思えば20代後半の人だったと思いますが、当時の僕からはずいぶんと大人の女性に見えました。
数か月のバイト期間で、その女性に当たったのは数えるくらいだったと思いますが、毎回「ありがとう」の一言をかけてくれました。
実はそれから今日まで、僕にも習慣ができてしまいました。
それはどんな店に入っても、たとえ水のお代わりを頼んだ時も、必ず相手に「ありがとう」の声をかけるようになったのです。
人生での習慣って、そんなふうに人それぞれが作り出すものなのでしょうね。
僕はその数ヶ月間にたくさんの曲を作りました。
その中にはアイドルや人気歌手に採用されたものもあり、その作曲料で生活できる見通しがついたので、意外に早くバイトを辞めることができました。
トレーを持って歩きまわりながら、頭の中ではメロディーや詩を創り出していました。
何事も時間がないからできないというのは言い訳で、やる気になればどんな環境でも事は成せるということを学んだのもその時期です。
そうやって当時の思い出に浸ってみると、よく頑張ったなと思います。
今の僕は、その頃の僕に食べさせてもらっているのかもしれません。
今日は僕の思い出話に付き合ってくれてありがとうございました。
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2008年05月04日
5月4日の日記
昨日は復活記念ライブの二日目。
本当に楽しくて、僕自身がまだ昨夜の余韻に浸っています。
30年近く前に深夜放送をしていて、それが沖縄でもネットしていて、そのころ中高生だった人たちが今でも支えてくれて、新しく僕を知った人たちもたくさんいて、なんとまあ僕は幸せ者だろうってしみじみと思うわけです。
もともと歌うことに自信があったわけではなく、単なる憧れで入ってしまった世界だったので、才能のあるアーティストを横目で見ながら、いつまでもこんな仕事は続けられないなって思っていました。
それである日突然「もうやーめた」ってなるわけです。
現役時代は大した活躍をしなかったのに、今頃になって毎回満員のお客さんの前で歌えることは奇跡だと思っています。
長い人生の中で多くの出来事がありましたが今が一番幸せで充実しています。
僕は沖縄に来て本当によかったです。
沖縄の人たちの温かさに心の芯から癒されました。
この7年間で僕はずいぶん変わったと思います。
このご縁に感謝しながら、これからもこの島からメッセージを発信していきます。
ありがとうございました。
人気投票をありがとうございます。
おかげでたくさんの人に見てもらえています。
本当に楽しくて、僕自身がまだ昨夜の余韻に浸っています。
30年近く前に深夜放送をしていて、それが沖縄でもネットしていて、そのころ中高生だった人たちが今でも支えてくれて、新しく僕を知った人たちもたくさんいて、なんとまあ僕は幸せ者だろうってしみじみと思うわけです。
もともと歌うことに自信があったわけではなく、単なる憧れで入ってしまった世界だったので、才能のあるアーティストを横目で見ながら、いつまでもこんな仕事は続けられないなって思っていました。
それである日突然「もうやーめた」ってなるわけです。
現役時代は大した活躍をしなかったのに、今頃になって毎回満員のお客さんの前で歌えることは奇跡だと思っています。
長い人生の中で多くの出来事がありましたが今が一番幸せで充実しています。
僕は沖縄に来て本当によかったです。
沖縄の人たちの温かさに心の芯から癒されました。
この7年間で僕はずいぶん変わったと思います。
このご縁に感謝しながら、これからもこの島からメッセージを発信していきます。
ありがとうございました。
人気投票をありがとうございます。
おかげでたくさんの人に見てもらえています。
2008年05月03日
願望実現 2
昨日は7周年記念ライブに来てくれてありがとうございました。
昨日やりながら気づいたことですが、若い頃はこんなに楽しくなかったなって。
一番の理由は、心を開けるようになったことだと思います。
幸せって、心を開くことかもしれませんね。

心を開けるようになったのは、この世には「自分」しか存在していないって感じるようになったからだと思います。
ここで言う「自分」とは、自我のことではなくて、僕を生かしている「存在」のことです。
僕の中から外を見ている存在と、あなたの中から外を見ている存在が、違う装いをした同じものだということに気づいたのです。
全てはひとつであり、それは「あなた自身」です。
このことを理解するのは、なぜ願望が実現するのかを知る手がかりになります。
自分が宇宙の源泉だと気づけば、現実を作り出しているのは自分だと容易にわかるからです。
さて昨日の続きですが、願望は願望自らの中にそれを実現しようという意思を含んでいます。
宇宙というのは創造性に溢れた意識であり、それは自分の意識に直結しています。
その意識の中に何かしらの考えを持てば、その考えは現象化していきます。
たとえば僕は今、ブログを書こうという考えを持って、パソコンの前で湧き出す文章をタイプしています。
どこから湧き出してくるのか、もしこれが頭の中からだったら、いちいち言葉を整理して記憶を手繰らなければなりません。
しかし実際には次々に湧きだす言葉をただタイプしています。
これも願望が自然に実現しようとしている例です。
歌を歌う時も同じです。
歌っている最中は、次の音が何の音だとか、楽器のどこを押さえるとか、まったく意識していません。
歌っている自分がいなくなって、ただ歌だけが流れていることもしばしばです。
そこに自意識を持ち込むと事はやっかいになります。
このブログの文章も面白くなくなるでしょうし、歌も不自然になると思います。
願望自らが持つ実現しようという意思を妨げないことが、素晴らしい結果を生む秘訣ではないでしょうか。
簡単な言い方をすれば、願いを持ったら、あとは流れに任せるのです。
それを妨げるものは何かと言えば、「こうなったらどうしよう」「叶わなかったらどうしよう」「うまくやらなきゃ」という、結果に対する執着や心配です。
このネガティブな気持ちが事を妨げていて、多くの場合、無意識にこの状態を生きてしまいます。
「自分がやらなければ」という思いには限界があるのです。
今日の最後は小話にします。
ムカデ君の話です。
ムカデ君は百本もの足を見事に動かしながら歩いていました。
その足の運びは完ぺきでした。
ある時、他の昆虫がムカデ君に言いました。
「君はすごいね。僕なんか6本の足を動かすのに精いっぱいなのに、君は百本もの足を使って歩いている。いったいどうやって制御しているんだい?」
それを聞いてムカデ君は考えました。
「確かに僕の足は百本もある。いったい今までどうやって交互に出していたんだろう。順番は決めていただろうか。もし注意しないで歩いたら足がこんがらがってしまうかもしれない。気をつけなきゃ」
それからのムカデ君は一本一本の足に注意を向けて、失敗しないように歩こうと心掛けました。
まずは右の1本目の足、次は左の2本目の足、同時に右の8本目と14本目の足・・・・
その結果どうなったか・・・
かわいそうなムカデ君
今日の一言。
願望は自然に実現するのです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
楽しい連休をお過ごしください。
このブログを支持してくれる人はボタンを押してください。

沖縄WEBマガジンryuQに、僕のインタビュー記事が載っています。
こちらから入れます。
http://ryuqspecial.ti-da.net/
昨日やりながら気づいたことですが、若い頃はこんなに楽しくなかったなって。
一番の理由は、心を開けるようになったことだと思います。
幸せって、心を開くことかもしれませんね。

心を開けるようになったのは、この世には「自分」しか存在していないって感じるようになったからだと思います。
ここで言う「自分」とは、自我のことではなくて、僕を生かしている「存在」のことです。
僕の中から外を見ている存在と、あなたの中から外を見ている存在が、違う装いをした同じものだということに気づいたのです。
全てはひとつであり、それは「あなた自身」です。
このことを理解するのは、なぜ願望が実現するのかを知る手がかりになります。
自分が宇宙の源泉だと気づけば、現実を作り出しているのは自分だと容易にわかるからです。
さて昨日の続きですが、願望は願望自らの中にそれを実現しようという意思を含んでいます。
宇宙というのは創造性に溢れた意識であり、それは自分の意識に直結しています。
その意識の中に何かしらの考えを持てば、その考えは現象化していきます。
たとえば僕は今、ブログを書こうという考えを持って、パソコンの前で湧き出す文章をタイプしています。
どこから湧き出してくるのか、もしこれが頭の中からだったら、いちいち言葉を整理して記憶を手繰らなければなりません。
しかし実際には次々に湧きだす言葉をただタイプしています。
これも願望が自然に実現しようとしている例です。
歌を歌う時も同じです。
歌っている最中は、次の音が何の音だとか、楽器のどこを押さえるとか、まったく意識していません。
歌っている自分がいなくなって、ただ歌だけが流れていることもしばしばです。
そこに自意識を持ち込むと事はやっかいになります。
このブログの文章も面白くなくなるでしょうし、歌も不自然になると思います。
願望自らが持つ実現しようという意思を妨げないことが、素晴らしい結果を生む秘訣ではないでしょうか。
簡単な言い方をすれば、願いを持ったら、あとは流れに任せるのです。
それを妨げるものは何かと言えば、「こうなったらどうしよう」「叶わなかったらどうしよう」「うまくやらなきゃ」という、結果に対する執着や心配です。
このネガティブな気持ちが事を妨げていて、多くの場合、無意識にこの状態を生きてしまいます。
「自分がやらなければ」という思いには限界があるのです。
今日の最後は小話にします。
ムカデ君の話です。
ムカデ君は百本もの足を見事に動かしながら歩いていました。
その足の運びは完ぺきでした。
ある時、他の昆虫がムカデ君に言いました。
「君はすごいね。僕なんか6本の足を動かすのに精いっぱいなのに、君は百本もの足を使って歩いている。いったいどうやって制御しているんだい?」
それを聞いてムカデ君は考えました。
「確かに僕の足は百本もある。いったい今までどうやって交互に出していたんだろう。順番は決めていただろうか。もし注意しないで歩いたら足がこんがらがってしまうかもしれない。気をつけなきゃ」
それからのムカデ君は一本一本の足に注意を向けて、失敗しないように歩こうと心掛けました。
まずは右の1本目の足、次は左の2本目の足、同時に右の8本目と14本目の足・・・・
その結果どうなったか・・・
かわいそうなムカデ君

今日の一言。
願望は自然に実現するのです。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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沖縄WEBマガジンryuQに、僕のインタビュー記事が載っています。
こちらから入れます。
http://ryuqspecial.ti-da.net/
2008年05月02日
願望実現
今日は僕とって特別な日です。
それは7年前、沖縄で十数年ぶりにコンサートを開いた日だからです。
20代の現役のころ、僕はあまりライブ活動をしませんでした。
唯一東京近郊と沖縄だけが僕の活動の場でした。
その沖縄で再び歌うようになったのは、僕の計画ではありません。
しかし、そうしたいという願望は心の底に密かに持ち運んでいたものだったのです。

今から20年近く前に、その頃の願望を描いた2枚の絵があります。
この先、自分がどんな生活や活動をしたいかという夢を描いた絵です。
後にも先にも、このような絵を描いたことがないのですが、そこに描かれた理想の現実は、細部にわたって全て実現しています。
南の島
海の見える家
自由な生活
愛する家族
愛する仲間たち
レコーディングルーム
メッセージを歌うコンサート
講演会
多くの聴衆
・・・・ETC.
それを描いた時は、何一つ持っていませんでしたし、どのようにしてそれが実現するのか、わずかな可能性さえ見つけることができませんでした。
その後は、絵を描いたことさえも忘れていて、それを実現するために必死になって努力したとか、現実をコントロールしたとことも一切ありません。
それは自然に実現したのです。
このことからはっきりわかることがあります。
願望とは、それ自体の中に実現しようという意思が隠されているということです。
それを実現させる秘訣は、その意思を邪魔しないことです。
そんな簡単なこと?
そう、そんなに簡単なことなのです。
これが今日お伝えしたかった結論です。
願望は自然に実現する。
そう聞いても、にわかに信じられない人のほうが多いでしょう。
自分がたまたまうまくいったからといって、それが願望実現の秘訣などと断定するのはおかしいと思う人もいるかもしれません。
そんなに簡単に願望が叶うなら、みんながそれを叶えているじゃないかって。
信じる信じないは自由ですが、僕は自分の身に起きた真実をみなさんと分かち合いたいと思っています。
今書きながら感じているのは、この仕組みの全貌を書き現すのは今日一日ではとても無理だということです。
少しでも納得してもらうために、様々な角度から、整合性のある説明を重ねていく必要があるでしょう。
僕がここでお伝えしたいことは、僕が生きている間に自分の一人息子に伝授しておきたいことが多く含まれています。
このことも、その一つです。
今日は僕にとっては記念すべき日です。
今から静かな時間を過ごして、ギターやピアノと一緒にいたいと思います。
また明日から、この続きを書いていきます。
今回お伝えしたい話は、僕たちが現実と呼んでいる世界だけのことではなく、いわゆるスピリチュアルな世界、彼方なる次元に関わる話でもあります。
そのヒントになる言葉が聖書にも書かれています。
今日はその言葉を紹介して終わることにします。
空の鳥をよく見なさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、望みはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
(マタイ伝6章より)
多くの人に届きますように、ご協力お願いします。
それは7年前、沖縄で十数年ぶりにコンサートを開いた日だからです。
20代の現役のころ、僕はあまりライブ活動をしませんでした。
唯一東京近郊と沖縄だけが僕の活動の場でした。
その沖縄で再び歌うようになったのは、僕の計画ではありません。
しかし、そうしたいという願望は心の底に密かに持ち運んでいたものだったのです。

今から20年近く前に、その頃の願望を描いた2枚の絵があります。
この先、自分がどんな生活や活動をしたいかという夢を描いた絵です。
後にも先にも、このような絵を描いたことがないのですが、そこに描かれた理想の現実は、細部にわたって全て実現しています。
南の島
海の見える家
自由な生活
愛する家族
愛する仲間たち
レコーディングルーム
メッセージを歌うコンサート
講演会
多くの聴衆
・・・・ETC.
それを描いた時は、何一つ持っていませんでしたし、どのようにしてそれが実現するのか、わずかな可能性さえ見つけることができませんでした。
その後は、絵を描いたことさえも忘れていて、それを実現するために必死になって努力したとか、現実をコントロールしたとことも一切ありません。
それは自然に実現したのです。
このことからはっきりわかることがあります。
願望とは、それ自体の中に実現しようという意思が隠されているということです。
それを実現させる秘訣は、その意思を邪魔しないことです。
そんな簡単なこと?
そう、そんなに簡単なことなのです。
これが今日お伝えしたかった結論です。
願望は自然に実現する。
そう聞いても、にわかに信じられない人のほうが多いでしょう。
自分がたまたまうまくいったからといって、それが願望実現の秘訣などと断定するのはおかしいと思う人もいるかもしれません。
そんなに簡単に願望が叶うなら、みんながそれを叶えているじゃないかって。
信じる信じないは自由ですが、僕は自分の身に起きた真実をみなさんと分かち合いたいと思っています。
今書きながら感じているのは、この仕組みの全貌を書き現すのは今日一日ではとても無理だということです。
少しでも納得してもらうために、様々な角度から、整合性のある説明を重ねていく必要があるでしょう。
僕がここでお伝えしたいことは、僕が生きている間に自分の一人息子に伝授しておきたいことが多く含まれています。
このことも、その一つです。
今日は僕にとっては記念すべき日です。
今から静かな時間を過ごして、ギターやピアノと一緒にいたいと思います。
また明日から、この続きを書いていきます。
今回お伝えしたい話は、僕たちが現実と呼んでいる世界だけのことではなく、いわゆるスピリチュアルな世界、彼方なる次元に関わる話でもあります。
そのヒントになる言葉が聖書にも書かれています。
今日はその言葉を紹介して終わることにします。
空の鳥をよく見なさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、望みはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
(マタイ伝6章より)
多くの人に届きますように、ご協力お願いします。
2008年05月01日
Let it be
昨日、僕たちが他者の目を気にして生きている話をしましたが、それも含めて日々の生活の中には、なんやかんや煩わしいことや、悩み事があふれていたりしますね。
そうやって心をすり減らして生きている人もいますが、でもどんな人も本当は凄い存在で、凄い力によって生かされているってことを忘れちゃいけないと思います。
よくよく考えてみると、僕たちがいまこうして生きていること自体が、奇跡中の奇跡です。
命を育む地球という星の存在も奇跡なら、そこに暮らす我々一人ひとりの肉体も奇跡です。
今日はちょっとそんな観点から話をさせてください。

僕たちの体は、100兆個にもおよぶ細胞でできていて、その一つひとつが互いに連携しあい、摩擦も混乱もなく、刻々と生命活動を続けています。
100兆個ですよ
それを数字で表すと100.000.000.000.000個です。
しかも個々の細胞に違った役目があります。
その一つひとつの中には、遺伝子の情報がそれぞれ組み入れられていて、その情報に基づいて、あるものは髪の毛に、あるものは目に、あるものは心臓になって・・・
僕らは母親の胎内で、気が遠くなるような複雑でしかも整然としたプロセスを経て、いまこうして身体を得て生きているわけです。
そんな超複雑な自分の肉体を作るのに、僕ら側が何をしたかと言うと、実際には何もしていません。
全て彼方なる力によって作られました。
これこそが「生かされている」ということです。
で、何を言いたいのかと言うと、「自分」が奮闘して生きていると思うから心労を抱えるのだと思うのです。
実はやっているのはあなたではなく、事は起きているんです。
人生に最も大切なことは、それを起こしている大いなる力を信頼することだと思います。
その大いなる力は、100兆個の細胞の一つひとつを見届けているように、我々一人ひとりのことも完全に見つめています。
こうやって言葉にしてしまうと「そんなバカな」と思ってしまいますが、実際に今この瞬間も、あなたのことを100%見つめ、大いなる視点から守ってくれています。
ところが僕たちは、その見えない力の存在を信頼できないので、「自分」がなんとかしなきゃって思ってしまうのです。
それが自我(エゴ)と呼ばれるものです。
それは疑うことしか知らずに、信頼することができません。
自我(エゴ)自体があらゆる苦しみの原因なのに、あらゆる苦しみを自分の外側の責任にして、それを解決するために頑張っているつもりになっています。
ちょうど一つの細胞が、体全体を自分の意のままに変えようとして奮闘しているみたいなものです。
100兆個の細胞を完璧に動かしている存在に、お任せしてみましょう。
そうすれば、ことは収まる所に収まります。
僕は小さな問題を深刻に考えだしてしまったときなどは、そのことを思い出して、気持ちを緩めて、天にお任せするようにしています。
すると、自分が奮闘していた時よりも、ずっと素晴らしい結果が起こり出すのです。
「思し召すままに」
「Let it be」
次回はこの観点から、願望が自然に叶っていく仕組みを解説してみます。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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そうやって心をすり減らして生きている人もいますが、でもどんな人も本当は凄い存在で、凄い力によって生かされているってことを忘れちゃいけないと思います。
よくよく考えてみると、僕たちがいまこうして生きていること自体が、奇跡中の奇跡です。
命を育む地球という星の存在も奇跡なら、そこに暮らす我々一人ひとりの肉体も奇跡です。
今日はちょっとそんな観点から話をさせてください。

僕たちの体は、100兆個にもおよぶ細胞でできていて、その一つひとつが互いに連携しあい、摩擦も混乱もなく、刻々と生命活動を続けています。
100兆個ですよ

それを数字で表すと100.000.000.000.000個です。
しかも個々の細胞に違った役目があります。
その一つひとつの中には、遺伝子の情報がそれぞれ組み入れられていて、その情報に基づいて、あるものは髪の毛に、あるものは目に、あるものは心臓になって・・・
僕らは母親の胎内で、気が遠くなるような複雑でしかも整然としたプロセスを経て、いまこうして身体を得て生きているわけです。
そんな超複雑な自分の肉体を作るのに、僕ら側が何をしたかと言うと、実際には何もしていません。
全て彼方なる力によって作られました。
これこそが「生かされている」ということです。
で、何を言いたいのかと言うと、「自分」が奮闘して生きていると思うから心労を抱えるのだと思うのです。
実はやっているのはあなたではなく、事は起きているんです。
人生に最も大切なことは、それを起こしている大いなる力を信頼することだと思います。
その大いなる力は、100兆個の細胞の一つひとつを見届けているように、我々一人ひとりのことも完全に見つめています。
こうやって言葉にしてしまうと「そんなバカな」と思ってしまいますが、実際に今この瞬間も、あなたのことを100%見つめ、大いなる視点から守ってくれています。
ところが僕たちは、その見えない力の存在を信頼できないので、「自分」がなんとかしなきゃって思ってしまうのです。
それが自我(エゴ)と呼ばれるものです。
それは疑うことしか知らずに、信頼することができません。
自我(エゴ)自体があらゆる苦しみの原因なのに、あらゆる苦しみを自分の外側の責任にして、それを解決するために頑張っているつもりになっています。
ちょうど一つの細胞が、体全体を自分の意のままに変えようとして奮闘しているみたいなものです。
100兆個の細胞を完璧に動かしている存在に、お任せしてみましょう。
そうすれば、ことは収まる所に収まります。
僕は小さな問題を深刻に考えだしてしまったときなどは、そのことを思い出して、気持ちを緩めて、天にお任せするようにしています。
すると、自分が奮闘していた時よりも、ずっと素晴らしい結果が起こり出すのです。
「思し召すままに」
「Let it be」
次回はこの観点から、願望が自然に叶っていく仕組みを解説してみます。
今日もここに来てくれてありがとうございました。
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